保健室にて
「行きたいところを決めて、見学時間と、移動時間も考えてくださいね。また時間を取りますが、見学場所だけでも決められるように話し合ってください」
がやがやという教室内の喧騒に負けないよう手でメガホンを作って奥村は叫んだ。
「先生! デパートとかでもいいのー?」
「構いませんがせっかくの京都ですから、そこでしか見られないものを見たほうが良いですよ」
奥村の言葉に頷いた男子生徒が班の輪の中に戻っていく。クラスはいつも通りの雰囲気に戻っていたが、あかりは、奥村が結衣の安否については何も言わなかったことが気になり、ぼんやりと座っていた。
「あかりーん」
「今行く!」
自分を呼ぶ声にはっとわれに返って返事をすると、プリントと筆記用具を持って移動した。あかりは鈴子と結衣と同じ二班だ。
「ね、どこか行きたいとこあるー?」
二班の班長である橋本奈々が、片手でシャープペンをくるくると回し、もう一方の手でガイドブックをめくりながら言った。奈々の隣に座った二人も一緒にガイドブックを覗き込んでいる。
「とりあえず、団体で行かないトコだよねえ」
「だねー」
「お寺か、神社か、遊園地か、嵐山?……あかりんはどこがいい?」
「んー、出来れば、で、いいんですがー……神社以外?」
あかりが答えると、三人はわっと笑い声をあげた。
「そっかあ、神様同士でケンカするとか?」
「ウソウソ、冗談。いいよ、神社でも」
あかりの家は東成高校に程近い神社である。父は宮司だが、市役所職員でもある。お賽銭と、わずかなお守りなどの売り上げ、年に数件の地鎮祭だけでは、とても一家が食べてはいけないからだ。ふと、何も話さない鈴子を見やると、朝よりも顔色が悪くなっている事に気がついた。
「すず? やっぱ顔色悪いよ?」
あかりの言葉に、奈々たちもガイドブックを閉じて、俯きがちの鈴子の顔を覗き込むようにする。
「ほんとだ、保健室行く?」
「なんでもない、大丈夫。ただの寝不足だから」
鈴子は笑顔を向けるが精彩がない。騒ぎを聞きつけたのか、奥村が机を避けながらやってきて、腰を屈めて鈴子の顔を覗き込んだ。先ほどまで全く血の気のなかった鈴子の頬にすっと朱が差した。
「顔色があまりよくないね。秋月さん、保健委員ですよね? 頼めますか?」
「はい。行くよ、すず!」
奥村の言葉に頷いたあかりが立ち上がって腕を取ると、鈴子は素直に立ち上がった。あかりは奈々たちに向かって片手で拝むように手を合わせる。
「すまぬ。後の事は全ておぬしらに任せる」
「御意!」
あかりが芝居がかった口調で言うと、奈々は机に両手をついて、深々と頭を下げて答えた。
「うむ。よきにはからえ」
奈々の後頭部に向かって言うと、奈々の隣に座っていた二人が手を叩いて笑い、奥村も仕方がないな、というような笑みを浮かべた。そっと教室を出て、誰も居ない廊下を二人は並んで歩く。二年生全てのクラスがHRの時間なので、隣の教室からも、その隣の教室からも楽しげな笑い声が廊下に響いていた。二人は押し黙ったままで保健室に到着した。あかりが白いスチール製の扉をノックする。
「失礼します」
だが、中からは何の応答もなかった。どうやら保健医は出かけているらしい。いつだって居たためしがないな、とあかりは肩を竦めて扉を開けて中に入る。
「ちょっと横になってなよ」
あかりの言葉に鈴子は戸惑ったようにあたりを見回した。
「保健の先生が来るまで、あたしもここに居るから」
鈴子の手を引いて、ベッドを囲む白いカーテンをシャッと開けて、中に押し込んだ。キャスターの付いた丸椅子を引っぱってきて、ベッドの横に座る。痛いような沈黙が流れた。
強引過ぎただろうか? でも鈴子の状態は普通ではない――顔を上げることが出来ずに、あかりは鈴子の脱いだサンダルや、床の傷を眺めた。
「ありがと……あかりちゃん。ここに居てね」
