第一章 ニ話 「引きずる過去」
学校の支度を終えたユイは、一階を見下ろす階段を降りていた。
衣替えしたばかりの白い半袖シャツから伸びた細くしなやかな腕は、重力に負け、ダラリと下がりきっていた。赤と黒のチェック柄のスカートから覗くスラリと長い足も、今はズッシリとした重い足取りで木造の階段を一段ずつぎしりぎしりと踏みしめている。
癖の無く、流れる長い栗色の髪と女優顔負けな程に整った顔立ちは周囲からの評判も良く、特にクラスの男子達からは当然注目の的であった。
そしていつ頃からか彼らはユイを『女神』、あるいは学校名にちなんで『小倉山のヴィーナス』というあだ名で持てはやし、またそれをネタにしながら日々彼女にちょっかいを掛けるようになっていた。
そんな女神も今は体内時計が狂っているのか、その表情は銅像の如く強張っていた。同時に、焦点の定まらない虚ろな双眼からは、毎晩遅くまでテレビゲームを満喫した後の疲れが映っていた。
未だ体に張り付く気だるさを抱えながら最後の一段を下り終えようとした時だった。しきりに食い物をねだるいつもの馬鹿正直な腹の音が、狭い廊下に虚しく響き渡った。
「うぅ、おなか……すいたぁ~」
空腹と共に、ユイの口から毎朝恒例の台詞がポロリとこぼれ落ちた。
日頃の楽しい不摂生のおかげで手足には全く力が入らず、一人その場にヘトヘトとしゃがみ込もうとしたユイの耳に、突然微かな音が聞こえて来た。
それはジュウジュウと何かが焼ける音だった。加えて香ばしい香りが温かな気流に乗りながら、家全体を満たしながら流れ込んで来る。
辺りを漂うそれは、萎えたユイの嗅覚を通じて「食欲」という名の信号へと姿を変えると、疲れ切った彼女の胃を際限なく、そして脳を鋭く刺激した。
次の瞬間、ユイの理性はあっけなく吹き飛んだ。
数分後、悲痛に叫ぶぺしゃんこ胃袋に身体を乗っ取られたのか、いつの間にかユイの足はある場所へ踏み込んでいた。
使い込まれた調理器具に大小の皿が収まっている食器棚、今はもう見る機会はすっかり無くなったテレビ。少しガタの来ている大きなテーブルに数人分のイスが並べてある生活臭の漂うリビングだった。
そしてその奥にある台所では朝早くからせっせと朝食を作っている母、真姫の背中が見えた。
「おはよう、ユイ。あら、今日は珍しく早起きね」
「う……うん」
真姫は娘の姿に気づくと出来立ての料理を手早く皿に乗せて、いつの間にかテーブルに着いているユイの前に並べた。そして彼女の前に座り柔らかな笑みを作ると、自慢の朝食をがつがつと食べる愛娘の顔をじっと見つめた。
彼女もまたユイと同じく美しい顔立ちであり、近所では『小倉山小町』としてその名が知られていた。ただ、その顔には女手一つで娘を育てたという苦労の跡がしっかりと刻まれていた。
そんな真姫の心労など全く気にしたことのないユイは、美味しそうにひたすらモグモグと口を動かしている。
「ねえ、ユイ」
夢中でごはんを口に運ぶユイの耳に突然真姫の一言が飛び込んできた。そして、それが合図だったかのように箸を持つ右手がピタリと止まる。
「なに……?」
上目遣いで真姫を見据えながら、ユイはその細い眉を顰めた。そしてその後に来るであろう真姫の台詞が彼女の心に「ある不快感」をじわじわと立ち込めさせていく。
「もうすぐ三年生でしょ? それでユイ、あなたのこれからの進路についてなんだけど……」
シンロ……その単語が真姫の口から出た瞬間だった。
「また、その話……?」
ユイの背筋がゾクリとした。それと共に今まで蓋をしていた嫌な想いが今にも溢れ出しそうになる。しかし、それを抑えようと噛み締める口からは小さな声しか出せなかった。
「ええ……そうよ。こんなこと、本当は言いたくないけれど……でもユイ、これはあなたにとって……」
「いい加減にしてって……言ってるでしょ!」
噴出した激情に支配されたユイは真姫の言葉をその怒号で遮ると、硬く握り絞めた両手で今にもテーブルを壊さんばかりに叩きつけた。衝撃でこぼれた味噌汁は瞬く間にテーブルを濡らし、皿のおかずが華麗に宙を舞った。
「アタシの顔を見る度にいつもそんな話ばっかりして!」
「ユイ……」
「お父さんが死んだあの日からアタシが……アタシがどんな思いをしたのか。お母さんにだってわかってたクセに!」
自分でも抑えようのない怒りを母に容赦なくぶつけると、ユイはテーブルの隅に置かれた一枚の写真立てを憎しみの眼差しで一心不乱に睨みつけた。
そこには白髪混じりの男が写っていた。厳格な表情に加え、老いなどまるで微塵も感じさせない、屈強で引き締まった体格。そして何よりその右手に握り絞められた、人の背丈に達する程の大きな「槍」が見るものにただならぬ威圧感を与えていた。
「小さい頃から、やりたくもない武術をコイツに毎日無理やり叩き込まれたせいで……アタシの今までの学校生活は台無しに。こんな奴……こんな奴さえいなければ!」
少しでも視界に入るだけで、吐き気すら覚えそうな『それ』を、ユイは渾身の力で目の前から殴り飛ばした。飛ばされた勢いで壁にぶつかると、何度も乾いた音を部屋中に響かせながら木製の額縁はようやく床に落ちた。
「何をするの!? やめなさい、ユイ!」
真姫がそう叫ぶ中、更に追い打ちを掛けるようにそれまで座っていたイスを頭上まで高々と持ち上げると、堅物の顔がある位置に狙いをつけた。そして確実に直撃するように凶器と化したイスを力の限り振り下ろした。
「このぉ……この野郎おお!」
「お願いやめてえ!ユイイイ!」
静寂を引き裂かんばかりの真姫の悲鳴と殺意に満ちたユイの咆哮が同時に轟き、ガラスをつんざく音と共に写真立てはその原型を失った。
「ユイ……もうやめて。これ以上、おじいちゃんを責めないで。お願い……」
どれだけの時間が過ぎただろうか。そう耳元でささやく母の言葉と自身を包む柔らかな感触に気が付いたユイは、ようやく我に返った。
それは、愛する娘の怒りをその腕で抑え、鎮める愛の抱擁だった。
全身に温もりを感じるとともに、それまで燃え盛っていた感情はゆっくりと鎮火され、息の荒さも収まって行く。
「わかってるわよ。もう死んでるんでしょ。でも……アイツのせいでアタシが失った自由は戻ってこない」
ユイはいつまでも自分を抱いている真姫の腕を鬱陶しげに振りほどくと、そして彼女の方に向き直ると吐き捨てるように言い放った。
「アタシはアイツを許さない……。でもアタシをアイツから守ろうとしなかったお母さんはもっと許さない!」
「ごめんなさい、ユイ。でも……わたし、あなたのことが……」
涙ながらに釈明をする真姫をその場に残し、ユイは黙ってテーブルに置かれた鞄を引っ掴むと足早に家を出た。