七夜
草刈機を振り上げる奥村のゆっくりとした動きを、あかりは呆然と見つめる。振り上げる必要はないのに、恐怖を与えるためにわざわざそうするのだろう、とぼんやり思った。死にたくない、怖い、という思いはなく「ああ、この恐怖が終わるのだ」と自分の全てが死を享受したのを感じた。
「……え?」
草刈機の音とともに奥村が消えた。あかりは腰が砕けたように座り込む。しばらく放心状態だったが、ふと「目が痛い」と感じた。汗が流れ込んだらしい。袖で顔を拭いて顔を上げると、二葉が立っていた。はっと気づいて慌てて携帯を見る。
24:00
あかりは顔を歪ませた。死刑宣告されたような気持ちだった。自分は一時間後に先生の手で……
――殺される
今にもパニックを起こして叫びだしそうになった時、二葉がそっとあかりの袖をひいた。部屋の隅を指差している。先ほど積まれていた空段ボールはなくなっていて、破れたカーテンが見えた。その後ろに何か見える。色彩は相変わらずのモノクロ調だが、室内は現実よりもだいぶ明るく、部屋の様子が良くわかった。
二葉は勝手知ったるように、カーテンをくぐっていなくなった。あかりは大きく息を吸い、パン、と両手で頬を叩いて立ち上がった。
カーテンをくぐるとそこは、一階の玄関ホールが見下ろせるキャットウォークだった。あかりがいるのとは逆側の端に鉄製のはしごがついていて、ホールに降りられるようになっている。ホールからこちらを見上げている二葉に気づいて、あかりは走って行ってはしごを降りた。反対側の壁にもキャットウォークがあるのを確認する。おそらくその先の部屋から出る扉は二階に上がって一番初めにあった、鍵のかかっている扉だろう。
二葉がどんどん歩いていくので、あかりは慌ててついていった。玄関から入ってホールの奥、右手にある開けっ放しの扉を入って続く廊下を真っ直ぐ進む。突き当たりの扉はやはり開けっ放しになっていた。扉の手前の床は腐って穴が開いていて、地下のボイラー室らしき部屋の機材が見えた。あかりは壁を伝うようにして穴を避けて歩く。ここは気をつけて歩かないと、と頭に刻んだ。
突き当たりの扉を抜けると、先ほど駆け上がった二階へと続く階段の前に出た。そういえば、ここの鍵は確認していなかったな、と思いだす。地下への階段は、現実と同じく塞がれていた。
廊下をすすむ二葉は、あかりがあちこち確認してすぐについてこないせいか、待つように立ち止まっていた。あかりは並んでいる扉をひとつずつ確かめる。そして、夢の中で扉が壊れるとか、付いていないとか、開いているとかして通れる扉と、現実で開けることが出来た扉の場所が同じであることに気がついた。
――これで逃げ道を見つけておけば
あかりが建物の中に入ってきた扉は閉じられている。奥村が鍵を閉めたからだろう。無駄だとわかっていてもノブを回してみたがやはりだめだった。長い廊下の突き当たりには反対側と同じように上下に階段があった。上ってみると、こちらも現実と同じようにバリケードで塞がれている。
「ここもだめか」
音にならない声であかりは呟き、地下への階段を降りはじめている二葉を追いかけた。階段を降りるとすぐに四角い模様の扉があった。
――何、これ
中に入ったあかりは、思わずニ・三歩後ずさった。部屋の真ん中に、長い会議用の机が三台並んで置いてある。そこから滴っているモノクロの世界の中の鮮やかな赤。ごくり、と喉を鳴らすが、口の中はからからだった。
次に緑色の小さな光が目に入った。それは大きな冷蔵庫だった。まだ新しいように見える。震える手で、取っ手を掴むが、開けることはできなかった。
――!!
二葉があかりの制服の裾を引く。緊張していたあかりは、声も出ないくらい驚いた。息を整えて二葉を振り返り、二葉が指をさしている方向に目をやる。
「結衣!!」
部屋の隅で、膝を抱えて座っているのは結衣だった。白っぽい着物を着せられ、目は布で巻かれ塞がれているが、見間違えるわけもない。
「結衣! 結衣!」
結衣はマネキンのように動かない。音がでないとわかってはいるが、声の限りに叫ぶ。痩せている……あかりは結衣に抱きついて、わあわあと声をあげて泣いた。どん、という衝撃を肩に感じて振り返る。二葉があかりの肩を叩いていた。どん、ともう一度叩かれる。あかりは涙を拭いて黙って頷く。
――そうだ、泣いてる場合じゃない
奥村から逃げ出し、結衣を救ってここから逃げなくては。そのためには二階の角部屋から結衣を助けに地下室に向かうルートと、地下室から外に逃げるルートを、今のうちに見つけておかなくてはいけない。時間は一時間しかないのだ。
地下室には部屋には入ってきたのとは別にもうひとつ扉があった。その先は、長い廊下になっている。廊下に並んでいる扉は全て閉まっていて、廊下の突き当たりの扉だけが開いていた。
突き当たりの扉の先の部屋の中には二つの扉があった。一つは鉄の扉で「ボイラー室」と書かれている。ボイラー室の扉は開いていない。もう一つの扉の先には階段があった。だが、一階から見たバリケードが、下から見ると思った以上に積み重なっていた。追いつかれる前に崩すのは無理そうだ。
あかりは諦めて引き返す。奥村に捕まらずにここまで来ても、ここから引き返して別の出口から外に出るのは無理だろう。結衣を置いていけば、自分だけなら、逃げられるかもしれない。
――もしかしたら結衣はもう手遅れかもしれない。でも……
あかりはキっと前を向く。
――携帯を拾って、助けを呼んで、ここに立てこもるしかない
机と、ロッカーと冷蔵庫がある。扉の前に倒せば開けられないだろう。
「オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ」
真言がモノクロの世界に響き、二葉が、ふっと消えていなくなった。あかりは慌てて一階に戻る。声は地下から動かないようだ。すばやく、扉の数と、通れるかを確認しながら、あかりは元の部屋に戻った。
「時間が戻ったら、すぐにしゃがんで左に体をひねる。立ち上がってダンボールを崩してキャットウォークに出る。梯子を下って、ホールを横切って、右の廊下を進む。床の穴に気をつける。一階の廊下に出て携帯を拾う。まっすぐ走って地下に降りる。机で扉を塞いで、反対の扉も塞いで、電話で助けを呼ぶ」
手順を頭の中で何度も繰り返した。火をつける、という奥村の言葉が頭をよぎるが、建物はレンガだし地下なら火も入りづらいだろう。と思い直す。
24:59
あかりはなるべく、現実で立っていた場所に近いところに立った。先ほど感じた諦める、という甘い誘惑が心をよぎる。死んでしまえばこれより怖い思いをすることはない。
――だめ、だめ、だめ。お母さん、あたしを守って
あかりはすうっと息を吸い込んでまっすぐ前を見た。




