遠野 結衣
「もう歩けない」
少女が呟いた。少年は困ったようにふり返る。冷たい雨が降り出していた。
「もう時間がないんだ」
言ってしまってから少女に言葉が届かないことを思い出す。村を見下ろせる高台まで上ってきた。あと少し歩けば道路に出る。その道を下れば村のバス停の二つ隣のバス停に出るというのに……少年は少女の手を引くが、少女は座り込んでしまって動かない。仕方なく少年は少女を大きな木の下に座らせて、自分も隣に座った。背負ったリュックからバスの中で食べようと思っていたおにぎりを取り出す。
「ゆっくり食べなくちゃだめだよ、おなかが痛くなるから」
少しづつ千切りながら少女に手渡す。少女は泣きながらおにぎりを食べた。
「行こう」
少年が立ち上がったその時、ものすごい音とともに山が揺れた。少年達の上った山の反対側の山の頂が赤く光っている。二人は抱き合って長い揺れに耐えた。恐ろしくて動けずにいるうちにあたりは明るくなっていった。
「あ!」
少女が眼下の村を指差す。二人が生まれ育った村があったはずの場所は湖になっていた。
◆
草刈機の刃が唸りを上げてあかりに迫った。刃はあかりの腕の薄皮一枚を削いで止まった。そのままゆっくりと離れていく。驚いた顔の奥村が、腐った床板に開いた穴の中に吸い込まれていき、後を追うように草刈り機が落ちていった。
「ぎゃああああああああ」
床の穴から凄まじい悲鳴が響く。あかりは息を詰めてゆっくりと漆黒の穴まで這って行った。奥村の落ちたあたりの床板がバキバキに割れている。
「きゃあ!」
穴の縁まで届いたあかりの手がバキン、と床板を割った。裂くような悲鳴は続いている。あかりは立ち上がり、首だけを伸ばして床下に懐中電灯を向けた。ちょうど、草刈り機が奥村の足を切断し終わったところだった。見開いた奥村の目があかりを見た。
「助けて! 死んじゃうよ! 血が出てる! 助けて!」
奥村は甲高い声で叫んで、あかりに助けを懇願した。あかりは自分がしたことの結果を許容できずに、呆然とそれを見つめる。
「助けてくれ、頼む。寒い、寒い、怖い、怖い……」
奥村は沢山の機材に挟まって動けないようだった。足首から血が、流れるというよりも噴き出している。縋る声にどんどん力がなくなり、草刈機も動きを止めて、しん、とした静寂が訪れた。あかりはようやく我に返った。
「先生! 今、助けを呼んできます!」
「……助け?」
あかりの声を聞いて、ぼんやりと空中を見ていた奥村の目に正気が戻った。それはかつて担任だった男の顔だった。
「どうして助けようと思えるんですか?」
不思議そうにあかりを見つめる。あかりは思わず目を逸らした。その瞬間、奥村の顔が醜く歪んだ。
「ああ、そうか、人殺しになりたくないのか……じゃあ、卑怯者はお前もじゃないか! 床板が腐っているのを知っていたろう? 知っていて落としたんだ。目を逸らすな? 傑作だよな、人殺し!」
人殺し、卑怯者、と叫びながら狂ったように笑い出した奥村を残して、あかりは走り出した。
――何も考えちゃだめだ。走れ、走れ、走れ。大丈夫、大丈夫、大丈夫
あかりは先ほど通ったばかりの道を逆走して、まっすぐ地下室へ向かった。始めてみる場所も、夢の中と全く同じだった。地下への階段を駆け下りて扉を開く。
「結衣!」
地下室の隅に横たわる結衣は、ぴくりとも動かない。目にはぐるぐると布が巻かれている。手足は拘束されていないが、身に付けた制服はこれ以上ないくらいに汚れていた。微かに汚物の匂いがする。
「……結衣?」
あかりは暗闇の中、懐中電灯の光に浮かび上がる結衣を扉に手をかけたまま凝視する。それ以上、近づくことが出来なかった。
「ねえ……結衣ってば、結衣、結衣」
結衣の生死を確認するのが怖かった。あかりが名前を呼んでも、結衣は動かない。
「結衣! 結衣! ねえ! ねえってば!!」
あかりの絶叫に、ぴくり、と結衣が動いた。
「……だれ……か……たすけて……」
かさついた唇がほんの少しだけ動いて、細い声が漏れる。
「結衣……結衣!」
あかりは駆け寄って結衣の手を握る。指は枯れ枝のようだった。そっと目に巻いてある布を外す。頬がげっそりとこけていた。うっすらと目を開いたが、どこを見ているのかわからなかった。だが、生きていた。
「結衣、もう大丈夫だよ。ちょっと待ってて」
立ち上がろうとしたその時、どーん! という爆発音と、凄まじい揺れが起った。
「きゃあああ」
悲鳴を上げて、あかりは結衣に覆いかぶさった。室内にはもうもうと土ぼこりが舞う。あかりはパーカーを脱いで結衣にかぶせ、Tシャツも脱いで、自分の口と鼻を覆った。
「……大丈夫。すぐだから。すぐ助けを呼ぶから。待ってて」
あかりは土ぼこりの中、手探りで扉に向かう。
――開かない!
