昨日の夜の夢
夢のはじまり、鈴子はあかりの家の境内に立っていた。白黒に近い景色とは反対に、とても夢だとは思えないほどに鮮明な感覚の夢だった――
それが夢だとは気がつかなかった鈴子は、自分が今どうして境内にいるのかわからなかった。チャットを見て、携帯を置いてベッドに潜り込んだはずなのに……と、怯えて辺りを見回す。
「あかりちゃん!」
あかりの自宅に向かって叫ぶ。だが、声は音にならなかった。
――音がしない……
気がつくと、風の音も車の走る音も、音という音が一切なかった。鈴子は怖くなってブラウスの胸ポケットから携帯を取り出した。
24:01
ありえない時間の表示に目を疑った。慌ててあちこちタップしたものの、電話もメールアプリもSNSも、いくらタッチしても動かなかった。そうこうするうちに、デジタル表示はニ十四時ニ分を示した。
二十四時……このまま進めば二十五時になるのだろうか。寝る前に見たクラスのグループチャットの内容を思い出して、鈴子はぶるっと体を震わせた。
パジャマに着替えたはずなのに、どうして高校の夏服を着ているのだろう。これは夢なのだろうか。それにしては感覚がリアルな気がする。でも、夢は覚めた途端に曖昧になるだけであって、見ている間はこうなのかもしれない、と思った。夢……ニノイチの……再びチャットを思い出す。
――あたしはニノイチのことなんて誰にも何も聞いていない。巻き込まれるはずない。これはただの夢だ。目覚めて、目覚めて。
鈴子は必死に自分に言い聞かせる ふ、と背後に何かの気配を感じて、ぞわり、とうなじの毛が逆立った。振り向いてはいけない、という理性に反して、体がゆっくりと後ろに向いていく。
そこには、鈴子と同じ制服を来て、長い髪を胸まで垂らした少女が立っていた。奇妙なことに頭に銀色のバケツを被っている。バケツには油性ペンで何かが大きく書かれていた。逆さまになっているその文字を元に戻すと……
2-1
――にのいち……ニノイチ……
いやああああ! 鈴子は喉が張り裂けそうなほど叫んだ。だが、何かに吸い取られたかのように何も聞こえなかった。バケツを被った少女がすっと腕を上げて、目の前にある神社の池を指差す。
《 二十五時までに捕まったら殺される 》
チャットの文字が脳内にちらついた。逃げなければ、と思うのにがくがくと膝が震えて動けない。強烈な怖気がへそのあたりから這い登ってくる。
少女がすっと一歩、鈴子に近づいた。恐ろしさに目を背ける。その途端に暗示を解かれたように体が動いた。無我夢中で転がるように神社の石段を駆け下りた。そこだけいやに鮮やかな赤い鳥居をくぐって坂道を走り下りる。百メートル程の坂を下りきったところにある線路の遮断機が下りていた。鈴子は遮断機に捕まって俯きハアハアと荒い息を吐いた。心臓が痛いほど高鳴っている。
――振り返っちゃダメ!
ここを渡ればすぐに自宅だ。電車は来そうにない――鈴子は思い切って遮断機をくぐって渡り、自宅にたどり着いた。だが、玄関のドアは開くどころか、ドアノブすらかちゃりとも動かなかった。
「お母さん!」
母を呼ぶ声も音にならない。鈴子は動かない回し戸を跨いで庭に回った。窓も開かない。
「お母さん! お母さん! ……チョコ!」
主のいない空の犬小屋を見て、パニックを起こして泣きわめいた。その声も音にはならなかった。犬小屋の前に崩れ落ち、這いずる様にして家の裏手に回り、灯油タンクの下に膝を抱いて丸まった。肩で切り揃えられた髪が、汗で頬にべったりと貼り付く。
――もう動けない。お願い、来ないで、来ないで、来ないで
どのくらい時間が経ったのか、そっと顔を上げて携帯を見る。
24:59
やはり、携帯はホーム画面以外、何も表示されない。
――あと一分……怖い
盛り上がってきた涙に瞬きをすると、鈴子は自宅のベッドの上に居た。常夜灯の明かりに、かちこちかちこちと時計が時間を刻む規則正しい音が聞こえる。薄い壁一枚向こうで、兄がゲームのコントローラーを操作する音もした。
――夢……なの?
汗びっしょりの体を起こして時計を見る。零時零分。起きて尚、夢の鮮明さは色褪せなかった。
《 誰かに話せば夢に巻き込む 》
――なんで、あたしに……誰か、助けて
鈴子は頭まで布団に潜り込み、まんじりとも出来ないまま夜明けを迎えた。
◆
真っ赤になってしゃくりあげながら話し終えた鈴子を、あかりはぎゅっと抱きしめた。どんなにか怖かっただろう……鈴子を抱きしめているあかりの目も真っ赤だった。
「すず、怖かったね……大丈夫だよ。大丈夫だから」
何の確証もないけれど他に言葉が見つからない。あかりは鈴子の背中を擦りながら、無理矢理に笑顔を作る。
「お父さんに、お札、もらっとこうか。額に貼っとく?」
ぷ、と鈴子が吹き出した。
「うん、貰っておこう」
いひひ、と二人で笑う。今夜がとても怖い。でも、怖いといったら余計に怖くなる。
「あかりー、れいちゃーん、ご飯だから降りていらっしゃい」
階下からハナエの声が響いた。