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「あ~……疲れた」
窓の外に見える空がすこし薄暗くなってきた。
夜が東の空のむこうからやってくる。気温も下がり始めた。
隊舎二階の詰所で、倒れるようにして椅子に座りこんだ。足がもう動かない。体力と気力の限界だった。
そんなユウトを眺めて、メオが水を飲みながらカラカラと笑った。
「体力ないねえ」
「……ついこの前まで靴磨きだったんです」
一日中、メオと外壁の向こう側――氷の世界で走り回っていた。
体内に流れる魔力をコントロールし、意識した場所に集約させることで身体能力を強化する。魂威変質と呼ばれるその技術は、熟練の機動隊員なら誰でも使いこなせるらしい。鎧獣や樹氷に挑むためには欠かせないものだった。
「ならなおさら鍛えないとね」
「だからっていきなり実践はおかしくないですか」
「ユウトくんの魔力回路はすでに拡張されてるからね。基礎訓練はいらないんだよ」
「……そんなことした覚えないんですけど」
十歳まで魔法は使っていたが、それ以外のことはしいてないはずだった。もちろんジルに鍛えてもらったわけでもない。
「生まれもった素質だね。もともと君の魔力総量は常人とは桁違いなんだよ。もし生身の右腕があれば、今頃は誰にも真似できない超弩級の魔法が使えたはずさ」
「それにしても、ちょっとやりすぎなような……痛っ」
頬の傷をなぞって顔をしかめた。
メオとふたり、魂威変質を使って殴り合った。殴り合うというのは少し違うかもしれない。メオに与えられたのは『一発でもメオを殴る』という課題。一日中やっていたけど、ユウトの拳はかすりもしなかった。逆に何度となく蹴り飛ばされて傷があちこちにある。
メオは肩をすくめて、
「今日は初日だから優しくしたよ。明日からは遺言書いてきてね」
「本気だ!?」
口元は笑っていたけど目は笑ってなかった。
恐怖に慄いていると、まだ人の少ない詰所に入ってきた背の高い少女と目が合う。
少女は眠そうにしながら、ユウトとメオの隣に腰かけた。
「ふああ……おはようございますメオ隊長」
「おはようメリダリアさん」
「ユウトもおはよう」
「おはよ」
夜警のメリダは仕事前だ。外套を椅子にかけて、薄着のまま半分閉じた目をこすりながら食堂に向かった。
同じように夜警の治安巡査班のひとたちが続々と出勤してくる。
そのなかに紛れて、背の低い少女がオドオドとしながら詰所に入ってきた。両手で救急箱を抱えている。
ミンファだ。
きょろきょろと周りを見回していたから手を振ると、こっちを見つけてぴょこぴょことやってくる。
なんだかネコみたいだった。
「お、お疲れ様ユウトくん」
「ミンファもお疲れさま」
「ほほう。さっそくうちのアイドルと仲良くするなんて、見かけによらずやるじゃないかユウトくん」
「メ、メオ隊長……お疲れ様です」
ようやくメオに気付いたのか、慌てて救急箱を落としそうになったミンファ。ユウトが横から手を出して箱を机に置いてあげた。
「僕は邪魔者かな、先に帰るとするよ。ユウトくんまた明日もよろしく」
「はい。お疲れ様です」
鼻歌まじりに去っていくメオだった。
「ミンファはもう勤務時間終わり?」
「……うん。いまから薬屋に寄らないとダメだから。ユウトくんも?」
「まあね。ちょっと早いけど、これ以上は体が動かないから」
「なんかボロボロだね」
苦笑いされた。
机に寝そべっていると、お盆に食事を載せたメリダが戻ってきた。
芋と野菜の煮物だ。栄養がありそうだ。
「お、ミンファお疲れさん」
「おはようメリダ」
「ミンファは今日も可愛いなあ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でていた。
ネコと飼い主みたいだった。
メリダは席に座ると、野菜をスプーンですくって笑みを浮かべる。
「いやあ機動隊は激務だけどさ、ほんとこの食堂だけはめっちゃ助かるよな。ふつうの店じゃ倍の値段するぜ野菜の煮物なんて。味付けは微妙だけどさ」
「たしかに安いけど自分でつくったほうが安く済むよ?」
「それもそうなんだけどさ、ミンファは料理上手だからそう言えるんだ。あたしはてんでダメだからやる気になんないよ」
拗ねるように唇を尖らせるメリダ。
「練習しないと上達しないよ。こんどウチに来てつくってみる?」
「教えてくれるってのか?」
「うん」
「いいのか? 孤児院なんだろ?」
「うん。小さい子たちは、遊び相手ができて喜ぶから」
「おお、なら行く行く」
二人のやりとりを眺めていると、なんだか微笑ましい気分になった。それと少し羨ましい。
こんなふうに気兼ねなく話せる友達なんて、ユウトにはいなかったから。
メリダはそんなユウトの内心を知ってか知らずか、手をポンと叩いた。
「そうだ、一緒にユウトもどうだ? いいだろミンファ?」
「わ、わたしは構わないよ……子供たちも喜ぶし……」
「だそうだぞユウト。一緒にどうだ?」
「僕も? 僕はミンファがよければ、まあ」
「なら決まりだな。今度孤児院で料理教室しよう! いいよなふたりとも?」
歯を見せて笑ったメリダ。
ユウトとミンファは、流されるままうなずいた。
いままで簡単な料理くらいしか作ったことはない。固形燃料がどこで売ってるのかすらあまりよくわかってない。調味料くらいなら使い走りにされるくらい、という程度だ。
「そんで、ユウトは自分で料理するのか? というか一人で暮らしてるのか?」
案の定、メリダが首をかしげる。
「えっと……」
なんて言おうか迷ったときだった。
扉を開けて詰所に入ってきたのは、金髪の美少女。
詰所にいた男たちは彼女――シンクを見ると自然に背筋が伸びた。
英雄十傑にして、数十年もその姿を変えない『魔女』。機動隊のなかでもひときわ強い存在感を放つそのシンクは、ユウトを見つけると迷いなく歩いてきた。
「お疲れ様ですユウト……あら、お友達ができたんですか?」
「ああうん。そんなところ」
メリダとミンファを見て少し驚いたような表情を見せたシンクは、丁寧にお辞儀をする。
「そうですか。ユウトと仲良くしてくださってありがとうございます」
「おまえは母親か」
「何を言ってるんですか違いますよ?」
「知ってるよ」
冗談が通じないとは。
「お、おいユウト……シンクさんに慣れ慣れしいぞ」
「そそそうだよ。魔女さんだよ!?」
焦ったようにシンクの顔色をうかがうメリダとミンファ。
たしかに、機動隊では上司なんだけど。
なんて説明したらいいのかユウトが悩んでいると、
「いいのです。私はユウトに身も心も捧げる立場ですから」
「「……え?」」
顔がひきつったメリダとミンファ。
ふたりだけじゃない。詰所にいた隊員たちの空気が凍りついた。
「ちょ、ちょっとまてそれは語弊がある! おいシンクちゃんと説明しないと!」
「というわけで帰りますよユウト。今夜は何を食べたいですか? 肉はありませんから、市場にでも寄りましょうか」
そこらへんの機微には疎いのか、それともわざとなのか。無視して腕を引っ張って連れていかれる。
「待て! 先に訂正させてくれ! たのむ!」
「それではみなさん、お疲れ様でした。ほらユウト、しっかり歩いてください」
「違うんだってば~!」
詰所にいた隊員たちが呆然と見つめるなか、虚しいユウトの声が隊舎中に響き渡った。