五話
(1)
――そして、遂に十月三十一日、ハロウィン祭の日がやってきた――
白タイルの外壁に、急勾配の大きく赤い三角屋根、北欧風と呼ばれる建築様式の小さなその一軒家には、夫に先立たれた老婦人が暮らしていた。
かれこれ十年以上独居生活を送る老婦人の、数少ない楽しみの一つは、ハロウィンの夜に訪れる仮装姿の子供達にお菓子を配ることであった。
前日の三十日にパウンドケーキや型抜きクッキー、ドーナツなどを大量に作り、それぞれのお菓子を一つ一つ丁寧に包装し、大きな籠に詰めて玄関先の靴箱の上に置いておく。
そうして、声を弾ませて「トリック・オア・トリート!!」と叫ぶ子供達にお菓子を手渡すのだ。その時に子供達が見せる屈託のない笑顔に、孤独な老婦人の心は癒されていた。
ピンポーン
(あらあら。早速、悪戯お化けさんのご登場ねっ)
自然と表情が綻ぶのを抑えもせず、老婦人はいそいそと玄関先へと向かう。
「……って、あら??」
確かに、玄関の外からインターホンが鳴らされる音が聞こえたと思ったのに。
いざ扉を開けてみると、玄関先には人一人姿が見当たらず、代わりに小さな黒猫が一匹、ちょこんと座っていたのだ。黒猫は老婦人と目が合うと、にゃーん、と人懐こそうな鳴き声を上げる。
まさか、こんな小さな子猫がインターホンを鳴らす訳があるまいし。
(もしかして、誰かが玄関先にこの猫を捨てていったのかしら……)
困ったわねぇ……、と溜め息をついた老婦人は、ふと子猫の傍にバケツサイズの大きめの籠が置かれているのを目に留める。籠の中には、すでに溢れそうな程大量の菓子が詰め込まれていた。
子供達の新手の悪戯??と、訳が分からず老婦人が首を傾げて扉を閉めかけたその時――
座っていた黒猫が急にスッと立ち上がると、ぴょんっと地面を跳ねて飛び上がり、くるくると宙を三回転したのだ。
思わず扉を閉める手を止めた老婦人の前でその場に着地した黒猫は、黒い猫耳と尻尾を持つ、金の猫目と長い黒髪の少女イーニドへと姿を変えたのだった。
「トリック・オア・トリート!!お菓子をくれなきゃ悪戯するぞっ☆」
扉に縋りつくようにして腰を抜かす老婦人に、いつもよりもワントーン高い声でイーニドはお菓子を催促した。
老婦人はあわあわと唇を戦慄かせ、つぶらな瞳を見開きながらイーニドに指を差した。その腕や指先はガクガクと大きく震えている。
(あれ??何かこのお婆ちゃん、思った以上に吃驚しちゃってるわ……。これじゃ、お菓子を貰うどころじゃないなぁ……)
これまでに訪問した先の家々でも多かれ少なかれ吃驚されはしたものの、元が猫だからか怖いとまでは思われず、人間達は笑顔でお菓子を沢山くれたものだったが。
「お婆ちゃん、あたしは別に危害を加えたりはしないから安心してよ。何でもいいから、一個だけでもいいから、お菓子をくれさえすればここから立ち去るわ」
これ以上老婦人を怖がらせないよう、宥めるように優しく話し掛けるイーニドに、老婦人は、あっ、あっ……と呻きつつ、「……げ、玄関、の……、靴箱……。靴箱の、上に……、お菓子、は、ある、わ……。好きなだけ……、持って、いって……」と、言葉も切れ切れに菓子を持っていくよう促した。
「そうなの??じゃ、ちょっとだけお邪魔しまーす」
未だ腰を抜かし扉に捕まる老婦人と、外壁との僅かな間に身を滑り込ませて玄関の中へと入り込む。イーニドが自身のすぐ横を通り抜ける際、老婦人はひっ!と小さく叫んで更に身を竦ませた。
「わっ!パウンドケーキに型抜きクッキーにドーナツに、マシュマロにチョコレートブラウニーまで!!わぁ、どれにしよう!!まだいっぱい残っているから、一種類ずつ貰っていっても大丈夫かなぁ??」
老婦人がこくこくと何度も頷いてみせたので、「じゃあ、遠慮なく頂きます!!」と全ての菓子を一種類ずつ籠の中に放り込んでいく。
「お婆ちゃん!お菓子を沢山くれてありがとう!!」