弱々しい声にはっと顔を上げると、鈴子はゆっくりと横になって目を閉じた。あかりは肌掛けの上に出ていた鈴子の手を取って、そっと中に入れる。鈴子がぎゅっと手を握ってきたので、そのままあかりも握り返した。
「うん、居るよ」
目を閉じたまま、安心したように頷くと、鈴子はすぐに寝息を立て始めた。安心したのはあかりも同じだった。
余計なお世話、お節介、自己満足、あかりの性格は時々そんな風に評価される。十回の「ありがとう」を貰っても、一回の否定で自信は簡単に崩れ落ちる。良かれ、と思ったことを行動に移すのに躊躇いが生まれようになったのはいつからだったか。ほっておこう、勝手にすればいい、私には関係ない、と心の中で唱えるのだが、それでもやっぱり、目に入ってくる事柄を見過ごすことは出来ないのだった。そして最後にはお決まりの「お節介」に至る。我ながら不器用だと情けなくなることもあった。あかりはそっとベッドに頭をつける。真っ白なシーツが目にまぶしく、そっと瞼を閉じた。
ふ、と気がつくと、あかりは自宅の神社の境内に立っていた。目の前には怯えた顔の鈴子が居る。
「すず、あれ、なんで?」
鈴子はあかりの方を向いているのに、目の焦点はあかりの体を通過して、離れた場所を見ているようだった。それに気がついたあかりは何気なく振り返る。
「え?」
東成高校の女子の夏服。頭にはバケツという奇妙な風体の少女が立っていた。おいでおいでと手招きをしている。やがて、すっと一歩だけ近づいてきた。
「えっと、あの、ちょっと、待って」
あかりが困惑しながら後ずさると、ふいにその少女は姿を消した。
「うえ!?」
慌てて鈴子に視線を戻すと、転げるように石段を下っている。
「ちょ、すず! 待って!」
叫ぶと同時に、がば! と跳ね起きた。どうやら、保健室のベッドに突っ伏して寝てしまっていたらしい。キーンコーンというチャイムの音が、一時間目の終わりを告げていた。
「寝ちゃったのか……今の、夢?」
あ、と慌てて鈴子を見ると、穏やかな顔で眠っている。そよそよと気持ちのいい風がカーテンを揺らして、外から鳥の鳴く声が聞こえた。あかりは、うーん、と伸びをして、はー、と息を吐いた。カラカラと静かに引き戸を開ける音が聞こえて、立ち上がってカーテンを捲る。
「あら、どうしたの?」
大量の書類を抱えた白衣の保健医が立っていた。あかりは駆け寄って書類を受け取り、机に積むのを手伝いながら、鈴子の様子を話した。寝不足ではさすがにまずいので、適当に理由を作る。
「貧血かしらねえ。どうもありがとう」
「いえ。じゃあ、あたしは失礼します。鈴子をお願いします」
ぺこりを頭を下げ、教室に戻ろうとあかりは扉に向かった。引き手に手を伸ばすと、触らないうちに自動ドアのように扉が開いた。
「うわっ」
と思わず声が出る。扉の前には奥村が立っていた。
「なんだ、先生か」
奥村が「なんだはないなあ」と言いながら保健室に入ってくる。鈴子の様子が気になったのだろう。高校ともなれば、生徒と必要以上に関わらない担任が多くなるのだが、この少し過保護なところも、奥村の人気の理由なのかもしれない。あかりは通り過ぎる奥村の為に場所を開けながら振り返った。
「お世話になります」
奥村は保健医に向かって丁寧に頭を下げている。いいえー、と言葉だけで返事をして、保健医は書類へ向かっていた。身体測定の時期で忙しいらしい。
「秋月さんもご苦労様でした。橋本奈々さんが頑張っていましたよ」
二人居る橋本を区別する為に名前まで呼んで、奥村は微笑んだ。あかりと同じ班なのは奈々なのだから、わざわざそうする必要もないのに、まどろっこしい。教室での演説も、もっともだと思う反面、少し芝居がかっているように感じる。鈴子をはじめ、一組には奥村信者が多いから口には出さないが、あかりは奥村が少し苦手だった。
「そうですか、良かった。じゃあ、失礼します」
あかりは急いで保健室を後にした。