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RUN WITH WOLVES  作者: HINO
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13/19

――神楽盃の登壇――

 翌日、俺は雨の音で目を覚ました。


 目覚ましとしては効果の低い、ただの雑音。しかし、一度気になり始めると、どうにも意識から外せない音量だった。


 ここ数日、快晴が続いていたところでの、突然の豪雨である。


 ベッドの上で上体のみを起こし、俺は窓の外に目を向けた。窓に打ちつける横なぶりの雨は、滝のようにガラスを滴ることで、俺の視界を遮った。


 雨は気持ちが滅入ってしまうから嫌いだ。なんとなく、俺の気分もどしゃ降りの雨に晒されたかのように冷めていく。


 きっと、雨が嫌いというわけではないのだろう。おそらくは、あの出来事を勝手に思い出してしまう自分自身に嫌気が差しているのだ。


 あの日も雨だった、なんて。


 雨が降る度にそんなことを思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌になるのだ。


 両親を失ったあの日。あの雨の日。


 訃報を告げる電話の音と、雫の戸惑った顔だけが、いつまでも脳裏に蘇ってくる。


 昔は雨が降る度に嘔吐していた。言うまでもなく完全なトラウマだが、今はさすがに制御できる。両親が死んだことに納得こそしていないけれど、整理は出来ているのだ。


 どうしようもないことである――と、そう割り切っている。


 実際、全ては時間が解決してくれた。きっと時間ほど有能で信頼できるカウンセラーはいないだろうと思う。


 それでも心のどこかでは、両親が生きてさえいてくれたならばと、そんなことを考えてしまう自分がいる。


 もしも両親が生きてさえいてくれたなら、雫は病気にならなかったのではないか。


 もしも両親が生きてさえいてくれたなら、雫と俺の関係は、険悪なものにならなかったのではないか。


 本当にくだらない現実逃避を、こうして延々と考えてしまうことがあるのだ。


 そしてその度に、こんなことを考えてしまう愚かな自己の存在を、嫌というほどに感じ取ってしまうのだ。


 俺は自分だけの力で、雫を幸せにすると誓ったはずなのに。


 例えヒーローにはなれなくても、ただ一人の家族として、雫を救ってみせると誓ったはずなのに。


 自分の非力さに逃げ道を用意している、この俺自身に反吐が出る。


 俺は頭を両腕で抱え込みながら、悶々とこんなことを考えていた。


 結局、両親の死を整理することなど微塵もできていないのはないか、と。


 強がり。見せかけ。妄言。全部、自分についた嘘である。


 本当の俺は、きっと助けて欲しかったのだろう。北条先生の言う通り、誰かに甘えて生きるべきだったのだろう。


 雫がいるから、強くならなければならない。


 誰かがそんなことを言ったか?


 甘えるな。逃げるな。そして、泣くな。絶対に泣くな。


 俺にそう言い聞かせていたのは、俺自身だ。雫を理由にして、俺は自分までをも殺していた。


 本当に全部、北条先生の言う通りなのかもしれない。俺が死んだように生きているのであれば、雫の家族は、皆死んだことになる。俺という存在がありながら、雫には家族が誰一人としていなかったことになる。


