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ニ ノ イ チ  作者: タカノケイ
六月十七日(水)
29/36

東成ダム管理搭

「秋月さん」


 その声の主に思い当たったあかりの心臓が大きく脈を打った。ごくり、と生唾を飲み込む。眩しくて姿は見えないが、毎日教室で聞いている奥村の声だった。あかりは逃げ道を探して無意識に左右を見回した。


「よかった。奈々さんから連絡がきて。奈々さんもいるんですか? 大丈夫ですか!?」


 焦りに心配を含んだ声を聞いて、あかりは怖がった自分がおかしくなった。先生なら、こんな事をしなくても、今までいくらでもチャンスがあったじゃないか。おそらく本当に奈々が先生に連絡したのだ。こんなに心配してくれているのに疑うなんて、と構えていた木刀をおろす。奈々から連絡が来ているかもしれない、と携帯電話を取り出した。


「すみません。奈々はまだ見つかってないんです……」


 あかりは携帯の画面を見つめながら返事をして、奥村の方に一歩踏み出す。顔を上げるとライトにも目が慣れ、ようやく奥村の姿を捉えた。


――迷彩柄のレインコートに、黒いトカゲつきのサンダル


 あかりはくるりと向きを変えて走りだした。


「秋月さん?」

「あの、奈々を探してきます!」


 気がついたことを悟られてはいけない。あかりは濡れた落ち葉に足を取られそうになりながら、全力で走る。


「秋月さん、危ないから止まりなさい」

「大丈夫です! 奈々! 奈々ー!」


 一人なら、隙をついて逃げられるかもしれない。だが、奈々を置いていくわけにはいかない。角を曲がり、壁と塀の間を建物の裏側に向かって走る。行き止まりを右に曲がって、あかりは息を飲んだ。

 建物の半分あたり、ちょうど正面玄関の真後ろあたりだろう。錆びたドラム缶や崩れた木製のパレットが積み上げられ、行く手を遮っていた。あかりは懐中電灯を振り回し、裏口の扉を見つける。祈るような気持ちでドアノブをまわした。


――開いた!


 躊躇せず、中に踏み込む。目の前は壁で廊下が左右に伸びていた。あかりは少し迷って左に曲がって走った。廊下には割れたガラスが散乱していて、足の下でパリパリと砕ける。転んだら……と思うとぞっとした。窓には全て板が打ち付けてあり、隙間からわずかに月の明かりが射しこんでいるものの、ほぼ真っ暗だった。


「……奈々 ……奈々」


 奥村に場所がばれないよう、あかりは低い声で呼びながら走る。沢山の扉が並んでいるが、次の廊下に出るものか、行き止まりの部屋のものかもわからない。あかりは鍵のかかっていない扉は全て開きながら進んだ。奈々を見つけるためと、逃げるためのカモフラージュのつもりだが、たいした時間は稼げない気がした。


 ぽん、と携帯が鳴った。そんな場合ではないのだが、あかりは走りながら携帯を開く。そんな場合ではないのに、冷静なつもりがパニックで正常な判断ができなくなっている。あかりは、ちっと舌打ちをして「しっかりしろ」と自分を叱咤した。


《7》  秋月さーん、どこにいるの?


 あかりは思わず立ち止まった。


――奈々じゃない


 奈々は自分を秋月さんとは呼ばない。


――罠だったんだ


 それをばらすということは、奥村はここから自分を生かして帰す気がないのだ。あかりは懐中電灯の明かりだけを頼りに走りながら、携帯に文字を打ち込む。自分がここに居ること、犯人は奥村だと誰かに伝えなくては、と思った。


「わっ」


 足下を見ないで走っていたので、落ちていた瓦礫に足を取られてよろめき、手から携帯が飛んでいった。携帯電話は廊下の隅の瓦礫の山の中に落ちる。その瞬間、ガチャリと鍵の閉まる音が聞こえ、振り返ると廊下の先に奥村が見えた。外からの扉の鍵をかけたらしい。


「……い、いや……」


 ぞくりと何かが背中を嘗めあげる感触にあかりは身震いした。携帯を諦めて走り出す。突き当たりに二階に上がる階段があった。下りの階段もあるので地下があるのだろうが、机や椅子で塞がれている。あかりは二階への階段を上った。登りきると、二階も一階とほぼ同じ構造であることがわかった。三階があるように外からは見えたが、三階に続く階段はない。

 並んでいる二階の窓にも全て板が打ち付けられていた。いざとなったら飛び降りようと思っていたのに――。


「このっ! このっ!」


 あかりは木刀でめちゃめちゃに板を打ち据える。涙が零れて、ごしごしと袖で拭いた。諦めちゃダメだ、と息を整えて近くにあった扉が開くか確認する。


――開かない


 あかりは次の扉にも手をかける。


――ここも開かない


 ぎし、ぎし、と階段を上ってくる足音が聞こえた。並んでいる扉は無視して一気に走る。


「うそ!」


 廊下の行き止まりには一階へと降りる階段があるが、ここも机のバリケードで塞がれている。慌てて引き返し、一番近くのドアに手をかけた。


――開いた!


