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ゴート=レイトの邸宅は、貴族街の隅に建っていた。
要塞都市には多くの脅威が存在している。都市外園部の空から墜ちてくる樹氷、鋼の剣をもってしても斬ることができない鎧獣、そして農園区域を狙う都市内外の者たち。
氷の世界から身を守るため、まず要塞都市に欠かせないのは外壁だ。都市を築き上げた祖先たちのなかで、壁を造ることのできる技術者の家系が上位貴族としての地位を得てきた。そしてつぎに人々が貧困に耐えるため、食物を安定して生産する農家が下位貴族としての地位を得る。
レイト家は、そのどちらでもない。
兵士の家系だった。
都市を守るために必要なのは、外壁や食料だけではない。外敵と戦う力もそのひとつだ。レイト家は代々要塞都市を守る戦士として活躍し、その功績を認められて貴族としての家を持つことを許された稀な家系だった。
下位のなかの下位貴族とはいえ、それでもゴートは貴族だった。戦士としての生き方に誇りがある。仕事上、なかなか家に帰ってこれなくても不満を漏らしたことはない。
「ひさしぶりにお帰りになったと思ったら、またお仕事ですか?」
開いていた扉をノックしながら、召使いのひとりが声をかけてきた。
ゴートは右腕に防具を装着しながら、振り返らずに応える。
「ステラか。仕事だからな、仕方あるまい」
「でも旦那様、きょうはユウトぼっちゃんのお誕生日で……」
ゴートに外套を手渡しながらも、むかしからユウトの乳母をしているステラは、困ったような顔をした。
ユウトは滅多なことでは本館に来ることはない。いくら政略結婚で子どもを産んだとはいえ、本妻にも貴族としての建前がある。愛人の子を家族として認めるわけにはいかないだろう。
しかし今日は特別だった。
いつも一人で食事を摂っているユウトが、父親のゴートや義理の家族たちと食事をする予定だったのだ。
そのために帰ってきたのだが。
「すまないステラ。こればかりはどうにもならん」
ゴートは外套を羽織りながら、窓の外を見上げる。
遠くから鐘の音が聞こえていた。遠くの空――要塞都市にほど近い空の樹氷から、細かい氷の粒子が剥がれ落ちてキラキラと空を舞っていた。
まもなく、樹氷嵐が起こる。
もし樹氷が風に煽られて要塞都市の外壁に墜ちてきたなら、いくら堅固な合成石で造っている壁といえどひとたまりもないだろう。外壁が崩れてしまえば鎧獣の恰好の的になってしまう。防壁がなければ、人類は獣に喰われるだけだ。
「旦那様……」
「ユウトにはひと声かけていく」
腰に剣を携えて部屋を出たゴートは、建物を出て玄関から中庭にまわる。
そう広くもない中庭を横切り、小屋の扉を叩いた。
「だれ?」
「私だ」
扉を開けると、ユウトはレイラと並んで座って絵本を読んでいた。レイラはゴートを見ると慌ててベッドの陰に隠れた。
相変わらずレイラはよくユウトに懐いているようだ。こっちに来てはいけないと何回も怒られているはずなのに、肝が据わっているというかなんというか。
「またこっちに来てたのか」
「おとうさん、あのね、えっと」
「母さんには内緒にしておく」
「わあ! ありがとー!」
レイラはぱあと顔を明るくした。
「それよりユウト、すまない。仕事で出なければならなくなった」
「……そっか。大変だね」
ものわかりが良いことは、この場合父親としては有り難かった。
その反面、心が痛んだ。
「だが今日はおまえの誕生日だ。なにか欲しいものはあるか?」
「んっと……磁鉄鉱っていうのが欲しい。磁石をつくりたいから」
「磁石?」
そんな珍しいもの、手元にはなかった。
「鉱石は貴重だぞ」
「わかってるけど、僕、見たことないものは創れないから。本は便利だけどそこまでは教えてくれないんだ」
「そうか……わかった。時間はかかるかもしれないが探してみよう」
「ありがとう父さん」
「ああ。では行ってくる」
食事の詫びのつもりではなかったが、そんな約束をとりつけてから家を出発した。
❆ ❆ ❆ ❆ ❆ ❆
「ゴートさん、遅いですよ」
要塞都市の外壁からの景色は、いつ観ても悪くない。
高い壁に囲まれた都市は、中央にいくにつれて綺麗な建物が多い。円型に造られた要塞都市の外壁には東西南北にそれぞれ鉄門があり、そこから石畳の大通りが中心へと伸びている。しかし半分ほど進んだところで内壁にぶつかり、そこから中は農園区域と貴族街があった。
要塞都市の中心部には大きな城があり、その一角には外壁よりも高い石の塔が建っている。塔の先端には都市の旗印が掲げられていて、街のどこからでもその塔を眺めることができるようになっていた。
塔の頂上からも都市全体と氷の世界が一望できるが、ゴートはこの外壁から眺める外界のほうが気に入っていた。
壁を超えると気温が一気に下がる。その空気感も含めて嫌いではない。
壁の上には大きな釣鐘が据え付けられていた。その鐘から少し離れたところでゴートと共に立っていたのはひとりの青年。
ゴートと同じデザインの外套を羽織った美しい青年だった。細身の体躯からはしなやかさと力強さを感じられる。
「……メオはどうした」
「昼寝でもしてるんじゃないですかね?」
笑いながら言う青年。
「冗談じゃない。樹氷嵐が来たらどうする」
「だいじょうぶですよ。ゴートさんがいるんだし怖いものなんてありませんって」
「あまり買い被るな。痛い目を見るぞ」
「ご謙遜を。それに、ほら」
青年はちらりと振り返る。
階段を上がってきたのは、ひとりの少女。見た目はまだ十八歳ほどの若い娘だった。
「『魔女』も来てくれたみたいですしね。英雄十傑のうち二人もいるんですから、安心ですよ」
魔女と呼ばれた少女はちらりとこっちを見て会釈をすると、すぐに視線を空に移した。礼儀正しいが、こちらにはさほど興味もないらしい。
「そもそも僕たちの仕事は、人数が多ければいいってものじゃないでしょう?」
青年のその言葉は核心をついていた。防具がつけられた右腕を掲げ、ニヤリと笑う。
「樹氷が降ろうが降るまいが壁から外は常に戦場。僕が入団したときにゴートさんから教えてもらった教訓ですよ」
ゴートと青年、そして少女の三人は並んで空を睨みつける。
一陣の風が吹き、三人の外套をはためかせた。
空気があきらかに変わった。
「来るぞ」
はるか上空で剥がれ落ちた氷塊が、都市にむかって墜ちてきた。