永沢鈴子
今日も暑くなると、天気予報で言っていた。午前五時、まだそれほど暑くはない。永沢鈴子は学校へと向かう坂道を、思わず止まってしまいそうになる足をなだめつつ上っていた。あかりちゃんはまだ病院で寝てるかな……昨晩の電話で取り乱したあかりの声を思い出して鈴子はクスリと笑った。
嫌な事を押し付けられそうなとき、誤解から責められたとき、何も言えなくなってしまう自分を、いつもあかりは庇ってくれた。いつの間にか一方的に助けられるその関係が当たり前になっていた。
あかりの母が居なくなった時に何もしてあげられなかった自分と、それでも平気そうにしていたあかりを思い出して、鈴子は息を吸い込んで次の一歩を踏み出した。
――昨日、夢の中でニノイチは学校の花壇を指差した。
あかりには嘘をついたが、鈴子は昨日ニノイチの夢を見ていた。ニノイチは学校に現われ、自転車置き場の横の花壇を指差していた。
ニノイチが指差した池を調べに行って襲われ、そこから生き延びたあかりはニノイチの夢をみなくなった。人間の足の骨という恐ろしい発見をして。……だから、自分も花壇にいって何かを見つけ、逃げ切れたらきっと助かる。鈴子はそう確信していた。
――絶対に逃げ切ってみせる。大丈夫、大丈夫。
鈴子は折れそうになる心をどうにか支えて坂を登りきった。正門はもちろん閉まっているので、運動部の部室の並ぶ西側へと向かう。外にある自動販売機まで近道するために、運動部員達がペンチを使って金網を切ってしまう場所があるのだ。金網の破れまでたどり着いた鈴子は、小さくため息をついた。意を決して、ブロックの部分を跨いで校内に入る。日曜の早朝5時、誰も居ない学校は、知らない場所のようなよそよそしさで鈴子を迎え入れた。
――よかった。朝練の人たちもまだ来てない
誰も見ていなくても校庭を突っ切るのはさすがに憚られる。鈴子は校舎沿いに遠回りして東門に向かった。そこには旧校舎の一部が残されており、演劇部と吹奏楽部の部室になっている。
東門……旧正門と旧校舎の間には自転車置き場が設置されているはずだ。演劇部の部室には校庭側の裏口から出入りする為、徒歩通学の鈴子は立ち入った事のない場所だった。二階にある演劇部の部室の窓から自転車置き場の屋根は見えるが、その下に花壇があることは知らなかった。
――やっぱりあった……
そうだろうとは思っていたが、夢に見たそのままの花壇に鈴子の腕に鳥肌がたつ。鈴子はそっとしゃがみこむと、持ってきたスコップで何も植えられていない花壇を掘り始めた。片手には防犯ベルの紐を握り締めている。ここ数日の晴天で、土はカチカチに固くなっている。ガーデニング用の小さなスコップでは一時間経ってもたいして掘り起こせなかった。そろそろ、日曜も部活のある熱心な運動部の生徒が通学してくるだろう。しゃがみっぱなしだった足も痛い。諦めて立ち上がりかけたときに、ふと人の気配を感じた。
防犯ベルの紐を握り締めてゆっくりと立ち上がり、恐る恐る振り返った。
「何をしている!」
突然の怒鳴り声に鈴子は竦みあがった。声のしたほうを見ると、用務員の佐々木が立っていた。鈴子はスコップを取り落として走り出した。
「待て!」
追いかけてくる佐々木の怒声に、鈴子は恐怖で振り返ることも出来ずに走る。待て、待て、という声は西門の金網の穴をくぐるまで追ってきていた。学校から自宅とは反対方向に百メートルも走ってから、鈴子は路地に駆け込んだ。電信柱の影に隠れて、通りを振り返り、破れそうな肺に空気を送り込む。佐々木が追ってきていないことを確認して、しばらくは息を整える事だけに集中した。心臓は痛いほど高鳴っている。
「だ……大丈夫。私は目立たないから……名前……知らないはず、ばれない」
自分に言い聞かせるよう切れ切れに呟く。どうして用務員が日曜の六時に居るのだろう。背負っていたリュックから水筒を取り出して水を一口飲んだ。
――何も起こらなかった、見つけられなかった。でも、明日は十五日だから、明日でも大丈夫かも
すぐに立ち上がる気にはなれず、鈴子は三十分ほどその場に座り込んだ。ゆっくりとリュックを背負いなおして立ち上がると、路地からそっと顔を出して通りを確認した。用務員も他の生徒も居ない。何気ない素振りで通りに出ると、学校を避けて家とも学校とも反対方向に歩き出した。
今晩もまた、一人であの夢を見なくてはいけないのだろうか。もう、どうしたらいいのかわからない。泣き出したい気持ちを抱えたまま、坂道を家とは反対方向の坂を下っていく。俯いたままで、前から来た黒い軽自動車が横に止まったことにも気がつかなかった。
「永沢さん?」
名前を呼ばれて、びくんと顔を上げる。軽自動車の助手席の窓が開いて、運転席に奥村が見えた。
「あ、お、おはようございます」
「こんな時間にどうしたんです?」
奥村は病院で会ったときとは違い、いつものメガネに白いワイシャツ姿だった。このときばかりは嬉しいより、困惑が先に立った。学校に忍び込んだのが自分だとばれてしまうだろうか。堂々としなくては、と思えば思うほど目が泳いだ。
「あの、えと、あの……」
「学校に用事だったんですか?」
「あ、はい、いえ、あの、ダイエットで散歩……」
最後は聞き取れないほど小さな声になる。制服を着ているのに、なぜダイエットなどと言ってしまうのだろう。鈴子は自分の頭の悪さに腹が立った。それに、心配してくれている先生にウソをついてしまった……鈴子は真っ赤になって俯いた。
「そうですか」
「あ、帰りに学校に寄ろうと思って……何時に開きますか」
追求してもいない奥村に、鈴子はやっと思いついた言い訳をする。
「これから僕が開けるから、いつでもいいですよ。じゃあ気をつけてね」
窓が閉まり、車がすうっと走り出した。鈴子はひとつため息をつく。親から電話が来たとかなんとかいって誤魔化せばいいのだから、このまま遠回りして家に帰ろう。とても学校に戻る気はしない。鈴子はとぼとぼと歩き出した。十五分で着く家路を、ほぼ一時間かけて帰る。
「鈴子? どこいってたの?」
「ちょっと」
台所から母の声がして、制服姿を見られぬように慌てて階段を上る。二階にある自分の部屋に滑り込むとへたり込むようにソファに沈んだ。昨晩は一睡もしていない。考えはまとまらないまま、深い眠りに沈みこんでしまった。
「ん……」
数時間後、携帯電話の音で鈴子は目を覚ました。鈴子は寝ぼけながら無我夢中で携帯を探す。
――あかりちゃんからだ
携帯に表示される文字を見つめる。鈴子は息を大きく吸い込んで吐き出した。
――あかりちゃんに頼っちゃだめ。今度はあたしが、あかりちゃんを庇うんだ
鈴子は力強く、通話の文字をタップした。




