ドロール
「あかりさん、おかえりなさい」
「……ただいま、仕事休んだの?」
あかりが帰宅すると、和彦が家に居た。夏前の忙しい時期に、自分の事件のせいで父の職場にまで迷惑をかけてしまっている。そんなあかりの気持ちに気がついたのか、和彦は大きく伸びをして「ああ、よく寝た。たまには昼寝もいいね」と言って笑った。
「警察に行ってきたんだ。夕方にはニュースになると思うから先に伝えるよ」
ダイニングの椅子に座って話し始めた和彦に、ハナエが冷たい麦茶を差し出す。ありがとうございます、と言って和彦はコップに口をつけた。和彦の斜め前の指定席に座ったあかりの前にも麦茶が差し出される。
「ありがとうございます」
「あら、いやに殊勝ね。どういたしまして」
ハナエは笑って、トレイを下げる。そのままダイニングと続き間になっている和室の座布団に座って、編み物を始めた。涼しげな白いレースがしゃらしゃらと音を立て、なんだか嬉しそうにハナエの手の中で踊っている。
「警察が速水の自宅を調べたら、一組の女性の足が見つかった」
「え……」
冷や水をかけられた様な冷気があかりの全身を包んだ。ハナエの編むレースの擦れる音がやけに大きく聞こえる。いつもと違うと感じたのは、ハナエがいつもより急いで手を動かしているからだった。
「速水の話では、六年前に池に誰かが何かを捨てるのを見て、すぐに拾ったそうだ。冷凍にしてあって、DNA鑑定が出来る状態だそうだから……」
和彦は言葉を飲み込むように黙り込んだ。
「……見たの? ……お母さんなの?」
続きを待ちきれず、あかりは和彦に問いかけた。
「まだ、鑑定の結果が出ないと……」
「お母さんだったの!?」
結論を先に延ばす和彦に焦れて、あかりは叫ぶ。母の太ももには一目でそれとわかる形の痣があった。見ればすぐにわかるはずなのだ。
「……巴さんの……足だと思う」
和彦は搾り出すように答える。がたん! と椅子を鳴らして立ち上がり、あかりは走って自分の部屋へと走った。階段を踏み外しながら上って、勢いよく扉を閉め、ノブを握り締めたまま立ち尽くした。
速水はどうして、見つけてすぐに警察に連絡してくれなかったのだろう。その時点ならばまだ生きていたかもしれないではないか。それとも速水が殺したのだろうか。速水の母に対する邪な思いには幼いながらに気がついていた。だからといって……こみ上げる吐き気にあかりは体を折る。
――お母さんは殺されてた。あたしのせいだ。あたしがわがままを言わなければ……
「お母さん、ごめんなさい」
小さな声で呟くと、途端に涙が溢れ出した。
「ごめんなさい。何にもいらないから、帰ってきて。帰ってきてえ」
ずるずると座り込む。リュックからハンカチを取り出して、声が漏れないように口を押さえ込んで泣いた。
――お母さん、ごめんなさい。何もいらないから帰ってきて
それは何度も心の中で繰り返した言葉だったが、今は全く意味が違っていた。母はもう、絶対に帰っては来ないのだ。あかりは声を殺して泣き続けた。
「ただいまあ」
「あら、大和、今日は早いねえ」
「今日はクラブ休みだって言ったよ。お父さんも早いね、おかえり」
「ただいま……あれ? えーと、おかえり、大和君」
一階から、大和が帰宅した声と、ハナエと父が出迎える明るい声が聞こえた。巴が居なくなった時、大和は四歳だった。大和は自分の母のことを何ひとつ覚えていない。写真を見て「お母さん」とは言うが、他人を見るような目だ。「お姉ちゃん、お父さん」とは声が違う。
「大和、学校はどうだったの?」
「んー……楽しかった!」
「そう、手を良く洗ってね」
いつもよりも大きく明るい声が聞こえる。父と祖母は自分と大和のために無理をして明るく振舞っている、そう思うとあかりの心から悲しみではない何かが湧き上がってきた。
――速水も、鈴子を襲ったやつも、ニノイチも……全員、赦さない
顔を上げたあかりの目からは、もう涙は一滴もこぼれていなかった。ギラギラと光る目で、あかりは虚空を睨む。
「ニノイチ……今日はあたしを呼びなさいよ……あたしを呼びなさい」
