プロローグ
*2016年四月にプロローグの一部を第六話に移動して全文改稿いたしました。
暗く湿った地下室は、黴と土の匂いで満ちていた。わずかなガソリン臭も含んでいる。何年にもわたって蓄積された淀みが隅々に隈をつくっているような空間だった。
部屋の中央には木目調の天板の会議机が三卓、隙間なく置かれている。その上に白い着物を左前に着た少女が横たわっていた。痩せ細った少女は生きているものか死んでいるものかぴくりとも動かない。
天井には変色した直管蛍光灯がかろうじてニ・三本残っているが、その機能を果たしてはいなかった。壁際に置かれた真新しい冷蔵庫の緑色のランプのみが、少女の横顔を仄暗く照らしている。壁際には古いスチールロッカーが少女を見下ろすように並んでおり、冷蔵庫から黒いコードで繋がれた小型発電機が、休まず稼動していることを主張して唸り続けている以外の音は無い。
四角い模様の入った木製の扉がキイイと嫌な音を立てて外側に開いた。そこから一人の男が影のようにするりと地下室内に忍び込む。どこかで見たことがあるような気がするのに、目を逸らしたらどんな顔だったか忘れてしまう、そんな顔をした男だった。
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
男はほとんど口を開けずに、同じ言葉を繰り返している。締め切った空間に掠れた低い声が反響した。男は無表情のまま滑るように少女の傍らに移動する。右手に握っている牛刀が冷蔵庫の緑色の光を反射した。
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
男は片手でテーブルの上に横たわる少女の首の下に片手を差し込んで、頭を持ち上げる。鈍く光る牛刀の刃をそっと少女の首筋に添える。ぴくりとも動かなかった少女の睫が一瞬だけ揺れた。予定された、手慣れた作業であるかのように男の右手は滑らかに牛刀を引いた。少女の体はびくんと一度だけ大きく跳ね、ぐったりと力を失った。柔らかい皮膚は頭の重みで簡単に裂け目を広げ、赤い血が吹き出し滴り落ちる。
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
少女の首の骨の間に牛刀を滑り込ませる。捩じるように刃を差し込むと、ごり、と音がして、ごとん、と少女の首が床に落ちた。男は半ば面倒くさそうに屈み込み、髪を掴んで少女の首を拾い上げる。目をつむり泣いているような少女の顔を一瞥すると、傍らのバケツの中に無造作に投げ入れた。
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
男は少女のわきの下に牛刀を差し込む。バケツの中から少女の真っ黒な瞳が男を見上げていた。その目に気が付いた男の顔に、初めて表情と思われるものが浮かんだ。男はそっと目を閉じる。
男の脳裏に浮かんだのは、救いを求める幼い少女の顔だった。小さな手のぬくもりを思い出して、男はそっと牛刀を握る手を胸に抱え込んだ。黴と鉄の臭いがたち込める部屋の中に、深山の青い匂いを嗅いだような気がして男は息を詰める。やがてふうっと深く息を吐きだした。ゆっくりと目を開いて、目の前に広がる赤に少し目を細めた。
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ
再び唱え始めた男の顔にはもう何の表情もなかった。ごとん、と少女の左腕が落ちた。