精霊の巫女
イフリートに抱えられながら先を歩くルーノの背を見つめ考え事をしていると、シルフィはおかしなことに気が付いた。
王子という身分であり、他の男児も生まれていないためルーノはほぼ確実に次の国王になるだろう。だというのに、城が近いとはいえ深夜の時間帯に一人だけ、と言っても正確には精霊も付いているが、それでも護衛も付けずに出歩いたりするだろうか。
おかしい。そんなことがあるはずがない。そう思ってしまうと疑心暗鬼に陥る。
実はギリアムと手を組んでいるのではないか、自分を何かに利用しようとしているのではないか、燈さえも騙して都合の良いように事を進めようとしてるのではないのか。
そんな考えばかりが巡ってしまうこと自体が今のシルフィが精神的に弱くなっていることの表れなのだが、この場にそれを指摘できる者はいなかった。
「それで、シルフィ…と呼ばせてもらっていいでしょうか?」
「あ、は、はい」
考え事をしていたため、返事に詰まってしまうシルフィ。
怪しまれはしなかったらしく、彼は微笑みを崩さなかった。
「あなたの頼みとはなんでしょうか? もちろん、私にできることなら協力しますが…」
「えっと、その前に、その口調。普通で構いませんよ?」
シルフィの言葉に多少驚き、その後に先ほどとは違った笑みを浮かべるルーノ。
イフリートは何も言わず、特に表情も変わらないままただシルフィを抱えて歩いている。
「そちらが良いならそうさせてもらおう。なに、友人と妹の知り合いだ。少し格好付けたかっただけだ」
「はあ…。あと、その…聞きたいことがあるのですが」
「なんだ?」
「どうしてあなたは一人でこんなところへ? 助けてもらって言うのもなんですが、精霊である私とギリアムが戦っている中に割って入ろうとする人間なんていないと思うのですが」
シルフィの問いに対してルーノはさして悩むことなく簡潔に答えた。
「聞いたんだ。妹にな。ああ、君が会った方…アリスではなく、もう一人の方にな」
その言葉にシルフィはドキリとした。
間違いない、彼は『精霊の巫女』を知っているのだ。
「やはり、そうなのですね…?」
「ああ」
シルフィの呟きに反応したのは今まで沈黙を守ってきたイフリートだった。
「眠っていた私を起こし、契約させるまでに至ったのはこの男だが、そのきっかけとなったのは、そうだ」
ますます疑いようがない。だったらなぜ彼が一人で来たのかが理解できる。
「お願いです、私を精霊の巫女の元に…でないと燈が、燈が死んでしまう…!」
「そうして代わりに君が死ぬのか?」
その言葉に、シルフィは自分がスッと冷めていくのを感じた。わかっていたことだ。
自分が精霊としての力を使って契約者である燈を助ける。代わりに自分はいなくなる。
けれどいなくなるからといって風の精霊が死ぬというわけではない。【シルフィ】が死ぬだけだ。
「…ええ」
「それで、アカリは喜ぶのか?」
「………けれど、そうしないと…!」
思い出されるのは、倒れて苦しげに顔を歪めて死の淵に立たされている燈の姿。
契約者が苦しむ姿というのは、自分にも身を切られるような苦しみを与えてくる。
彼が死ぬのは嫌だ。それならば自分が代わりになった方がずっと良い。
人を愛してしまった精霊はそう考え、そしていなくなる。
だからこそギリアムは人を嫌うのだ。
人だけが、意図するしないに関わらず精霊を殺すことができるから。
「安心するといい、アカリはおそらく大丈夫だろう」
「なにを根拠にそんなことが言えるんですか……?」
確信を得ているようなルーノの言葉に、それが本当だったらどれだけ救われるだろうと思いつつ、けれどそんなことはありえないと思い声が震える。
「妹は…彼女はアカリが初めて私と会い、そして旅立った後に私に、『兄様は、彼と本当に友人になれると思いますか?』、と言ったんだ」
そう昔のことではないはずなのに、懐かしむような顔になり、唐突に話しだすルーノ。
脈絡のない話に、シルフィは訝しげに彼を見つめる。
「私は迷わずに頷いたよ。彼の不思議な雰囲気に呑まれてしまったんだろう、彼と会った時間は本当に短いものだったが、私には彼が無二の友のように感じたんだ」
そう話すルーノの顔は嬉しそうで、燈のことを信じているというのが簡単に見て取れた。