菓子を貰い、満面の笑みで老婦人に手を振りながら去っていくイーニド。
イーニドが背中を向けた瞬間、老婦人は声を振り絞り、大きく叫ぶ。
「……ば、化け物!!」
勿論、その声はイーニドの耳にしっかり届いていた。
(何よ、化け物呼ばわりするぐらい脅えなくてもいいじゃないの……。別に、どっかの誰かみたいに狼とかの猛獣じゃないんだから……)
眉根を寄せて唇を尖らせるも、これでイーニドが懲りる筈はなく、引き続き自分の正体を晒しながら次々と家を訪問していく。
やがて、深夜の時間帯に近づいた頃、イーニドは街の外れの、ある家の前に佇んでいた――――。
(2)
その家は、蔦が外壁を覆う古い赤煉瓦造りの屋敷で、玄関の扉の真横にある筈のインターホンが設置されていない。
イーニドは錆びついたドアノッカーを力一杯叩いた後、すぐに黒猫の姿へと変身し、家の者が出て来るのを待った。すると程なくして、痩せこけた頬と濁った茶色の目をした若い男が、玄関の扉を開けて外へ顔を覗かせた。
何だか陰気な雰囲気の人間だなぁ、と思いつつ、すぐに猫娘に変身しようとしたイーニドだったが、その彼女の視界の端をキラキラと光る小さな何かがひゅんと横切っていく。
咄嗟に、後ろ足に重心を置き、光る物体が飛んできた方とは逆側に向かって、横向きに素早くジャンプする。
イーニドが避けたことで光る物体は固い地面に落下し、そのままイーニドの足元までコロコロと転がってきた。
(何これ……、銃の弾……??)
イーニドが目にした瞬間、顔を引き攣らせて恐れ慄いたもの――、つづみ弾と呼ばれる、エアガンに使用される弾頭であった。
イーニドが弾を避けたことが気に入らなかったのか、男はチッと舌打ちを鳴らすと再び彼女にエアガンの銃口を向け、容赦なく弾を打ち込んでくる。
魔力のお蔭で、通常の猫の倍以上の動体視力と反射神経を持つイーニドは軽やかな動きで弾を避け続ける。
そんなことを何度となく繰り返す内にとうとう弾切れを起こし、男はヒステリックな声を上げてエアガンごとイーニドに投げつけてきた。それすらもイーニドは難無く躱す。
「くそっ!!今年こそ菓子をしつこく強請る、うるさいガキどもを排除しようと思っていたのに!!そう決心したのに!!ガキはちっとも来ないし、こんな薄汚れた猫一匹すら始末できないなんて!!」
男は頭をぐしゃぐしゃと引っ掻き回し、地団太を踏んで一人で怒り狂っている。
イーニドは男の剣幕に唖然としていたが、早くこの場を立ち去らないと殺されかねないと思い、籠を咥えてすぐに逃げ出そうとした――
「みぎゃぁああ!!!!」
逃がすものかとばかりに男はイーニドの尻尾の先を思い切り踏んづけ、悲鳴と共にイーニドが地面に倒れ伏した、その時――
銀色の毛に全身を覆われた狼が、疾風迅雷の勢いでイーニドの傍に駆け寄ってきたのだ。
(……マイク??何でここに……?!)
耳まで裂けた大きく真っ赤な口を拡げて男に吠え掛かる狼――、マイクロフトを、地面に伏しつつ金色の瞳でじぃっと見上げるイーニド。
突如姿を現した、全高一メートルを超える巨大狼に男は全身を震え上がらせている。
狼は男の恐怖心を煽るかのように、薄青の瞳を獰猛に光らせて姿勢を低くし、ガァァッ!!と威嚇する。
『イーニドをとっとと放せよ!!下衆野郎が!!』
銀色の巨大狼、もとい狼化したマイクロフトは、イーニドの尻尾を踏んづけたままの男の足目掛けて飛び掛かった。
「うわぁぁぁぁ!!!!!」
マイクロフトは、無様にも後ろ向きにひっくり返った男の上にのしかかり――、と見せ掛け、恐怖と踏まれた尻尾の痛みで身動きが取れないイーニドの首根っこを咥えると、光の速さで森に向かって全速力で掛けていく。
『マイク!!待って!!お菓子の籠が……!!』
『お前は馬鹿か!!そんなもん、どうだっていいだろう?!あと、喋るな!!舌噛むぞ!!』
当然とも言える一喝に反論の余地も見つからず、イーニドは大人しく森へと連れ帰られていったのだった。