終夜、そして六月十九日(金)
ダム管理塔の地下室にあかりは立っていた。隣に鈴子もいる。二人は顔を見合わせた。
「ありがとう」
聞いたことのない声にあかりと鈴子は振り返る。セーラー服を着た目元の涼しい少女がこちらを見て微笑んでいた。初めて会うのに、あかりには少女が誰だかすぐにわかった。
「……二葉さん? 喋れるの?」
あかりは二葉を驚かせないようにゆっくりと質問した。二葉は笑って頷いた。
「二人が見つけ出してくれたから」
二葉の顔から笑顔がスッと消えて、辛そうに目を伏せた。
「私、どうしても結衣ちゃんを助けたくて。波長の合う鈴子ちゃんを……危ない目に合わせる気はなかったの。ここには毎日奥村が来るから、とりあえず体を見つけてもらって、警察がこの場所に気がついてくれたらって思ってたの。だけど、結局二人に怪我をさせた……ごめんなさい」
「そんな! 二葉さんのおかげだよ、結衣が助かったのは! それにあたしが一人でここに来たせいだから。すずも一人で学校に行ったし」
あかりはぶんぶんと首を振って否定する。あかりの言葉に鈴子も勢いよく頷いた。
「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しい。風香ちゃんとかのんちゃんは、気持ちの悪いわたしを親友だって言ってくれたの。助けてって言ったら助けに来てくれた。そして奥村先生に……こんな能力なければよかったって思った。そしたら二人は死なずに済んだのにって……」
あかりは言葉もなく話している二葉を見つめた。
「でも、結衣ちゃんを助けられた。次の犠牲者ももう出ない。この能力が初めて役に立ってくれた。二人のおかげで」
結衣は嬉しそうに微笑んだ。
「どうして……」
「どうしてだろうね。自分でもわかっていることは少ないんだ」
あかりは結衣に問いかける。自分でもどういう意味の「どうして」なのかわからなかったが、二葉はそれがわかっているように答えた。
「でも、もうおしまい。私は私の世界を閉じる」
言葉の意味がわからずに、あかりは黙り込む。二葉の笑顔からは何の感情も読み取れない。
「……閉じなくてもいいじゃない。毎晩、遊びに行くよ。もう奥村も居ないでしょ?」
よく考えずに口から零れたのはそんな言葉だった。二葉の顔が寂しそうに歪んだ。どんな思いで二葉は一時間だけの三年間を過ごしてきたのだろう。奥村の悪意まで取り込んで逃げ続けて……あかりには想像もつかなかった。
「私だけ……それはしちゃダメなんだと思う。のんちゃんと風ちゃんはわたしが助けてって言ったせいで殺されたんだもの」
「それは……」
あかりの言葉を制して、二葉は首を振る。
「あかりちゃん、すずちゃん、本当に二人のおかげだよ。短い間だったけど昔からの親友みたいに思ってる。でも……もう、二人と同じところに行きたいの。二人はきっと私を許してくれている」
「二葉さん……」
鈴子があかりの腕に抱きついて泣き出した。あかりの頬にも涙が伝う。二葉だけが軽やかに笑っていた。
「さよなら、大好きだよ。ふたりは幸せに生きて」
潔いと思えるほど突然に二葉は消えた。それとともに世界が白く白く輪郭を失っていく。体がずっしりと重い感覚が戻ってきて、あかりは目を覚ました。見覚えのある白い天井。消毒液の匂い。壁に掛けられた時計――。
24:00
「あかりさん?」
「……おとうさん」
自分が病院のベッドの上にいることに気がつき、心配そうな父の視線を捉えた瞬間、あかりの目から涙がこぼれた。
「二葉さん、行っちゃった。二葉さんが行っちゃったの、行っちゃったの」
あかりはぼろぼろと涙を零す。
「ありがとうも言えなかったよ、あたし、あたし」
しゃくりあげているあかりの頭を和彦はそっと優しく撫でた。
「おかえりなさい。あかりさん」
◆
翌日の朝、泣きながら眠ってしまったあかりが病室で目を覚ますと、和彦がパイプ椅子でうたた寝をしていた。トイレに行きたいのだが、点滴の管が左腕に繋がっている。でも父を起こしたくない。あかりはしばらく我慢したが、限界を迎えてナースコールを押した。
「どうしました?」
大声で答える看護師に心の中で舌打ちしつつ「お手洗いに行きたいんですが」と告げる。看護師の声で、和彦は目覚めてしまった。
「おはよう、あかりさん。起こしてくれてよかったのに」
寝ぼけ眼で和彦は答える。あかりは壁の時計に目をやる。
「お父さん、今って朝の六時?」
「うん。十九日の朝だよ」
「……結衣は?」
「命に別状はないそうだよ」
和彦の返事にあかりは眉をひそめる。命に別状は……では何に別状があるのだろう、と暗い気持ちで考えた。