 まったく、嫌に頭が回る日だ。


「……きっと今なら」


 雫に会いに行こう。


 唐突にそんなことを思った。


 まずは身支度を整えないと、と思い、俺は立ち上がってのろのろとリビングへ向かった。


 廊下からリビングに入る扉を開いた時、不意に、キッチンの方から声がする。


「……盃?」


「おはよう、イヴ」


 イヴはキッチンのテーブルの前に座っており、首を傾けながらこちらを見つめてくる。


 少し驚いているような顔をしているのが気になった。


「どうした? 俺、寝ぐせでもついているか?」


「いえ、おはようという時間でもなかったので……」


 俺はその場に立ったまま、壁の時計に目を向けた。


 現在時刻は、午後十二時十分。


 お昼を過ぎていた。俺は十時間以上眠っていたということになる。


「さすがにお疲れのようですね。まあ、昨日の今日では無理もありませんが」


 イヴはそう言うと、静かに席を立ち、そのままキッチンの方へと歩いていく。


「今、コーヒーをご用意します。盃は座って待っていてください」


「ごめん。ありがとう……」


「目が覚めていないようですが、大丈夫ですか?」


 腰を下ろした俺に、微笑みながら尋ねてくるイヴ。


「いや、寝過ぎてしまったなあと思って」


 俺が答えている間も、イヴはコーヒーカップを棚から取り出したり、コーヒーの粉末を用意したりという作業を止めようとしない。


 非常にスムーズな手際である。


「たまには良いのではないでしょうか。自然に目が覚めないということは、それだけ疲れているのですよ」


「そうは言うけどなあ……」


 こんな事態の最中、ぐっすり寝入ってしまうのはどうなのだろう。


 さすがに緊張感に欠けるというか、イヴに負担をかけてしまうばかりのような気がしてならない。


「まあ、今はこれを」


 言いながら、イヴがこちらに戻ってくる。両手に持ったコーヒーカップのうちの一つを、そっと俺に手渡す。


「ありがとう」


「私も一杯、頂きますね」


 イヴは俺の正面に腰掛けると、カップを顔の前にまで掲げ、優しく微笑んだ。


 俺も自分の顔の前までカップを持ちあげ、乾杯のような仕草を見せて返す。するとイヴは、ここで何故か小さな笑い声を零す。


「ん? どうした?」


「いえ、何だか妙に落ち着けるといいますか、こんなに気を抜いてしまっていていいものなのかと」


「……ああ、まあコーヒーを飲む時くらい、一息ついてもいいんじゃないか? お前の入れてくれたコーヒーも美味いし」


 コーヒーに口をつけ、俺はイヴを見る。


「ふふ。それなら良かった。褒めて頂き光栄です」


「お前と飲んでいるから、というのもあるかもしれないな」


 冗談めかした声で言うイヴに、俺も冗談を言って返す。


 二人の頬は自然と緩んでいた。


「口説こうとしているかのような冗談ですね。それは笑えませんよ?」


 とは言いつつも笑っているイヴの姿を見て、さらに頬が緩む。


 まあ、口説こうとしているというのはともかく。イヴがいるから安らかな気持ちになれている、というのは確かである。


 こんな安心を、俺はずっと求めていたような気がする。


「どうしたのですか、盃。急に黙り込んで」


「やっぱり美味しいな、このコーヒー」


「……はい?」


 さっきまでの陰鬱な気分は、いつの間にか晴れていた。


 イヴの眩い金髪は黄金の日射しのように温かく、眺めていると、自分の愚かさを呪うなんてことがどうでもいいようなことに思えてくる。


「しかし、盃のように香り立たせることが出来ないのですが……って、あの、どうして私の顔をじっと見ているのですか? その、恥ずかしいのですが……」


「別に。気にするなよ」


「気になりますよ……」


 俺とイヴの間に、言葉では言い表せない信頼関係のようなものが出来ている。


 ふと、そんな気がした。


 こいつとは初めて会った時から、初めて会ったような気がしないというか。


「それよりお前、お昼は食べたのか?」


「え? ああ、いいえ。これから作るところでした。何を作ろうかと考えている時に、盃が起きてきたのですよ」


「そうか。じゃあ朝食は?」