「『大きな光と大きな闇。どちらに傾くかは周り次第でしょうか』」
「……?」
「精霊王の言葉らしい。彼がこの世界に来た時に妹が聞いたそうだ。…周り次第、ということはアカリが闇に呑まれるなんて、考えられないだろう?」
楓がいるのだから。と、そう言っているようにシルフィは感じた。
実際のところ、ルーノが見たのは気絶している楓だったのだが、燈が彼女だけを連れ出したことには何か運命的なものを感じていた。
「それでも、私は…」
「心配か? …まあ、そうだろうな。精霊と契約者は少なからずどこかで繋がっている。だったらそう感じるのも仕方のないことなんだろうな」
いつの間にか、城の中へ入ってきていたらしく、キィ、とドアを開けると、そこは異様な部屋だった。
右も左も魔法陣だらけ。その効果一つを読み取るだけで頭が痛くなりそうだ。
そんな部屋の中央にベッドが一つ、そこには一人の少女が眠っていた。
その少女を見た瞬間、シルフィに衝撃が走った。彼女は眠っているのではない、眠らされている。その証拠に、部屋を埋めつくさんばかりの魔法陣に加えて、彼女自身にも何かの魔導具が巻かれている。
「…正真正銘、彼女が精霊の巫女だ」
それはそうだろう。ここに来て、彼女を見た瞬間にそれは感じている。
けれどこの仕打ちはあまりにも酷すぎるのではないか。
『兄様…ここに誰かを連れてくるのはお止めなさるよう言いましたよね?』
「…ああ、すまない。けれど、今回は許して欲しいな」
急に頭の中に声が響いた。
その声に対してルーノは当たり前のように返事をしている。
「こ、れは…?」
『…なんだ、本当に用事があったんですね』
クスクスと澄んだ鈴のような声が聞こえる。
その声は確かに、ベッドで寝ている少女から発せられているように感じる。
「ふう…そうでなかったらここに誰かを連れてきたりはしないさ」
『あらあら、それはどうでしょう?』
楽しげに会話を交わす二人、それはなんてことのない兄と妹の会話のようで、はたから見ると異様であった。
「どうしてこんなことを…?」
「それは…」
『兄様、私から話しましょう。精霊さん、私は望んでこうしているのです。心配はいりませんよ? これは私が自分でやったことです。来る時まで見つからないように』
「見つからないように…?」
『ええ』
見た目とは裏腹に、彼女の声から悲観的なものは何も感じられなかった。彼女が本当にそうしたいと望んでやったことだということを理解させられた。
『貴女、闇の精霊に会ったでしょう? 人を憎んでいる彼と。私は今彼に…いえ、彼らには見つかるわけにはいかないのです』
「一体どういう…?」
シルフィにはわからないことだらけだ。
混乱して頭が痛くなってくる。
精霊が守るべき巫女に対して牙を剥く精霊がいるのはなぜか。それは一体何者なのか。
色々な疑問が浮かんではシルフィを責め立てていくような気がした。
『今はその話は置いておきましょうか。貴女は今非常に疲れているようですしね。それに、そんなことを聞くために来たのではないのでしょう?』
それを聞いて、浮かんでいた疑問が消えて本来の目的を思い出した。
「お願いです、燈が…私の契約者が…!」
『大丈夫ですよ』
その言葉は、ストンとシルフィの胸に落ち、彼女の目からは涙が流れ出した。
「え、あ…」
涙は溢れ続け、頬をつたって今もなおシルフィを抱えているイフリートの腕に落ちた。
『大丈夫です、だから貴女は、本来の姿を取り戻すために、彼の元に戻りなさい』
そういうとシルフィの前に緑色に輝く一つの球が現れる。
『それを持って行きなさい。いつか役に立つでしょう』
緑色の球は空中で溶け、シルフィを覆うようにして消えた。
すると、今までの倦怠感が消え、楽になったような気がした。
イフリートに自分を降ろすように言うと、少しふらついたがそれ以外に特に問題もなく立つことができた。
失っていた魔力も回復したようだ。
『兄様、お帰りですよ。送ってさしあげなさい』
「やれやれ、妹のくせになんて生意気な」
そう言うルーノだが、顔には笑みが浮かび、しょうがないなといった様子だ。
「それでは、行こうか」
「……ええ」
先を行くルーノの背を見ると、何故だか燈と重なって見えた。