三夜
「あ、成山のお菓子、あんなにたくさんありがとうございます」
あかりは慌てて鈴子の母にお礼を言った。気がつくと、ラウンジの時計がもう二十一時を指していた。
「いいえ。あかりちゃん、好きだったなと思って」
「そりゃもう大好きです」
鈴子の母、真知子はあかりを見て、労わるように微笑んだ。幼稚園の時から運動会も、学芸会も、学校の行事はすべて、巴と真知子はいつも仲良く並んで見学していた。だから、この三人で居ると、母が欠けていることを嫌でも思い出してしまう。あかりは頬に力を入れて笑顔を作った。
「面会時間過ぎちゃうわね」
真知子が、鈴子に良く似た遠慮がちな顔で呟いた。
「そうだね」
がたがたと音のする椅子を引いて鈴子が立ち上がる。「忘れ物ない?」「大丈夫」という二人のやり取りを見ながら、あかりも立ち上がった。
「じゃあ」
「うん」
「まあ、またすぐに会えるしね」
あかりが意味深に言うと、鈴子もわかった様子で頷いた。
「今日はありがとうございました。すず、おやすみ」
「うん、おやすみ」
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まるまで手を振る二人を見送って、あかりは自分の病室へと引き返した。
――あと、三時間。
ひと眠りしておこう、とあかりは枕元にセットされている時計のアラームを二十四時の十五分前にセットして電気を消し、ベッドにもぐりこんだ。だが、結局一睡も出来ないまま、時計の針はじわじわと二十四時に向かっていった。あかりは息を詰めて秒針を見つめる。
――五十八、五十九、六十
「え?」
秒針は何事もなく通過していった。時計がずれてるのかもしれない。いけないとは思いつつあかりは携帯の電源を入れた。
――00:00
そのまま見つめ続けると時計は〇時一分に変わった。何も起こらない。あかりは携帯電話を掴むと、滑るようにベッドから下りて駆け出した。ラウンジに駆け込むあかりを看護師が不審そうに目で追っていたが、気にも留めずに鈴子の携帯に電話をかけた。指が震えて違うボタンをタップして、何度目かでやっと呼び出しの音楽が流れた。
――出て、出て、出て
ぷつ、と音楽が止まる。
「すず! ねえ、大丈夫?」
場所を忘れて大声で叫ぶ。秋月さん? と看護師に声をかけられ「すぐ終わります、すみません」と小声で言って頭を下げた。携帯は沈黙を続ける。
「……あかりちゃん?」
ようやく鈴子の小さな声が聞こえた。
「すず……良かった。あたし行けなかったみたいで」
安心であかりの全身の力が抜ける。
「何があった? 何をされた? すず、大丈夫? もしもし? すず?」
反応のない鈴子が心配で、つい声が大きくなってしまう。
「……あたしも、行かなかった」
「え?」
「あたしも、あかりちゃんが一人で行ったのかと思った」
「本当?」
「うん」
後ろに気配を感じては居たが「秋月さん」と看護師に非難が込められた声で名前を呼ばれる。
「あたしたち、きっと助かったんだよ。怒られちゃうし、明日話そう?」
受話器越しに看護師の声が聞こえたのか、鈴子は早口にそう言った。
「わかった。おやすみ、すず。明日ね?」
「おやすみ。明日ね」
何か釈然としないままあかりは電話を切った。スリッパはどうしたんですか? という看護師に「あ、ちょっとあはは」と誤魔化して病室に向かう。誰も居ないのに、こっそりとドアを開けて忍び込むように病室に入った。はあ、とため息をついてベッドに腰掛けると、ハナエが持ってきてくれたウェットティッシュで足の裏をごしごし擦った。
――鈴子も行かなかった……どうして?
自分を殺し損ねた事で、ニノイチの呪い的な何かが終わった? いや、自分の頭を押さえたあの感触は人間の手だったと思う。そもそも現実で人の頭を抑えていられるなら、夢で追いかけてくる必要がないじゃないか。それとも、池のほとりでだけ危害を加えることが出来るから手招きしていたのか、あかりは壁の一点を見つめて考えた。
「あー! もう、訳わかんない!」
声に出して、ベッドにごろりとひっくり返る。十年前に東成高校に通っていた従姉妹の久美に電話するのを忘れていた事を思い出して舌打ちする。兄や姉が居る同級生にも話を聞けるはずだし、図書館にいって新聞を調べる事も出来る……やれる事はたくさんあるのだ。明日、鈴子と一緒に作戦を立てよう。こんな時結衣がいたら……結衣、結衣はどこにいるんだろう。あかりは四角い模様の入った天井を見上げ、いつの間にか吸い込まれるように眠っていた。
翌朝、あかりが目覚めると和彦がすでに病室に来ていた。
「最後に診察をして、それから退院の手続きをして、お昼までには帰れるって」
「お昼まで?」
和彦の説明に、あかりはうんざりした声を上げた。今夜までにやることが沢山ある。文句をいっても仕方がないので、運ばれてきた朝食を食べ終わるとラウンジに向かった。携帯の電源を入れて、電話帳を検索する。
「もしもし、久美姉?」
――あかりちゃん、大丈夫?
「大丈夫ー! ごめん、ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……」
五分ほど話して電話を切った。久美はニノイチなど聞いた事もない、と言った。友人たちにも聞いて連絡してくれる事になったが、恐らく期待できないだろうということだった。
「十年前に噂は無かった……」
続けて鈴子に電話をするが、出なかった。きっと安心して眠っているのだろう、と波だった気持ちを宥めながら病室に戻ると、和彦が寝具を整えていた。
「今日は日曜だからお会計は明日でいいんだって。帰れるよ」
「うん。あのね、お父さん。あたし誰かに突き落とされたんだと思うの」
和彦は枕カバーを外していた手を止めて、じっとあかりの顔を見つめた。
「覚えてるの?」
「押された感覚があった。あと、水中で頭を押さえられてたと思う」
あかりも和彦の目をじっと見つめる。
「大和君がちらっと影を見て……足音も聞いてるんだ。池の周りにあかりさんのではない新しい足跡もあって。今警察の人が二つの事件として調べてる。家に帰ったら覚えてることをちゃんと話せる?」
「……はい」
「うん。じゃあ帰ろうね」
和彦が柔らかく微笑む。あかりは何故か泣き出しそうになって、慌てて窓の外に広がる青い空を見上げた。




