あなたはだれ
あかりはパイプ椅子に座って、鈴子の横たわるベッドに額をつけていた。感情が麻痺したように、自分の心の痛みを人の痛みのように感じていた。
あかりの電話を受けた看護師は、腹部を抉るように刺されていたという。鈴子の部屋から「何をしてるんですか!」という看護師の叫び声のあと、短い悲鳴が聞こえ、不審に思った別の看護師が駆けつけて発見した。あかりから電話があったこと、不審な男がいたことを伝え……ほとんど即死だったそうだ。
「あかりちゃんは何も悪くないのよ」
真知子は優しくあかりの背中をさする。「おかげで鈴子が助かった」などと言わない良識のある人でよかったな……あかりはぼんやり考えた。
「あかりさん」
和彦が病室に飛び込んできた。あかりはゆっくりと顔を上げる。和彦はつかつかと歩み寄ると、あかりの頬を思い切り叩いた。和彦に叩かれたのは生まれて初めてで、あかりは一瞬、自分に何が起きたのかわからなかった。じんじんと頬が痛み始め、それと一緒に少しづつ感情が戻ってきた。和彦は驚いたように自分の手を見つめ、こんな痛みには耐えられないというような顔で座ったままのあかりを抱きしめた。
「……おとうさん、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「ごめんね、あかりさん、痛かったね」
優しい声に、わああ、とあかりは和彦に縋りついて泣き崩れた。泣きながら、妻を失った和彦が、娘に何かあったらと考えた時の恐ろしさを考えなかった自分に気がついた。皆、大事な人がいて、大事に思ってる人がいるのに。誰がこんな事をするのだろう。どうしてこんなことをするのだろう。
「しかし、なんでこんなことに」
あかりを抱きしめたまま、納得いかないというように和彦は呻いた。
「口封じだろうということです」
鈴子の父が、怒りを抑えきれない口調で和彦の疑問に答えた。
「本当は教えてはいけないのだけれど、あかりちゃんも狙われるかもしれないから」と前置きをして、鈴子の父は警察に聞いたことを話し始めた。看護師を刺した犯人は、口封じの為に鈴子の部屋に潜入した。だが、あかりの電話でやってきた看護師に見つかり、看護師を刺して逃げたのだろうと警察では睨んでいるらしい。計画的な犯行の可能性が強く、犯人は鈴子の顔見知りである可能性が高い。
「今夜からは部屋の前に監視をつけて貰えますし、僕と真知子も特別に夜の付き添いを許されたので」
鈴子の父は「もう大丈夫です」と自分に言い聞かせるように言って頷いた。落ち着いているように見えるが、相当無理をしているだろう。
「じゃあそろそろ……」
和彦があかりを促す。あかりは鈴子の手を握り締めた。
「すず、また来るよ。頑張って。あたしも頑張る」
肩に和彦の手のぬくもりを感じて、あかりは振り返りながら病室をあとにした。
◆
翌日、あかりは学校を休んだ。家に帰り着いたときはもう明け方だったし、和彦がそうしてほしいようだったからだ。
看護師が亡くなったことで、更に報道は加熱した。あかりの部屋の窓からも、境内を知らない男達が歩いていたり池を撮影したりするのが見えた。あかりはカーテンをぴったりと閉めて、時折流れてくる看護師のニュースに涙しながら一日家の中で過ごした。「責任感が強く、優しい子だった」と看護師の父親が涙を浮かべて話していた。
夕方になり、ようやく何かをする気になって、これまでにわかっていることをノートにまとめはじめた。泣いていてもまた夜は来てしまうのだ。
六年前に行方不明になった母。三年前に行方不明になった小倉二葉。池から足が二組。学校の花壇から胴体が二組。亡くなった女子生徒は二人、三年前。用水路で亡くなっていたのが、中村かのん。学校で亡くなっていたのが、小林風香。自分の字で書くと、より痛ましい事件として心に響いてくる気がした。
夕飯を食べ終わり、部屋に戻って一人になると、途端に恐怖がにじり寄ってきた。
「よし、今夜、確かめよう」
あかりは、勇気を捻りだすように呟く。あの時、ニノイチは……私を助けたように思えた。それを確認しよう、ニノイチと向き合ってみよう、とあかりは思った。
「オン、ア、ビ、ラ、ウン……」
レインコートを着ていた……おそらく男が呟いていた言葉を口に出し、途中でやめた。どんな言葉か、と和彦に聞いたら「知らないものはむやみに唱えてはいけない」と諭され、詳しいことは教えてもらえなかった。インターネットで調べると「真言」というもので「大日如来に祈る言葉」であるとか「宇宙の元素に成就を願う」とか書いてあったが、結局のところ良くわからない。あの男は、何かを成就させたいのだろうか?
考え込んで、気がついたら二十四時の数分前になっていた。時計の針を睨んですうっと息を吸い込むと、あかりはどこかの遊歩道に立っていた。見たことがあるのに、思い出すことが出来ずにきょろきょろとあたりを見回す。
車一台が通れるほどの広さの踏みしめられた土の道が先へ先へと続いている。道の両脇にはよく手入れされた杉の木が薄暗くならない程度の間隔に植えられ、根元にはマリーゴールドやサルビアの花が植えてあった。だが、そのどれもこれもがモノクロに近い淡い色彩しか持っていない。ニノイチの夢は、誰かの古い記憶の中のようだ、とあかりは思った。
遊歩道に沿って歩いていると、立て札が立っていた。矢印と「満泉寺」という寺の名前が書いてあり、ああ、ここか、とあかりは思い出した。学校からまっすぐ東、線路を渡って山を上った所にある大きな寺院だ。遠足などで何度か訪れたことがあった。ぞわり、という寒気を感じて振り返ると、こちら向きで立っているニノイチの姿を見つけた。
あかりは、ぐっと自分に言い聞かせるように頷くと、大股でニノイチに近づいていった。「あなたは誰?」声が出ないことはわかっているが、そう口を動かしてみる。メモ帳とペンをスカートのポケットに入れておいたのだが、今回は持ち込めなかったようだ。
携帯に打ち込んで見せようか、と取り出したが、ホーム画面から動かない。どうしようか悩んで、あかりは屈みこんで地面に字を書いた。あとは残らないが、指先を目で追えば伝わるはずだ。
( あ な た は だ れ ?)
ゆっくりと地面に書いた。




