黒ヤギ
文也はがマンションのエントランスではなく、外に立っていた。
「あれ? 桧毬? 管理人さん?」
それから、気がつく前の状態を思いだした。
「エギュラメ様の目を見てたんだよな……夢?」
文也はもう一度、辺りを見回した。
見慣れた近所なのだが、一時期、修二が通い詰めていたラーメン屋はなく、代わりに『山川の豆腐屋』という看板と昔ながらの店があった。
「夢かタイムスリップか……」
文也は歩き出した。
いつの間にか歩き出していた。
「夢か……」
駆け出していた、文也は視界が低い位置になっている事と、振動に合わせてカタカタという音が背中から聞こえた。
その背中からは懐かしい感触、ランドセルがあった。
文也はあっという間に小学生になっていた。そんな状態が簡単に変えられるのは夢しかない。
文也は家や高校と真逆の方向に向かっていた。
いくら走っても息切れしないのは夢だからか? それとも鬼ごっこを長時間できる子供の体だからか?どちらでもあろう。
文也の足が止まったのは、家からだいぶ離れた人気のない道だった。
文也が住んでいる地域は、住宅や店は多く不便ではないが、都会という単語は使えない。住宅密集地を少しでも離れれば田んぼや畑が目に付いた。
文也がいる所も畑が広がっていた。
「………」
周辺を確認した所で、前方に何かいるのに気がつき、文也は息をのんだ。
黒いヤギが横たわっていた。
一目で何かが違うとわかった。
その黒毛は、画家が知識の限り調合しても作り出せない深く。後ろ斜めにのびる角は太く見事な曲線を描いていた。
荒い息と傷があり弱っているようだが、文也に向ける漆黒色の目の力と全身から漂うオーラは強くそし気品をはなっていた。
「ケガしたの?」
文也はヤギに問いかけていた。
とはいえ、幼い文也の全身から『恐い』というメッセージを放ち今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、近所のヤギとは違う何かが文也を捉え、ヤギに近づかせた。
「……」
黒ヤギは返事しなかったが、近づいてくる文也に威嚇や攻撃する様子はなかった。
「お腹、すいた?紙、食べる?」
道路に染み出す黒い液体は弱ったヤギの血だと判断できた。大量ではないが、至る黒毛から同色の液体が流れていた。
この場合、けがの手当を優先するべきなのだが、ランドセルの中に救急箱はなく、自分より大きなヤギを動物病院に運ぶ術はない。
今は大人しいが、いつ暴れ出してもわからない。
そんな中で幼少の文也が何とかしようと思いついたのが、その言葉だった。
ヤギ イコール 紙を食べる。お腹がいっぱいになれば元気になれると思い込んでいた文也は、ランドセルを開けて出てきた算数のテスト(20点)を差し出してみた。
「…………」
『すごいヤギ』は首をテストに向けたので、近づいて口元に向けると、すごいヤギはモシャモシャと食べ始めた。
「もっと食べる? 紙ならたくさんあるよ」
ランドセルからノートやプリント(さすがに教科書は避けた)を口に運ばせ食事の手伝いをしていた文也は道端に転がっているペットボトルに気づく。
「喉は渇いてない?」
文也は来た道を走り出した。公園から水を入れ、再び猛ダッシュで戻った運たが、着いた時には、もうヤギはいなかった。
道路に流れていた血も跡形もなく消えていてた。
「………」
本当にヤギはいたのか、文也はきつねにつままれた気がしたが、手にしているペットボトルがあるので、黒ヤギは本当にいて『元気になったから、お家に帰ったんだろう』という事にした。
「帰ろう」
それから文也は、見せなくてすんだ算数のテストをどう説明するか悩んだ。本当の事を言っても信じてくれないのだから。