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ニ ノ イ チ  作者: タカノケイ
六月十八日(木)
33/36

母の言葉

「……あ……かりちゃん」


 細い声が聞こえた気がして、あかりは目を開いた。しゃくりあげながら、足下に横たわる結衣を見つめる。


「……どう、したの」


 結衣の唇がゆっくりと動いて、息とも言葉ともつかない声が零れた。結衣の目から、すっと一筋の涙が流れた。見ている間にまた、すっと流れ落ちる。


「な……かないで。あかりちゃん、どう……したの」

「結衣」


 結衣、結衣、結衣――あかりはぐしゃっと悲しく歪みそうになる自分の頬を、パン!と叩いた。そのまましばらく押さえ込む。


「結衣、ごめん、もう大丈夫。しゃべらなくていいよ、大丈夫、大丈夫」


 あかりは頬から手を離し、にっと不恰好な笑顔を作った。助けるんだ、あたしは結衣を助けるんだ。あかりは大きく息を吸い込む。


「ないたら……くるしくなるよ……がんばれなくなるよ……がんばるときはわらって……おわったらなくんだよ」


 うっすらと目を開き、切れ切れに呟く結衣を、あかりは呆然と見つめた。


「結衣……それ」


――あたしのお母さんの口癖


 結衣はそのまま眠るように目を閉じた。あかりはぎゅっとこぶしを握り締める。


「結衣、水、飲む?」


 あかりの問いかけに、結衣はゆっくり瞬きをして答えた。結衣の頭を膝の上に抱いて、口元にペットボトルを傾ける。結衣は少し飲んでふーと大きく息を吐いて動かなくなった。あかりは慌てて結衣の顔に頬を寄せて呼吸を確認する。


――息してる


 はあ、と安堵のため息をついて、あかりはぐっとおなかに力を入れた。立ち上がり、ゆっくり近づいてバケツを拾い上げる。そうっと元の場所に戻して冷凍庫を閉めた。冷たい冷蔵庫の扉にそっとおでこをつける。


「わかった。お母さん、あたし、がんばるから見てて」


 あかりは地下の廊下に繋がる扉の前に移動して、隙間からにおいを嗅いだ。かび臭い土のにおいがするが、煙の臭いはしない。あんなに扉が燃えていたのに、と思う。燃えるものがなくなって火が消えたのだろうか。この扉を開けた瞬間、爆発したりするだろうか。酸素がなくなって消えた部屋のドアを開けることで酸素を送ってしまい爆発する。そんな映画を見たことがある。そう考えて、あかりは廊下側の扉を諦め、階段に繋がる扉の前に立った。ドアノブは回るが、やはりどんなに押しても開かない。あかりは部屋に並ぶロッカーを見つめた。一番近いロッカーから開けていく。いくつめかのロッカーに古い新聞があり、日付を見ると四十年前だった。次のロッカーを開ける。


「きゃあ!」


 あかりは高い悲鳴を上げた。ロッカーには迷彩柄のレインコートが三着かけてあった。


「もう! 脅かさないでよ!」


 あかりは大きな独り言をいってレインコートの間に懐中電灯を差し込んで、他に何か無いか探った。レインコートは全て同じ型で、隙間から袋に入ったトカゲマークのサンダルも三足出てきた。深く息を吐いて、次のロッカーを開ける。

 赤いガソリンの携行缶が入っていた。横のフックに警備員が持っているような細長いライトが三本かかっている。あかりは一本を手にとって、スイッチを入れる。あかりの持っている懐中電灯よりもずっと明るい光が満ちて、それだけで少し安心できる気がした。残りの二本もスイッチをいれ、ひとつを結衣のそばに、もう一つを階段に繋がる扉の前に立てた。自分が持ってきた懐中電灯は結衣の顔が見えるよう、床に転がす。


