二夜
真っ赤に泣き腫らした目を「感動的な本を読んだせい」だと嘘をついてしまった以外は、楽しい夕飯が終わった。あかりの弟、小学生の大和が少年サッカーから帰宅して、家は一気に賑やかになった。カードゲームでひとしきりはしゃぎ、テレビを見ながら笑いあう。だが、入浴を済ませた頃から鈴子の笑顔はどんどん引きつっていった。
「すずねえ、疲れたの?」
心配そうに覗き込む大和に向かって、鈴子は笑顔でゆっくりと首を振った。
「あんたがゲームゲームってしつっこいからでしょ」
「あかり、うるさい」
大和は口を尖らせる。
「あかり、じゃなくて、お姉ちゃん」
「うるせー男女! すずねえ、おやすみー」
立ち上がったあかりから逃げるように大和は部屋を出て行った。襖が閉まると、鈴子はため息を一つ吐いて俯いた。
「大和君に気を使わせちゃったな」
「は? 気なんか使うやつじゃないよ」
ひらひらと手を振るあかりから視線を外して、鈴子は壁掛け時計を見つめた。あかりもつられるように時計を見る。アナログの時計の中央にデジタル表示があるタイプの時計だ。
――22:05
「とりあえず、起きててみよう。あ、すずの布団、敷いておこうか」
鈴子は時計から目を戻して頷く。客間の押入れから布団を運んで、あかりのベッドの隣に敷く。昼の暑さがまだ残っていて蒸し暑く、動くと汗が流れた。あかりは窓を閉めて、クーラーのスイッチを一時間後に切れる設定にして入れた。
「うあー涼しー」
あかりは雑誌を団扇にしてパタパタと扇ぐ。
「結衣ちゃん……大丈夫かな」
「んー、メール、チェックしてみたら?」
あかりが鈴子のバッグを押してやると、鈴子は携帯を取り出して操作しはじめた。
「来てない。あ……クラスのグループチャットひどい」
鈴子は顔を歪めた。あかりも携帯を取り出して、グループチャットをタップする。凄い数の更新の通知にまず驚いた。
「あー、これはひどいね」
グループでは酷い罵り合いが一時間以上に渡って続いていた。学校での奥村の話を「うざい」と感じた生徒と、奥村贔屓の生徒が対立して言い争っている。
「杉田君なんて、あの時凄く反省してるみたいだったのに」
「してたんでしょ。でも、流されて生きる男だから、杉田は」
「嫌な思いなんてしてないんですけどー? 奥村チョロイ! とか言ってる。偽善者だなんて、ミッチー君哀想」
一部の生徒は奥村を名前の守道からミッチー君と影で呼んでいる。そうだねー、と相槌を打ってあかりは考え込んだ。鈴子は黙々と画面をスクロールしている。余程、腹を立てているのだろう。
「ねえ、すず、夢の事ミッチー君に相談してみる?」
ふと思いついてあかりが言うと、鈴子はぱっと顔を上げてぶんぶんと首を横に振った。
「だめ、面白がってると思われちゃう」
「でも、他にも夢の相談をした人が居るんだよ? もしかして結衣も」
「お願い、あかりちゃん」
「わかったわかった。言わないから」
あかりは泣き出しそうな鈴子の頭を撫でて笑った。
結衣は本当に体調不良なのだろうか。明日は土曜日だし、結衣の家まで行ってみようか、それは迷惑だろうか。あかりはちらりと時計を確認する。同時に鈴子も携帯の画面から目を上げた。
――23:55
どちらからともなく手を握った。心臓の音がやけに近くに感じる。カチコチと鳴る秒針の音も嫌に大きい。一瞬、部屋が暗くなった。
「えっ」
一瞬にして、虫の声も、風の音も、時計の音も消えた。二人同時に壁の時計に目をやる。
――24:00
「うお、マジか」
あかりは思わず声に出した。だがその声はかき消されたように音にならなかった。あかりはそっと周りを見渡す。
