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「科学都市『シントーキョー』……」
口の中で何度もつぶやく。
聞いたことのないはずの名前なのに、どこか懐かしいような響きがした。
科学都市、というからには科学文明が発達しているのだろう。科学といえば、ユウト自身についている黑腕やレイの白眼、そしてなによりシンクの存在自体が科学の叡智の結晶だ。
まさかシンクのような不死の人工生命体がたくさんいるとは考えられないけど、いままで見たことのないような物がたくさんあるに違いない。
そこから来たというニコ。あまり良い思い出はなさそうだったが、そこに行けばユウトたちが探している残り二つの【霊王の五躰】もあるのではないだろうか。
「その科学都市って、どうやって――」
ユウトが言いかけた時だった。
ずん、と腹に響く音と同時に地面がかすかに揺れた。
その直後、高い鐘の音が連続して鳴る。耳に残る高音で、あきらかに食料配給の時とは違った音色だった。
「臨敵警鐘!?」
ニコが驚いた顔で窓の外を見る。
ここからじゃ何も見えない。
「お兄さん、玄関の鍵しめてきて!」
ニコが急いで窓を閉めて鍵をかけ、別の部屋に向かった。何が起こってるのかよくわからないが、ニコの様子を見る限りただ事じゃなさそうだった。
言われた通りに入口を閉ざして窓という窓を閉め、空気どころか灯りすら入らないように閉鎖していった。その間にも、遠くで何か大きなものが落ちるような振動が絶え間なく続いていた。
怯えた様子のニコが戻ってくると、ユウトはすぐに聞いた。
「これ、なに?」
「ええと……都市内部に、敵が入り込んだみたいです。たぶん」
「たぶん?」
「あの、ええと、はい。聞いてはいたんですけど、あたしも警鐘は初めてで……とにかく、テロ対策で、警鐘が解除されるまでは家のなかから出てはいけないって」
薄暗くなった部屋で、ニコは不安そうに膝を抱えた。
その手がかすかに震えている。
「……怖い?」
「そんなことは――」
と、顔を上げたニコは少し沈黙を挟んでから唇を噛んだ。
震える手に、自分の手を重ねてまた目を伏せた。
「……すみません。怖い、です。こんなときに、怖いんです」
「仕方ないよ。平和が乱されて、脅威が近くにあるのは、誰だって怖い」
初めて鎧獣と向き合ったときのことを、思い出した。
必死に恐怖をかき消さなければ、隣に誰かがいなければ、きっと足が竦んで死んでいただろう。
怖がることは悪いことじゃない。
だが、ニコはそうじゃないんです、と首を振った。
いまにも泣きそうな顔で。
「敵が、恐ろしい誰かが来るのが怖いんじゃないんです……あたし、ほんとに、もうどうしようもないんです。暴力よりも、血を流すことよりも、怖いんです……想像しただけで、震えが止まらない……」
「いったい何が、」
「け、警鐘が解除されなければ、配給が止まったままなんです」
ニコは笑った。
悲しいくらいに空虚な笑みだった。その目から涙を流していることなんて、自分じゃ気づいていないようで。
「誰かが血を流すより、最悪殺されるかもしれないっていうのに……配給のパンが食べられないのが怖いん、です。い……嫌に、なっちゃいますよね。ええ。あたしでもそう思います。手の震えが、止まらないんです。パンを食べないと、パンを食べないと、って、あたしの中で誰かが叫ぶんです……自分じゃない誰かが、叫ぶんです……自分じゃない誰かが、出てくるのを、あたし、必死に抑えてて……いまも、誰かが……誰かが……ッ!?」
歯をガチガチと鳴らし始めた。
――狂気がくる。
何度か目にしたニコの狂気の気配がした。
ユウトはとっさに視線を走らせる。配給のパンは食べてしまった。警鐘が解除されるまで手に入らない。代用品は、持ってきた物の中にはない。
