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ニ ノ イ チ  作者: タカノケイ
六月十八日(木)
31/36

卑怯者

 無音の世界に突然、草刈機の唸る音が響いた。


――動け!


 あかりは、その場にしゃがみ込む。思ったよりもずっとぎりぎりで刃を躱す。戻る前の自分と、今の自分の間に違和感がある。竦みあがった恐怖が体に残っているのかもしれない。あかりは、思い通りにならずにぎくしゃくする体を無理矢理に左に捻った。まさか避けられるとは思っていなかったのだろう。奥村はよろめき、草刈り機の歯がスチール製のロッカーに当たって火花が散った。


――いけ、いけ、いけ


 あかりはダンボールの山を崩してカーテンをくぐる。ホールには高い位置に窓があり、そこから差し込む月明りで足元が見えた。いいぞ、とキャットウォークを走って渡り、梯子を降りた。ホールを横切る間も奥村の姿は見えない。


――間に合う


 扉が閉まっているので、一瞬ヒヤリとしたが、ドアノブを回すと簡単に開いた。だが、廊下は夢の中とはちがい真っ暗だった。あかりは懐中電灯を下に向け、足元を確認しながら壁際を早足で歩く。


「秋月さーん」


 奥村の声に身がすくみ、思わず駆け出す。気をつけて端を走っていたつもりが、バキ!っと音がして、あかりは床板を踏み抜いた。


「きゃあ!」


 慌てて足を抜いて、扉までたどり着いた。膝から下が擦り切れたのだろう。じんじんと痛むのもかまわず走り、ドアノブに飛びつく。


――よし、回る


 だが、扉は十センチほど外側に開いて、何かにあたった。焦ってどんどんと押すが、それ以上、全くびくともしなかった。


――夢と違う!?


 あかりは慌てて振り返った。走って戻ってなんとか入り口の扉を塞ぐしかない。あかりは薄明かりが漏れている扉を目指して走り出した。途中に落ちていたモップを拾う。扉の閂にすれば、しばらくは入れないはずだから、その間に腐った床板を壊して地下に移動しようと考えた。


 だが、あかりが扉に辿り着いたとき、同じタイミングで奥村も扉に辿り着いた。あかりが閉めようとした扉に、どん! と手をつく。


「あそこ、開かなかったでしょ」


 間近に奥村の笑顔が見えた。肌がきれいで歯並びがいい。だが、とてつもなくおぞましかった。


「ぐるぐる逃げられたら面倒だと思って、来る時に塞いでおいたんだよ」

「いやあああああ!」


 あかりは叫んで、慌てて振り返る。割れたガラスで足が滑り、壁にぶつかってガラス片の散らばる床に手をついた。鋭い痛みが走る。壁にぶつかった拍子に懐中電灯の光も消え、モップも手放してしまった。あかりは、奥村が持っているライトの光を頼りに走った。それに気づいた奥村がライトを消す。突然のまっ暗闇に、あかりは慌てて立ち止まった。

 そろそろと壁際を伝うように歩く。バキン、とまた床板が鳴る。なんとか扉に辿り着き、手探りで何かないか探す。ピリピリと手のひらに痛みが走った。武器になるようなものも、床板を壊せるようなものもない。逃げ場を失い、扉をがんがんと何度も開け閉めする。


「秋月あかり」


 ぱっと明るいライトが付く。奥村は振り向いたあかりの顔にライトを当てた。まぶしさにあかりは思わず目を閉じる。奥村はあかりから少し距離をとって立っていた。恐怖があかりの全身を支配していた。何かしなければ、とは思うのに思考も体も動かなかった。


「これはね、大切な儀式なんだ。この街を災害から守るための術式なんだよ。この六年、何も起こらなかっただろう? 最初の三年は君のお母さんが、次の三年は小倉さんが、柱になってこの街を守ったからなんだ。さっき、蛇森地区で土砂崩れがあったんだけど、ニュースで見たかい? 家が数件埋まって行方不明者もいるらしい。こないだは、田沢のあたりで突風が起きてビニールハウスが飛ばされたろう? どちらも結界の外ではあるけど、それでも術式が弱くなってることには違いない。なんでこんなにすぐに弱くなるのか……やはり場所が悪いのか……柱の血筋のせいなのか……でも、もうすぐだ。これからの三年は遠野さんが守ってくれる」