呻くように呟く。何か方法を思いついているわけではない。ただ、この気持ちだけで呪い殺せるのではないかと思うくらい、あかりの心は憎悪に支配されていた。突然に母を失った悲しみと、母が出て行ったのは自分のせいだという思い。そんな積もりに積もった寂しさや悲しさや後悔が、全て憎しみに変わったかのようだった。
――わたしの大事な人を傷つけたやつを私は絶対に赦さない。絶対に見つけ出して……絶対に……
――殺してやる
自分の頭に浮かんだ考えに驚いて、あかりは我に返った。母はあかりがこんな風に恨みを募らせることを望んでいない。鈴子はあかりが危険なことをするのを望んでいない。わかっていても、怒りを静めることが出来なかった。
――苦しい
あかりは押入れを乱暴に開けて竹刀を取り出した。すう、と息をついてぶん、ぶんと素振りをする。中学を卒業するまで夢中で続けていた剣道は、高校生になってやめてしまったが長年愛用した竹刀は驚くほどすんなりとあかりの手と気持ちに馴染んだ。
どのくらいそうしていたか、気が付くと少し心が落ち着き、携帯が鳴っていることに気がついた。すうっと息を吸い込むと、まだ少し震える指で携帯電話をリュックから引っ張り出す。ななぴょん、と表示された画面を確認して通話をタップした。
「もしもし?」
「あかりん? 面倒だからかけちゃった。今いい?」
あっけらかんとした奈々の声に、あかりは肩の力が抜けていくのがわかった。
「うん、いいよ」
「……大丈夫? もしかして泣いてた?」
するどい奈々はいつもと違うあかりの声にすぐに気がついた。
「……ちょっとだけ。大丈夫だよ、話聞きたい」
「わかった。ニノイチの噂の事なんだけど、三年前の東成生はほとんど知ってたよ。一番最初に居なくなった今も行方不明の……小倉さんって言うんだけどね。その子が夢に出てくるって亡くなった一人の子が言ってたらしいんだ」
奈々は昼間に頼んでいた噂の広がり方をもう調べてくれたらしい。
「夢の話を皆にしてから、亡くなったって事?」
「そう。その次に、夢に出てくるってことを一番に相談されてた子も亡くなって……それで、巻き込まれるって広まったっぽい」
あかりはじっと考え込んだ。今回、一番最初に居なくなったのは結衣。まだ見つかっていない。そして誰にも聞いていないのに鈴子が夢を見て、やはり聞いていないのに、自分が夢を見た。なのに、襲われたのは自分が先で――速水の事はニノイチには全く関係がないのだろうか。
「あかりん? 聞いてる?」
何かの思いつきを捕まえられそうになったが、それは奈々の声で逃げていってしまった。
「ごめん、考え事した」
「おーい、……でね? 今回……初めてクラスのチャットにニノイチの名前が出たのが六月十一日。でもね……こいつが誰だかわからないんだよね」
「え?」
「最初にニノイチの話題を持ち出したドロール。誰に聞いても知らなくて、今はアカウントも無くなってるんだ」
SNSでは、ほとんどみんな名前を変えている。仲がいい子やよく投稿する子は把握してるが、黙って見ているアカウントの中には知らない名前もある。鍵はあるが、メンバーに招待されれば誰でも入れる。ドロールは……前からいたような気がするがあやふやだった。
「ドロールを招待したのはバカ杉田。四月九日だね。みんなクラス全員の名前を覚えてない頃だったからさ」
勝手に知り合いを招待して、クラスのいわば秘密であるチャットを見せたとして杉田はよく槍玉に上がっている。杉田ならやりかねない事だ。
「今わかったのはそのくらいかな」
「うん、ありがと奈々。もし、二十四時に変な夢を見たら、学校に集合。あんまり意味はないかもなんだけど、その時間は窓とかドアを開けてて」
「了解です」
奈々はふざけた声で答えた。面白い話でもないのだが、奈々にかかれば、なんだか笑い話みたいだなとあかりは思った。だからこそ、ちゃんと注意はしておかなければ。
「もし、一人でニノイチを見たら、低くて狭いトコに隠れて? ベッドの下とか」
「……わかった。大丈夫だよ。あかりんも……元気だして」
「うん、ありがと」
じゃあ、と言って電話を切る。奈々の最後だけ弱くなった声が耳に残った。今更、巻き込むというのが本当だったら、と怖くなる。そして、すっかり落ち着いてみると、奈々からの電話の前に怒りに我を忘れていた自分も少し怖かった。