 最後のロッカーのフックには革のナイフホルダーにはいった刃物がぶら下がっていた。箱がいくつも積み上げられている。あかりは唾を飲み込んで一番上の箱をひとつ引き出す。床においてそうっと開けて中を覗きこんだ。白いTシャツがびっしりと入っている。あかりは袋を開けてそれを着込んだ。残りの袋もばらばらとあける。


「結衣、ちょっとごめんね」


 小声で言って、結衣の頭を持ちあげて、Tシャツを丸めて作った枕を入れる。次の箱は空で、抜き出すと奥に木の柄が見えた。あかりは軽い空箱を床に放って、ロッカーにそっと手を差し入れて、柄を握る。引っ張り出すと、大きいのこぎりだった。のこぎりを引っ張り出して崩れた箱の奥に、木工用のハンマーも見つける。念のため、他の箱も調べるが全て空だった。


「これで」


 あかりは、階段に繋がる扉の蝶番をハンマーで叩き始めた。何度叩いてもびくともしない。ならば、と模様の刻まれた扉の一番薄そうなところを叩いてみる。こちらも何度叩いても少し凹むだけだった。

 ハンマーを持ち替え、クギ抜きの側で叩いてみる。少しづつ木の扉がささくれ立って削られた。あかりはハンマーを強く握りなおして、懸命に叩き続けた。数年前は竹刀ダコが出来ていた手のひらも、今は薄く柔らかくなってしまっている。あっという間に皮が剥けて血が滲み始め、Tシャツを刃物で裂いて手のひらに巻いた。

 どのくらい叩いただろう。とうとう、ドン!とハンマーの先が扉に食い込んだ。小指の先ほどの穴から向こう側を覗く。真っ暗で何も見えない。あかりは時々結衣の様子を見ながら、黙々と扉をたたいた。

 もう手のひらが痺れて感覚がなくなっている。扉には、あかりのこぶしが入るくらいの穴が開いていた。耳をつけると、外ではまた雨が降り出したらしい。穴からは雨の音と、少し煙った匂いが流れ込んだ。どこかまだ燃えているなら、雨で消えてくれれば、とあかりは思う。ふう、と息を吐いて、あかりは次の一撃のためハンマーを振り上げた。


――何か聞こえる!


 穴の向こうから、確かに今までになかった音を聞いた気がした。あかりは慌てて扉の穴に耳を戻す。聞き漏らすまいと全神経を耳に集中した。


「――か 誰かいますか」


――人がいる! 


 心臓が跳ね上がった。あかりは穴に口を当てて叫んだ。


「ここです! 助けて! 助け」


 声がかすれて出ない。床に転がしていたペットボトルを拾い上げて水をごくごくと飲み干す。飲みきれない水が、胸元にぽたぽたと零れた。


「お願い! 助けて! 助けてーー!!」


 穴に向かって叫んで、耳をあてる。お願い、お願い、お願い、と呟きながらあかりは祈るように耳を澄ませた。


「おい……何か聞こえたか」

「いや?」

「返事をしてください! 誰かいますか!」

「おーい、おーい。……居ないんじゃないか?」


 声は遠く小さい。恐らく外に居るのだろう。あかりは穴に向かって両手でメガホンを作って叫ぶ。


「ここです! います! 助けて!!」


 お願い、お願い、あかりは必死で叫び続ける。


「聞こえた! 向こうからだ」

「誰かいるんですかー!」

「おーい!」


 呼びかける声がだんだん近くなる。


「います! ここです! 地下です! 建物の西側です!」

「聞こえた! 西の地下だ!」

「おい! いたぞ! こっちだ」


 声がどんどん近くなり、足音が聞こえた。穴の向こうに警察官らしき男の姿が見える。


「秋月あかりさん?」

「はい、そうです。遠野結衣も一緒です。はやく結衣を、はやく助けて」


――助かった。助かったんだ


 ほっと気が抜けた瞬間に、あかりは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。えらいわねえ、そんな懐かしい声が聞こえた気がした。

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