先ほどまでくつろいでいた自分の部屋で間違いないのに、どこか薄暗く不明瞭だった。ぬぐえない違和感にあかりは何度もまばたきする。
気がつくと、二人とも寝巻き代わりのスウェットスーツを着ていたはずなのに、高校の夏服を着ていた。学校指定の黒いローファーも履いていて、あかりが脱ぐのを見て、鈴子も慌てて脱いだ。
――出よう
あかりが襖を指差すと、鈴子はわかったというように頷く。だが、取っ手に手を掛けてもぴくりとも動かない。焦るものの、どんなに力を込めても少しも開かない。不安そうな鈴子の顔を見て、あかりはにっと笑った。「だいじょうぶ」と口を動かし、窓を指差した。あかりの家は二階が一回り小さい作りになっていて、二階のあかりの部屋の窓の下には1階の屋根が張り出している。小さい頃は「近道」と称して、窓から屋根に降りて端まで歩き、ブロック塀に移動して外に出たりしていたのだ。だが、窓も鍵すらもまったく動かなかった。満身の力を込めるが、まるで凍っているかのように動きそうな気配すらない。
――どうしよう
あかりが困惑して振り返ると、鈴子はガタガタと震えながら窓の外を見ていた。窓に顔を近づけて外を見ると、池の淵に立つバケツを被った少女が目に入った。
――隠れて!
鈴子の腕を掴んで、あかりはしゃがみこむ。息を整え、そっと目だけを出して外の様子を伺った。銀色のバケツが相変わらず池のほとりあたりに見えた。どちらを向いているのか、そもそも見えているのかもわからない。止める鈴子をなだめて、あかりはゆっくりともう少し顔をあげる。池のほとりに佇むニノイチの夏服のセーラーカラー、胸、腰が見えて、池を指差す腕が見えた。
――逃げられないなら隠れるしか
あかりは部屋を見渡して、ベッドの下を指差した。あかりの意思が通じたようで鈴子は腹ばいになって、ベッドの下に潜り込む。あかりはもう一度、外に立っているニノイチを確認してからベッドの下に潜り込んだ。外から見えないように、鈴子の為にベッドと並べて敷いた布団を引き寄せようとしたが、これも動かなかった。あかりの手を鈴子がぎゅっと握ってきた。小刻みに震えている。ゆっくりとベッドの下から部屋を見回すと、窓の前あたりに二本の足が見えた。靴下はぐっしょりと濡れているようで床には水たまりが出来ていた。良く見ると足全体に緑色の苔のようなものが生えている。
あかりはそっと鈴子を振り返り、口の前に人差し指を立てる。鈴子はがくがくと震えながら頷いてぎゅっと目を閉じた。目を戻すと、汚れた靴下を履いた二本の足が滑るように近づいてきてベッドの前に立った。やがて、ゆっくりと倒れていって膝が見えた。
――屈んで覗き込もうとしている!
あかりは精一杯奥へと下がるが、シングルベッドの奥行きしかない上、後ろには鈴子がいる。手を伸ばされたら簡単に捕まってしまう。二十五時までに捕まったら……という噂が頭をよぎって、あかりは胸ポケットの携帯を取り出して時間を見た。
――24:15……たった十五分しか経っていない。
舌打ちしたいのを堪えて、出来るだけ下がる。青くすら見える真っ白な手が床に着くのが見えた。青黒く血管が浮き出ている。だんだんと姿勢が低くなり、とうとうバケツの縁が見えた。
――もう駄目だ。絶対見つかる。
だが、ベッド脇に屈みこんだニノイチはそれ以上動かなかった。
――バケツが閊えてるの?
疑問に思った瞬間、ニノイチはかき消すように消えた。喉元までせりあがってきた悲鳴を堪えて、あかりは素早くベッドの隙間からあたりを見渡した。突然捕まれるかもしれない、という恐怖に必死に堪える。とりあえずは何も見えない。もう……居ない? ほっとした瞬間、玉のような汗が噴出す。後ろでがくがくと震えている鈴子に向き直り、抱き合った。