「あ、あ……いや……あたし、あたしじゃない……」
どうする。どうすればいい。
壁に背をつけて、虚空を見てつぶやき続けるニコ。まだ自分で自分の体を傷つけてはいないけど、すでにユウトのことは視界に入っていないようだった。
自傷行為も、発狂も時間の問題だった。
でも、どうしていいかもわからない。
「……ごめん」
ユウトはすぐに彼女に近づいて横から拘束する。暴れられる前に関節を固め、また首を押さえて意識を絶った。
ぐったりと気を失ったニコ。
改めて、麻薬というものの恐ろしさを感じた。
「……ひとまず、縛っておくしかないか」
鞄のなかから頑丈な布を取り出して、ニコの手を後ろで縛っておいた。これで目が覚めても自傷行為はできないはずだ。
薬を体から抜く方法なんて、あるのだろうか。
ユウトには知識がなさすぎた。ニコにしてやれることなんてほひとつも思いつかなかった。涙で頬を濡らして眠るニコの横顔を見てると、まざまざとその事実を突きつけられているようで、胸が息苦しくなる。
おまえは無力だと、そう冷たく言われている気がした。何度経験しても慣れないことだった。
結局できることはその場しのぎだけだ。
「配給を、止めちゃだめだ」
都市の中で、ニコと同じように幻覚や幻聴に悩まされている人はたくさんいるだろう。あるいはその気力もなく眠るように一日を過ごす人だって多いに違いない。
ただそれは、定期的な配給があるからその程度だともいえる。
もし配給が一時的にも止まってしまえば、飢えた人々はどうなるか。倫理と道徳に遮られることなく、狂気へ身を委ねた群衆がどうなるのか。
考えただけでも恐ろしかった。
ユウトは息をついて、立ち上がった。
穏やかに眠るレイの顔をちらりと見てから、部屋を――家を出た。
「……こっちか」
断続的な揺れと音の方角へ顔を向けて、ユウトは歩きだした。
都市の脅威が入り込んでいるのなら、その脅威を排除すればいい。
それが近道だと、そう判断したのだった。
楽園都市バラギには内壁が二つあった。
ひとつは貴族街と平民街を隔てる高い壁。そしてもうひとつは、塔とその周辺を囲んでいる低い壁だった。
高い壁は平民街からも階段がついており、中に入ることは造作もなかった。防衛というよりは、明確に区分けをしている役割というほうが正しいだろう。もっとも、壁の高さを考えると昔はそうじゃなかったとは思うが。
貴族街も平民街と同じような様相だった。
静寂が支配し、さらに警鐘の影響でほとんどの家が窓も閉めてしまっている。中を伺う気はないが、警邏の巡回すらないのは不気味ですらあった。
都市の中へ中へ進んでいくのは簡単だった。誰もが閉じ籠った街を歩いていると、自分という存在はどこか浮いているような気がしてならなかった。
ユウトが近づくたびに増しているのは、何かがぶつかる音だった。
それは貴族街のさらに奥――塔のふもとにある壁の中から聞こえていた。平民街まで響くその轟音。
ユウトが内壁に飛び乗ったとき、その正体がわかった。
「――なっ!?」
そこは広場のような何もない、おそらく石畳の空間だった。
おそらく、というのはその空間の地面が原型を留めてなかったからだ。誰の目に見ても明らかに、広場は巨大な足に踏み潰されたような、あるいは空から樹氷が降りそそぎ尽くしたような、そんな破壊の跡が埋め尽くしていた。
そしてその石畳の残骸には、余すところのない赤い液体がこびりついていた。
鼻につく独特な匂い。間違いなく血だ。
「……なんだ、これ……」
口許を押さえて顔をゆがめたユウトの視界に、誰かが映る。
塔の入口――そのすぐ前に、一人の少年がいた。
ボサボサの青い髪をした少年だった。
両腕の肩から手先まで銀色の防具を着けただけで、上半身はほとんど裸の少年だった。動きやすそうなズボンは履いているものの、かなり薄着だ。だが、少年の周囲には炎のような蜃気楼のゆらめきが起こっていた。