「しつれいしまーす」
看護師が点滴台を持って病室に入ってくる。
「……あの、結衣はどうですか」
「はい?」
「遠野結衣さんも入院してますよね?」
「あー、ああ。大丈夫ですよ」
看護師はぶっきらぼうに言って、忙しそうに去っていった。昨日、地下室で気を失ったあかりは、気が付いたら結衣と並んで担架の上にいた。建物から出たら、台風一過というような太陽が高く昇っていて、上を向いたまま運ばれるのはとても眩しかった。
次に気が付いたときは病室だった。時間を聞いたら十九時だと言われた。結衣が無事だと聞いて、「先生は?」の質問に答えてもらえなかったあとにパニックを起こした。そこからの記憶があかりにはなかった。
「鈴子ちゃんに会いに行く?」
トイレから出ると、和彦が言った。
「いいの!?」
「ダメって言うと一人で行くでしょう」
あかりは面目ない、と笑った。和彦の目はちょっと真剣になって「本当にこれからは約束だよ」といった。和彦に支えてもらって、あかりはふらつきながら立ち上がって歩いた。
鈴子の病室の前、ちょっと息を吸い込んで、あかりは取っ手に手をかけた。顔が勝手ににやけてしまうのを止められなかった。
「おはよ! すず!」
「……あかりちゃん、あかりちゃーん」
ぼろぼろと泣き出したすずを、あかりは慌てて慰める。
泣きながら鈴子が話したところによると、鈴子が二葉に導かれて、ダム管理塔の建物にいるあかりを夢の中で見つけたのだという。警察に電話をしたが取り合って貰えず、ハナエに連絡した。ハナエが彩夏の家に行き、あかりがいないことを知って警察に捜索願をだした。そこでようやく警察が動いたのだそうだ。
「二葉さん、行っちゃったね」
鈴子の言葉をきっかけに、あかりは昨晩の夢を鮮明に思い出す。あかりは黙って頷き、それから二人で抱き合ってわんわんと泣いた。もう彼女はどこにも居ない。彼女は笑っていってしまったのだ。
「結衣に会ってくる」
あかりは、意を決したように鈴子に告げた。親友がどんな状態なのか考えるだけでも恐ろしかった。
「戻って報告してね」
「もちろんだよ! 待ってて!」
病室の外で待っていた和彦に了解を得て、二人で結衣の病室に向かう。
――面会謝絶
ドアにかけられたプレートを見て引き返そうとした時に、中から結衣にそっくりな女性が出てきた。女性はじっとあかりを見つめる。
「……秋月あかりちゃん?」
「はい」
あかりが答えると、女性は走り寄り、あかりをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
他の言葉は思いつかないように、女性は何度も「ありがとう」を繰り返す。しばらくして、はっとしたようにあかりを解放した。
「すみません。遠野結衣の母です」
深々と頭を下げられて、あかりも慌てて頭を下げた。
「結衣に会ってあげて」
和彦が頷いたので、あかりは病室に入った。結衣はたくさんの管に繋がれて眠っていた。
「命に別状はないの」
結衣の母は、細くなってしまった結衣の手を撫でながら、あかりに言った。また「命に別状は」だとあかりは思う。結衣は何を見て、何を聞いて、何をされたのか。それは聞いてはいけないことだった。あかりの視線が、骨だけのような結衣の指に注がれていることに気が付いて、結衣の母は困ったように微笑んだ。
「居なくなった七日から、昨日まで水しか飲んでいないそうなの。でももう大丈夫。傷もね、鼓膜が破られてる以外には特にないって」
目隠しをされ、鼓膜を破られ、水しか与えられずに……結衣の見た、感じた地獄は想像もつかない。あかりは二葉の音のない世界を思い出した。二葉も、母も、もしかしたら同じことを……あかりは顔が歪みそうになるのを必死で堪えた。
「また来ます。また来るね、結衣」
「本当にありがとう」
再びお礼を言う結衣の母に一礼して、あかりは病室をあとにした。
奥村は、何故あんなことをしたのだろう。あかりは和彦とともに部屋に戻りながらぼんやりと考えた。きっと知らなくていいことだ。でも、何故、という思いが消えない。
――なんでお母さんが、なんで二葉が、なんで結衣が、なんで鈴子が、なんで、なんで、なんで
ふっと落ちていく奥村の顔が目に浮かんだ。目を見開いていた。その目があかりに何故? と言っていた。落ちていった? いや、あたしが落としたんだ。あたしが、落とした。何故、落とした? 何故。
――死にたくなかったから
「あかりさん」
和彦の声が後ろから響く。同じところをぐるぐると回る思考から解き放たれて、あかりは立ち止まった。
「さて、帰ろう」
あかりは振り返って、和彦に抱きついた。
「うん、帰ろう」