 中に滑り込んで扉を閉める。懐中電灯を振りまわすが、入ってきた扉しかなかった。窓もない。隠れるような場所もなかった。部屋の隅に空のダンボールが高く積まれていたが、空っぽでバリケードにはなりそうもない。

 遠くの扉が軋む音がした。あかりは息を殺してじっと耳をすませる。棚を開けるような音や、布を裂くような音が聞こえた。部屋の中を探しているのだろう。しばらくすると、足音が少しこちらに近づき、また扉を開ける音が聞こえた。ダンボールを投げるような音や、ロッカーを開け閉めするような音が続く。

 一つずつ部屋を確かめているようだ。扉はいくつあっただろう。このままでは捕まってしまう。奥村が次の部屋に入ったら、思い切って扉を開けて走り抜けよう。あかりはそう覚悟を決めて、その時を待った。


―――部屋を出た。次の部屋の扉を開けて中に入ったら……うそ……


 まだまだ扉があったはずである。それなのに奥村は立ち止まることなく歩いてくる。足音があかりの潜む部屋の前で止まった。ごとん、と床に重いものを置く音がした。


――他は全部鍵がかかってたんだ! どこが開いててどこが閉まってるかを知ってるんだ!


 怯えるあかりの前で、扉がゆっくりと開いた。


「秋月さん」


 レインコートのフードを目深に被った奥村が、教室で話しかけるように、あかりの名を呼んだ。あかりは、木刀を正眼に構えた。木刀の先があかりの震えに合わせて、上下に細かく動いている。


「そんなものは危ないから降ろしなさい。秋月さんが降ろさないなら」


 奥村は少し屈むと肩掛け式の草刈り機を持ち上げた。重そうに革のショルダーを肩に掛け、自転車のようなハンドルを握る。ハンドルから一メートル以上も柄が伸びている。その先で直径三十センチくらいの丸いノコギリの刃が光っていた。


「警察を呼びましたか? でも雨と土砂崩れでそれどころじゃないから、すぐには来ないと思うな。橋本奈々さんは今、自宅にいますよ。先生が携帯を取り上げたまま、うっかり持って帰ってしまったので退屈してるかもしれませんね」


 奥村はいつもよりも砕けた様子で、人事のように言うと、くっくっくと、喉の奥で笑った。


「秋月さんは、性懲りもなくふらふらこんなところに来て。そんな悪い子はどうなるのかわかりますか。さて、早く終わらせましょう。やることが沢山あるんですよ。これが終わったら向こうに大事なものをうつさないと。ここには火をつけて……ああ、本当に面倒くさいなあ……どいつもこいつもじゃまばかりしやがって……なんなんだよ」


 奥村はいつも通りの口調でにこやかに話し始めた。話しながら笑顔がなくなり、最後は全くの無表情になった。先生が先生じゃなくなっていく……あかりは震えながらその変化を見守った。突然、奥村が草刈機のスイッチを入れる。モーターが唸りをあげて、丸い刃が回転を始めた。


「あの子は母親が幼い頃にいなくなったせいか! 注目を集めたがるところがありまして! 速水さんのことも何か挑発したのかもしれません! あのくらいの年頃は! 自分は特別だと思いたがるのです! 母親が他殺体で見つかったことで! そういう気質が! 増長したのかもしれません!」


 モーター音が響く中、唾を撒き散らして奥村は叫んだ。口を大きく開けているが、血走った目にはまったく表情がない。あかりはじりじりと後ずさり、背中が壁についた。


「邪魔ばかりしやがって! 夢ってなんなんだよ! 二十五時ってなんなんだよ! 俺はお前らを守るためにやってんだ! 感謝すべきなんだよ!」


 奥村は横なぎに草刈機をふる。あかりの顔は見ていないようだった。あかりはなるべく身を小さくして体の前に木刀を構えるだけで精一杯だった。


「バカどもが首を突っ込まないように! 噂まで流してやった! 三年前も! 今回も! どいつもこいつも! なんで邪魔するんだ!」


 モーター音にかき消されないほどの大声で、奥村は叫び続ける。叫びが終わると、奥村は一歩近づいて、また草刈機を振る。刃が木刀の先に当たり、あかりは木刀を取り落とした。


「あーあ、お前は許してやろうと思ってたのに」


 無表情の奥村が抑揚のない声で呟いた。激しいモーター音にも関わらず、その声はあかりに届いた。奥村はゆっくりと草刈機を振り上げる。その顔は子供のように無邪気に笑っていた。

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