桧毬
武田文也の高校は徒歩で通える。小中学校に距離が長かった分、受験に合格したときは『朝が楽になる』事を心の底から喜んだ。
「あそこの高校は頭かないと入れんって、じい様が言ってたけれども。文也って頭、良かったんだな」
家から近く、教師もクラスメートも申し分ない良い高校だったが、その良さが揺らいでまうのは、後ろから着いてくるヤギ少女のせいだろう。
「ポストがある角を曲がると豆腐屋があるとじい様が言ってたが、どこにあるんだ?」
「豆腐屋は去年、ラーメン屋になったって……桧毬、ヤギの時、人間の言葉がわかったのか?」
「犬や猫だってわかるのに、ヤギがわからないはすはないだろうが」
ふん、と鼻を鳴らしたのは、彼女は元ヤギでヤギが一番というプライドなのだろう。
「しかし、人間語はわかるが、言葉を返せないのだ。人間語が使えれば、じい様に『芋蔓がもっと食べたい』と訴えられたのに」
芋蔓は、どうやらヤギ時代、ヒマリの好物らしい。
「そうかラーメン屋か。豆腐屋の息子だな。『ラーメンばかり食って、店を継いでくれるか心配だ』と、豆腐屋のオヤジが家のじい様に言ってたが、そうか。ラーメン屋とやらになったか。それはそうと、豆腐のオヤジはどうした?」
「知らない」
「まあ、あのオヤジの事だから、隠居生活を楽しむ施設とやらで、元気にやっているだろう」
彼女の話は、何年も住んでいなければわからない話だった。
「……」
文也の足が止まった。
桧毬の足も止まったが、それは目の前に新しに気づいたからである。
「……。ここだな、ここに家があった」
「ああ」
マンションが建つ前は、昔ながらの大きな家があった。
それは文也の記憶にも残っている。家もさることながら、広い庭があり、自宅で食べる分にはちょうど良い大きさの畑があり、白ヤギの小屋も畑と垣根の間にあった。いつもニコニコした老人が、紙を手にした子供も見ると『ヒマリに食わしてやれ』と中に入れてくれた。
「そうか、ここが、我が家だったんだな」
老人の子供が、家を取り壊しマンションを建てると親たちの会話で耳にした。
「どこも後継者の話ばかりだな」
寂しげに見つめる少女に偽りの表情はなかった。
「君は、本当にヒマリなんだな」
「もちろんだ。今は桧毬だ。エギュラメ様のお蔭でな」
「え、えぎゅらめ、様?」
また、新たなる混乱の言葉が現れた。
「エギュラメ様だよ。文也は覚えていないのか?」
文也はまたもや脳に『エギュラメ様』という言葉をアクセスしてみたが、脳からの返事はない。
「覚えていない」
「そうか。という事は、エギュラメ様宛に返事の手紙を書いてもらう、桧毬のミッションは長くなりそうだな」
「返事の手紙?」
「長くなるとわかれば、色々と準備をさなければならない。文也、積もる話は今度だ。じゃあな」
そう言った途端、桧毬は物凄い速度で走り出した。どう全力疾走で追いかけても追いつくわけがないが、文也はあっという間に小さくなってゆく桧毬の背中を見つめ、ホッと息を吐いた。
「……」
帰宅するために歩き出す文也から、ため息がでた。ヤギ少女こと、桧毬の事を考え始めたからである。