 俺の問いに、イヴはしばし黙り込む。


「まさか……俺を待っていて食べていないとか?」


 黙り込んだままのイヴは、まじまじと見ていないとわからないような首肯を返してきた。


「どうして?」


「そ、その、やはり二人で食べるのが一番良いかと……」


 俺の顔が引きつっていたのだろう。


 イヴは俺が質問を重ねる度に顔を強張らせていった。


「はあ……。この家では好きに過ごせと言っただろう? 俺が寝過ごしたのも悪かったけれど、そうやって気を遣うことはないんだぞ?」


「すみません」


「お前は俺に気を遣い過ぎだ」


「すみません……」


 肩をすぼめてその身を小さくしたイヴを見ていると、これ以上小言を言い続けるのもどうかという気になってくる。


「まあいい。昼飯は俺が作るから、お前はゆっくりしていろ」


「いえ、それは」


「いいから」


 イヴの言葉を待たずして立ち上がり、俺はキッチンへと向かった。


「あっ……、あの、盃……」


 冷蔵庫を開き、材料を見ながら献立を考えていた俺の背中に、イヴが話しかけてくる。


「何だ?」


「その……盃は、誰にでも優しいのですか?」


「……は?」


 俺はキッチンを挟んだまま、テーブルの前に座っているイヴの方を覗きこんだ。俯いているイヴの顔からは、冷たく重たい空気が伝わってくる。


 まるで湧き上がってくる苛立ちを必死に堪えているかのような、そんな表情である。しかし、一体イヴが何を言いたいのか、俺にはまず、その質問の意味からしてわからない。


「いきなり何を言い出すんだよ」


「だから、その……あなたは、誰にでも優しいのかと、そう尋ねたのです」


「いや、お前が何を言いたいのかわからないのだけれど、まず、俺は優しいのか?」


「……え?」


 今度は俺の質問に、イヴが疑問の色を浮かべる。


「俺は優しくしようと思って行動をしているつもりはないんだよ。それでも、お前は俺を優しいと思うのか?」


「……何ですか、それ。あなたは優しいですよ」


 イヴはさらに顔を俯かせながら、小さく言った。


「二十年後の時間座標でも、あなたはいつも私に優しくしてくれた。この時間座標のあなたもそうです。私には気を遣うなという癖に、自分は優しさを振りまき続ける。最初のうちは、あなたはそういう人間なのだと、それで納得していました。しかし今は、それだけではない気がするのです」


「何だよ。別にそんなに意識することでもないだろう?」


「もしも、もしも私だから優しくしているというのであれば、すぐにやめてください。私には、それが辛いのです」


「……辛い?」


「私は一人の護衛として、あなたの命を守りたい。二十年後の時間座標でも、私はその想いを持ち続けていました。しかし、あなたは私に優しくするばかりで、一度も戦えとは言ってくれませんでした」


 それはそうだろう。


 こんな小さな体の女の子に、戦えなんて言えるはずがない。未来の俺も同じことを思っていたはずだ。


 けれど、それで優しさが辛いという理由は何なんだ?


「あなたが誰にでも優しいのなら構わない……。しかし、私だからという理由で優しくしてくれているのだとすれば、それは迷惑でしかありません」


 優しさが迷惑。


 優しさが辛い。


 イヴは心の底からそんなことを思っているのだろうか?


「そこまで言う理由は何なんだよ……、イヴ」


 俺が尋ねると、イヴは目に涙を浮かべながら言った。


「優しくされると、私はどうすればいいのかわかならなくなる……本当に、自分がわかならくなるのです……」


 返す言葉が見つからなかった。


 確か、初めて会った日の夜も、イヴは似たようなことを言っていた気がする。


 俺とイヴの関係は、主従関係のような縦の繋がりではないと。


 パートナーとして、互いに対等であると。


 俺がそう伝えた時、イヴはこう言ったのだ。私はどうすればよいのでしょう、と。


 甘えろという俺の言葉は、イヴにとっては消化もできないほどの甘さだったのかもしれない。だから今、イヴは再び、俺との関係に疑問を抱き始めている。ただ甘えてくれればいいのに、そんな事に違和感を覚え、辛いとまで言っている。


