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ニ ノ イ チ  作者: タカノケイ
六月十六日(火)
22/36

真夜中の病院

「……何、今の」


 自分に問いかけるようにあかりは呟く。今見たものが、頭の中の正しい位置に落ちていかないような感覚がした。


「出られた。死んでない」


 じっと自分の手のひらを見つめる。


「……すずは」


 突然、部屋の色や音が鮮明になった。親しい人が傷つく夢を見た後のような、不安が胸をよぎる。あかりはリュックから財布を取り出して、診察券を探した。


「あった」


 一瞬、躊躇った後に、『夜間問い合わせ』と書かれた番号をタップする。


「はい、東成記念病院です」

「あの、秋月です。三階をお願いします」

「どのようなご用件でしょうか?」

「えと、先日退院したんですが、頭が痛くて……」


 苦し紛れのウソをつく。だが、電話口に出た女性は、少々お待ちください、と電話を保留にした。何かはわからないが、聞き覚えのあるメロディが流れる。


「あかりちゃん? どうしたの?」


 受け持ちだった看護師の声がした。優しい彼女のぽっちゃりとした手の感触を思い出した途端、涙が零れ落ちた。


「すず、鈴子ちゃんの悪い夢を見て……お願いです。見てきてくれませんか」


 あかりは涙声で伝えた。馬鹿げた事をしていると思う。でも、不安でいてもたっても居られなかった。


「わかった。ちょっと待っててね」


 彼女のやさしさもあるだろうが、恐らく、全ての事情を知っているのだろう。看護師は、嫌な声一つ出さずに応じてくれた。再び保留のメロディが流れだす。看護師はなかなか戻って来ず、カノンの二回目が流れ始めた。

 看護師が忙しいのは入院していたから知っている。面倒をかけて申し訳ない、と思っているうちに三回目が流れ始めた。三○一号室は目の前なのに、いくらなんでも遅すぎないだろうか。


「もしもし? 秋月あかりちゃん?」

「はい!」


 看護師が電話に出た時には、保留にしてから十分も経っていた。電話を持ち上げ続けた手と、押し付け続けた耳が痛い。


「遅くなってごめんね~、隣の、ほら、山田のおばあちゃんが騒ぎ出しちゃって。鈴子ちゃんは寝てるから安心してね。ごめんね、今夜は忙しくて……もう、いいかな?」

「すみません……ありがとうございました」


 さっき電話に出た看護師の声ではない、と気づいたが、向こうは電話を変わった事について何も言わない。早口で話す看護師に押されて何も聞けずにお礼を言うと、電話はすぐに切れた。でも、何かが気になる。病院にいってみよう、あかりは立ち上がった。さすがに真夜中だから、無理を言っても送ってもらおうと考え、和彦の部屋へと向かった。一人で行って心配させるよりはいい。

 廊下に出ると、和彦の部屋の襖の隙間から明かりが漏れていた。


――よかった。まだ起きてる


 ノックしようと手を上げた瞬間、あかりは弾かれたように襖から離れた。ドアの向こうから、和彦がすすり泣く声が聞こえたのだ。


「巴……」


 父の濡れた声が母の名を呼ぶ。


――お父さん


 あかりは口を押さえ、足音を立てぬように廊下を戻り、そっと階段を降りた。祖母の部屋からも明かりが漏れている。祖母も泣いているのだろうか。

 あかりは動かすとカラカラ小気味のいい音が出てしまう玄関の戸を時間をかけてそうっと開ける。暗闇を手探りで家の裏に回って自転車の鍵を開け、乗らずに引いて坂道を下った。

 太い坂道に出たところで、顔を強張らせ自転車に跨る。だが、坂道を半分ほど下ると、堪えきれずに涙が溢れだした。


――おとうさん、おばあちゃん、ごめんなさい。あたしのせいでお母さんが……ごめんなさい


 嗚咽を漏らしながら線路道を曲がる。


――ごめんなさい、ごめんなさい


 誰も居ない夜の町をあかりは泣きながら自転車を漕いだ。前から車が来て、ライトの眩しさにあかりは涙を拭って目を細めた。あかりとすれ違ったあと、その車は急ブレーキを踏むように止まった。なんだろう、と自転車を止めて振り返る。だが、あかりの後ろから来たもう一台の車のライトの陰になって何も見えなかった。後ろから来た車もあかりの横にゆっくりと止まった。助手席の窓が開く。


「あかりちゃん? こんな時間にどこ行くの?」


 助手席から顔を出したのは、鈴子の母、真知子だった。驚きを隠しきれない顔であかりを見ている。あかりも驚くと同時に悪い予感で腕が震えた。鈴子に何かあったのだろうか。


「病院に……悪い夢を見て……す……鈴子ちゃんが心配になって」


 ウソをついても仕方がない。あかりは正直に答えた。


「そこのコンビニに自転車を置かせてもらいましょう。あかりちゃん、車に乗って」

「でも」

「乗りなさい」


 普段は優しい真知子の厳しい声に、慌てて「はい」と答えるとあかりはコンビニへと向かった。あの車はどうしたろう、と気になって振り返ると、既に居なくなっていた。自転車を止めて、鈴子の家の車の後部座席に乗り込む。


「悪い夢ってどんな夢?」


 助手席から振り返って真知子は尋ねた。


「鈴子ちゃんの病室に、知らない人が居て……鈴子ちゃんは居なくて……血が……」


 だんだんと声が小さくなる。あかりは後部座席でシートベルトを握り締めて俯いた。


「そう……血が……」

「真知子、大丈夫だから」


 湿った真知子の声が心配になったのだろう、運転席から鈴子の父が声をかけた。しまった、とあかりは思う。ここはウソをつくべきところだった。鈴子に何かあったんですか、などと聞ける雰囲気ではない。あかりはしょんぼりと俯き、しん、としたまま車は病院に着いた。スピードが緩み、カーブを大きく曲がるのを感じてあかりは顔を上げる。病院に着いたのだろう。


――え?


 顔を上げたあかりは息を飲んだ。物々しい赤いランプがいくつも回転している。数台のパトカーが病院の駐車場に停まっている。鈴子の父の運転する車は駐車場の入り口で警察官に止められた。


「永沢鈴子の父です」

「……どうぞ」


 警察官が車を誘導する。胸が張り裂けそうなほど心臓が鳴っているが、あかりは声を出すことも出来なかった。


「あかりちゃん」


 真知子に促されるまま車を降りる。まるで細いロープの上を歩いているように地面がグラグラと揺れた。真知子の背中だけを見つめてどうにかついていく。

 病室に入った瞬間、鉄の臭いに気がついた。拭き取られては居るものの、床には薄く引き延ばされたような血の痕が残っている。


「……先生、鈴子は」

「このたびは心配をおかけして……鈴子さんは何もされていませんから」


 医師の声に腰が抜けたようにあかりはぺたん、と座り込んだ。


「あかりちゃん?」


 あかりの担当だった若い医師があかりに気がついて、驚いた声を上げる。


「不思議な事もあるんだねえ。あかりちゃんの電話がなかったら……」

「先生!」


 年配の看護師に叱咤されて、若い医師は首を竦めて病室を出て行った。

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