「あァ? もう終わりか?」
少年が睨みつけているのは、ユウトが立つ壁のすぐ下――ユウトの足もとだった。
「シンク!?」
そこで壁に叩きつけられて体半分埋まっていたのは、紛れもなくシンクだった。
合成石をパラパラと落としながら、張りついた体を無理やり引き剥がす。よく見れば壁はクレーターのようにへこんでいて、シンクがそこに叩きつけられたのがわかった。
「ユウト、来てしまいましたか」
シンクがユウトに気付いて首を上げた。
服がボロボロだった。それもまるで、何度も何度も叩きつけられて擦り切れたような有り様で。
「下がっててください。もう少しで糸口が見つかりそうなんです。決して来てはいけませんよ。最悪死にます」
そう言って壁から地面に降り、膝を曲げたシンク。
「……まさか」
ユウトは息を呑む。
何度も何度も強い力で何かを叩きつけたような地面のクレーター。飛び散る血の量が凄まじいのに、一つも転がっていない死体。
その答えはひとつだった。
「では、行きます」
「なんべんやっても同じだぜ女ァ!」
シンクが地を蹴り、少年が吠えた。
ナノマシンと人工筋肉で構成されるシンクの体は、細くても強い。目にもとまらぬ速さで駆ける少女は金色の矢のように少年に迫る。
だが。
「しゃらくせぇ!」
少年が吠えた。
その直後、シンクが何か巨大なモノに突き飛ばされたかのように、走る速度をはるかに超える勢いで跳ね返ってきた。
そのままユウトのそばの壁に激突する。轟音をたてて合成石の壁が沈み、まるで果実が潰れたかのようにシンクの血肉が飛び散った。
「――シンク!」
「大丈夫。私は不死です」
直後、壁に埋もれた状態のまま再生される肉体。数秒もたたずに五体満足でまた同じ姿に戻った。
「もう少し、変化をつけたほうがいいみたいですね」
「ちょ、ちょっとまって!」
また突撃するような構えを見せたシンクを、慌てて止める。
シンクが振り返って首をひねった。
「どうしましたか?」
「どうしたもこうしたもないって! なにこの状況!?」
少年に突撃して返り討ちにあう。それを繰り返し続けているようにしか見えない。
何がどうなっているのか説明が欲しかった。
シンクはユウトの疑問に納得したのか、少年を向いて声を張った。
「すみません。少し休息をとらせてもらってもいいですか?」
「あァ!? なに言ってんだてめェ!」
少年が目を吊り上げて叫んだ。
そりゃそうだ。
どう見ても敵対してる相手に、休息を求めるなんてことが――
「いいに決まってんだろ! ブラック企業じゃねえんだからよォ!」
「いいのかよ!?」
つい突っ込んでしまった。聞き慣れない単語は無視する。
するとここでようやく少年がユウトに視線を合わせた。
ボサボサの青い髪に、銀色の瞳。ユウトと同じか少し年下にも見えるその少年は、唇の端から鋭い犬歯を覗かせて不敵に笑った。
「おゥおゥ、またべっぴんがお出ましかァ? どうしたどうした、いつからここァハーレムになったってんだ。こりゃァ楽園都市の面目躍如じゃねえかァ」
どことなく嬉しそうな気配。
だがその視線は鋭いまま、微塵も隙を見せるような様子はなかった。
あまりにも戦闘慣れしすぎている――そんな印象の少年だった。
「……あいつは?」
ユウトはシンクに聞く。
シンクから返事が来る前に、少年が声を張り上げた。
「おいおい、自己紹介くらい自分でさせろよべっぴん二号!」
かなり小声で聞いたはずなのに、たいした地獄耳だ。
ユウトが驚いていると、少年は両手の拳を合わせた。
防具でガチンと音を鳴らす。
威嚇するように、あるいはその力強さを誇示するように。
「オレァ、楽園都市の〝番長〟、デルタ・ラッセルアロウ。憶えておいて損はねェぜ」