 奥村は恍惚とした顔でべらべらと一人で話した。あかりは途中から内容がわからなくなった。だが、そんなことの為に母が……と思ったら、輪郭がぼんやりしていた奥村が徐々にくっきりと見えてきた。


「秋月さん。僕だって苦しんでいるんだ。君のお母さんや小倉さんを結果的には殺すことになったんだからね。でも僕は、噴火や、洪水や、地震や、不作や……そんな全ての恐ろしいことから町を守る義務があるんだよ。そうしなければいけないんだ。それに、町を守るのだから、これは名誉ある死だよ? 君の住む町を守れてお母さんは本望だったと思うな。君のお母さんの尊い犠牲に報いるために、君には特別よくしようと思っていたのに……」


 あかりは奥村を見つめる。どうして、笑っているのだろう。苦しんでいると言いながら、義務だからと言いながら、何故こんなに楽しそうなのだろう。あかりの心にもう恐怖はなかった。静かで冷たい怒りが胸の奥で炎をあげずにくすぶっている。あかりはすっと目を閉じた。


――迷ったら、あかりの信じたとおりにすればいいのよ。あかりは間違わない。だって、お母さんがそう信じてるから


 お母さん、お母さん、お母さん、とあかりは胸の中で繰り返す。あたしがこれからすることを許してください。失敗しても成功しても許してください。あかりはすっと目を開いた。


「本当に、本当に残念だよ」


 口元に笑いを浮かべてそう言う奥村を、あかりはかっと目を見開いて睨みつけた。懐中電灯をつけなおし、叩きつけるように奥村を照らす。


「ただの人殺しのクセに」


 あかりは強く言いきった。だが奥村は、馬鹿にするように、あはははは、と笑いだした。そして、おかしくてたまらない、堪えられない、というように、くっくっく、と口を押さえて俯いた。


「目を逸らすな。この卑怯者」


 あかりの言葉に、奥村が、ぱっと顔を上げた。あかりの顔を、今はじめて見るように見つめる。何かを呟いているが聞き取れない。声はどんどん大きくなっていく。


「卑怯者と言ったのか?」


 奥村の目はどこかおかしなところを見ていた。卑怯者? 誰が? 僕が? 君が言うのか? そんなことを、ぶつぶつと呟き続ける。あかりは自分でも怖いほど冷静だった。怒らせよう、そう思って偶然出た言葉が、奥村の心に刺さったと直感した。


「偉そうなことを言って、目を逸らすのは全部嘘だからよ。本当は殺したいだけ。殺すのが楽しい変態野郎。儀式なんてただの言い訳。哀れで卑しい嘘つきの卑怯者」

「黙れ! 黙れ! 黙れ!」


 奥村は目を血走らせ、唾の泡を飛ばしながら叫びだした。


「怒るのは本当の事だからでしょ。卑怯者」

「黙れえ! 僕を卑怯者と呼ぶな!」


 奥村はライトをあかりに投げつける。ライトはあかりの頬をかすって、扉にぶつかって壊れた。あかりは目を閉じることもなく、奥村の目をさらに睨みつける。奥村は頭を掻きむしりながらあかりの視線を受けている。


――泣いてる


 あかりは衝撃を受けた。こんなに狂っていたのだろうか。二ヶ月以上、自分の前に立っていた穏やかな先生がもう少しも思い出せない。あかりは懐中電灯を消す。あたりは真っ暗になった。


「卑怯者! 卑怯者! 卑怯者!」


 あかりは叫び続けた。


「黙れーーーーーー!!」


 奥村は草刈機のスイッチを入れた。目が暗闇に慣れて、あかりには奥村の輪郭がぼんやりと見えた。


「卑怯者! 卑怯者! 卑怯者!」


 草刈機に負けないよう、あかりは大声を張り上げる。奥村はなんと言っているのか聞き取れない叫び声をあげると、刃を水平に持ち上げて、あかりに向かって走った。あかりはなるだけ扉に背中を押し付けて、体の前で腕を交差させた。

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