「なんで! なんでよ!!」
建物が歪んでしまったのだろう。扉はいくら押しても開かなかった。
あかりは地下の廊下に出る扉に向かった。この先にあった扉の向こうのボイラー室、恐らくそこに奥村が落ちている。ボイラ-室の扉は鍵が閉まっているから大丈夫だとわかっていても行きたくなかった。だが出口はここしかない。息を呑んで扉を開けた途端に、部屋にきな臭い匂いが吹き込んだ。廊下の突き当たりの木製の扉が燃えている。あかりは慌てて扉を閉めた。
「……火をつけたんだ……どうやって……」
あかりは呆然と呟く。よろよろと歩いて、結衣の横にぺたりと座り込んだ。もう涙も出なかった。携帯を拾っていたら爆発に巻き込まれたかもしれない。だが、扉は開かず、ここにいることを誰にも連絡できない。奥村はまだ生きているのだろうか。
――もうどうでもいいかな
あかりはただ、疲れていた。もう、疲れきっていた。結衣の横にごろりと転がり、とんとんと、あやすように結衣の背中をたたいた。目が自然と閉じて行く。意識を手放す寸前、あかりは緑色の光に気がついた。
「……あ、冷蔵庫……」
鉛のような体を押し上げて立ち上がり、そろそろと近づく。ドアを引くと、中には沢山のミネラルウォーターが入っていた。全て海外の同じメーカーで、冷蔵庫にびっしりときれいに並んでいる。あかりは一本抜き取って、キャップを捻り、ごくごくと飲み干した。水が体中に染み渡り、あかりの頭をはっきりと覚醒させる。
もう一本抜き取って結衣に近づき、そっと頭を抱え飲み口を口元に近づけた。結衣はゆっくりゆっくり少しづつ飲んだ。
――結衣は必死で生きてる。あたしが助けるんだ
「大丈夫。結衣、大丈夫だよ」
あかりは再び冷蔵庫を開けた。次々とミネラルウォーターのキャップを捻って、水を頭からかぶる。あのバリケードを壊して1階に戻るには、だいぶかかりそうだから氷もあった方がいいかもしれない、と思いつき、屈んで冷蔵庫の下についている冷凍庫を開けた。
「いやあああ!!」
あかりは驚いてしりもちをつく。見えたのは髪の毛、だった。震える肩を両手で抱きしめる。怖い。だけど――あかりはそろそろと起き上がる。落とした懐中電灯を手さぐりで拾って、たち膝で中を覗きこんだ。
――銀色のバケツ
銀色のバケツの中には大量の髪の毛が入っている。その隣にも何かある。バケツの持ち手を握って、そっと持ち上げた。バケツはずっしりと重かった。入っているのは髪の毛だけではないだろう。側面には油性ペンの文字で
2-1
あかりの頬を涙が流れた。二葉の頭が入っているのだろうと思ったが、怖くはなかった。ただ、胸が張り裂けそうに辛かった。あかりは視線を落とす。バケツがあった場所の横には透明のナイロン袋に包まれた……人の顔……。
――お母さん?
あかりはバケツを取り落す。頭部がこの建物のどこかにあるのだろう、と想像はしていた。見つけてしまう覚悟もしていた。バケツの中には二葉の頭が入っているのだろう、と思った。だが、実際に目にするのは全く違っていた。霜で覆われていたが、バケツをどかしたことで見えた顔に確かに残る母の面影に、腰が抜けてぺたんと座り込む。いや、いや、いや、と首を振りながら、座ったままで後ずさる。手が転がっていたバケツに触れた。
「いやあ!」
思わず手を引いたせいで、バケツは更に転がった。あかりは四つん這いになって、ずるずると結衣の傍まで這って行った。
「助けて……結衣、助けてえ! やっぱり無理。もういやだ、もういやだあ」
あー、あーー、とあかりは結衣の手を握って、目を閉じて、声をあげて泣いた。




