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この世界は氷に支配されている。
❆ ❆ ❆ ❆ ❆ ❆
「レイラはまたユウトの所か?」
「はい、旦那様」
この数年、天候は安定していた。
要塞都市の空はいつも晴れている。雲がかかることもなければ、何かが降ってくることもない。正午前後になると、氷の合間から顔をだした太陽が、まばゆい光を降りそそいでくるくらいだ。
天候、というのは要塞都市の外のこと。
氷の世界樹が幾重にも伸ばした樹枝は氷の雲として世界を覆っている。時折、それらが剥がれ落ちて雨となる。
恵みの雨などではない。もしそこに生物がいれば、降りかかるそれは死の雨だ。
人々はその雨を、樹氷嵐と呼び恐れていた。最も恐るべき自然災害だ。
数年前から樹氷嵐があまり起こらなくなったのはとてもよい事だった。
危険が少ないだけでなく、こうして仕事が休みになれば家でゆっくりと過ごせるのだから。
久々に与えられた休日に、ゴート=レイトは紅茶を飲みながら窓の外を見下ろしていた。
中庭のむこうにある小屋。
離れ、と呼んでいる場所だ。
「ユウトの様子は?」
「相変わらずですよ。お会いになりますか?」
「……気が向いたらな」
召使いはそうですか、と返事をしてから部屋を出て行った。
中庭をじっと見つめていると、小屋から少女が出てくる。
艶のある黒髪を伸ばした、まだ六歳ほどの小さな娘だ。
その少女は小屋の入口に手を振った。胸に黒いネコのぬいぐるみを大事そうに抱えている。
「……あんなものレイラに買ってやった覚えはないが」
少女――レイラは嬉しそうに笑顔を浮かべながら、中庭を駆けてこちらの建物へと戻ってくる。
レイラは本妻との末娘だ。離れには行かないように母親が厳しく言っているはずだったが、どうやら守られてはいないらしい。
しばらく眺めていると、つぎに小屋から出てきたのは十歳ほどの少年だった。
伸ばしたままの長い黒髪を後ろで束ねている。同じ父親を持つレイラと似ているのはその濃い黒髪くらいで、目鼻立ちはやわらかく母親そっくりだった。娘のレイラも母親に似ているが、レイラの母親はすこし釣り目で凛々しい風貌だ。
少年――ユウトは大きなバケツを抱えていた。
小屋の前でバケツをひっくりがえしてそのなかの水を捨てると、濡らした庭の土を掘り返していく。
あいつ、せっかく整えた庭になにをする気だ。
ゴートは窓を開けると、迷いなくそこから一歩踏み出した。
部屋は三階だ。窓の外にはなにもない。
だが落下することもなく、ゴートの靴は空中を踏みしめた。
まるで見えない階段を歩いて降りていくように、ゴートはゆっくりと小屋に近づいていく。
近くまできたところで、ユウトが気付いて顔をあげた。
「父さん!」
驚いたような表情を見せる。滅多に家に帰ってこない父親と、こうして顔を合わせるなんて思わなかっただろう。
「……なにをしてる」
「ガラスの材料を集めてるんだ。ほら、見て」
隣に立つと、ユウトは土の下を覗き見せた。
土の下には白い石が所々に埋まっていた。
「石灰石だよ。ここの地面にね、たくさん含まれてるから便利なんだ」
楽しそうに土を掘っていくユウト。
ゴートはそんなユウトを見下ろして、ため息をつく。
「そんなことをして楽しいのか」
「楽しいよ。なにかをつくるのって楽しいもん」
「……そうか」
久々に会話をしたというのに、こっちを見向きもしないで土を掘るユウト。
好奇心が疼くのか、庭を引っ掻き回すのを止めようとはしなかった。
こういうところも母親に似ている。
「それよりユウト。おまえ、レイラにぬいぐるみをあげただろう」
「う、うん」
「どうやって作った。手作りか、それとも魔法か」
「……魔法だよ」
「見せてみろ」
ユウトは立ち上がった。
泥だらけの右手を、胸の前で掲げる。
一瞬だった。
ユウトの右手の上に生まれたのは一体の黒ネコの人形。
さっきレイラが抱えていたものと同じ形のものだった。
魔法。
世界中で数世代前の人々から使えるようになったという特殊な能力だった。人間がこの氷に囲まれた世界に適応するために発現したと言われている。
いうなれば、進化だ。
ある者は炎を生み、ある者は水を操る。ある者は怪力を、ある者は治癒の力を生みだすことができた。
ひとそれぞれ種類も強さも違うけど、ほぼすべての人が使うことのできる力。それが魔法だった。
共通していることは、魔法を使うために右腕が必要だということ。体内にある魔力回路と言われる神経が魔力を生み、右腕の先にある排出器官を使って魔法を発動するらしい。
魔法には多種多様なものがある。戦いに使える魔法もある。じっさいにゴートは魔法を使って戦いに生き残っていた。
ゆえに、知っている。
ユウトの魔法は、その誰よりも強力なものだと。
単純な素材でも複雑な構造でも、あらゆる物質を創造できる【創生魔法】。
なんでも生み出すことができる魔法。
それは歴史上、比類のない最高峰の魔法だ。
生まれながらに持っている魔法は誰も真似できない。ユウトはいずれ誰よりも優れた魔法師になるだろう。
……だからこそ。
「馬鹿者!」
ゴートは怒鳴りつける。
ユウトが顔をしかめた。
「だって、レイラが欲しいって言うから……」
「お前が魔法で物を創りだすことに罪はない。ただ、お前が物を創りだすことで生まれる損失を考えろ。レイラが欲しがっていたぬいぐるみは、本来ならぬいぐるみ職人が手作りして、それを私が買うはずだった。その調子でなんでも生み出してみろ。職人と呼ばれる者たちすべてが路頭に迷い、都市経済は破綻する」
これだけは忘れてはならない。
人のために振るう魔法が、人を傷つけることもあることを。
「……ごめんなさい」
「わかればいい」
しゅんとした表情を隠せずに、うなだれるユウト。
どれだけ素晴らしい魔法を使えても、まだまだ子どもだ。
ゴートは背を向けて歩き出す。
一応、最後に一言だけ、小さな声でつぶやいて。
「……だが、すこしは成長したな」
「うん!」
目を輝かせたユウトの表情は、見なくてもわかった。