「世界から命を狙われているような状況で、どうして私なんかに優しくできるのかがわかりませんでした。私は戦うと言っているのだから、戦わせてくれればよかった……。そう命じてさえくれれば、私はどんな敵からでもあなたを守ってみせます。どんな敵でも打ち払ってみせます。しかし、優しくされると……」


 イヴの目から、透明な雫が零れ落ちる。


「優しくされればされるほど、戦うのが怖くなる。死ぬのが怖くなる……。もしも私が死んでしまったら、あなたと二度と会うことはできない……、そうしてあなたと離れてしまうことに、どうしようもない恐怖を感じてしまう」


 イヴは懇願するような声を出す。


 瞳からは大粒の涙がいくつも滴り落ちる。


「私を盾として扱ってください……。優しくしないでください……。あなたは私の、命の恩人なのです……。私はあなたの役に立ちたい……。それなのに、あなたの優しさに身を浸せば浸すほど、戦うのが怖くなっていく自分がいる……。そんなのは、嫌なのです……」


「イヴ……」


 俺と離れるが怖い。


 その気持ちは、イヴのどんな感情から湧き出ているものなのだろうか。


 俺を守れなくなるから離れたくない?


 そんな感情からのものならば、俺はその気持ちに対して、嬉しいとも何とも思わない。けれど、俺といることに安らぎを感じてくれているからなのだとすれば、本当にそうであるならば、俺は嬉しい。


 ただただ嬉しい。


 イヴの居場所の一つになってやりたいとさえ思う。


 俺と離れたくないから死にたくない。死にたくないから、戦いたくない。俺と離れたくないから、戦いたくない。


 それでいいじゃないか。何が悪い。


 俺だって――


「イヴ。お前は馬鹿だ」


「……え?」


「いや、大馬鹿だよ」


 俺は感情を込めず、淡々とした声で言った。


 イヴは赤くなった目で俺を見つめてくる。


「今お前が抱いている感情が普通なんだよ。戦いに恐怖し、死を恐れ、誰かを想う……、それが普通だ。死をも恐れず戦い、死を以ってしても誰かを想う……、そんなのは間違っているよ」


「しかし私は」


「俺はな、イヴに戦って欲しいとも、死んでまで守って欲しいとも、そんなことは微塵も思っていないんだよ。イヴは俺の役に立ちたいと言うけれど、本当に病気のように何度も言ってくるけれど、俺はお前がいてくれるだけで、もう救われている」


 イヴは口を開けたままの顔で固まってしまう。潤んだ瞳からは、さらに一筋の雫が流れ落ちた。


「未来の俺も、今の俺と同じ気持ちだったはずだ。今の俺は、お前といることに安らぎを感じている。お前といることで、温かい気持ちになれる。だから、イヴ」


 俺は一拍の間を置き、次の言葉を紡ぎ出した。


「一緒にこの戦いを終わらせて、一緒に心から笑える日々を過ごさないか?」


「……は、い」


 嗚咽を漏らしながら、イヴは小さく頷いた。両手で顔を隠しながらも、懸命に頷き続けた。


「お前一人を戦わせはしないさ。俺とお前は一緒に戦える。だから、一緒に戦いを恐れながら、死を恐れながら、一緒にお互いを想い合っていけばいい」


 イヴはもう声が出せないようで、無言のまま、ただひたすらに頷き続ける。


 俺は我慢しようともせずに涙を流すイヴを見て、今まで病的だとさえ思っていた彼女の行動原理を、わかってしまったような気がしていた。


 大切な人のためならば、自分はどうなってもいい。


 俺はそんな考え方をするイヴを叱りつけたけれど、俺も彼女のことをどうこう言えた身ではないだろう。


 思い浮かぶのは雫の顔である。


 俺も雫にもしものことがあったら、自我を保っていられる自信はない。ましてや、この戦いのせいで雫にまで危険が及ぶようなことがあったのなら――


 前に、不流に問われたことがあった。その時は、雫を巻き込もうとした相手を殺すのか、と。


 わからない。


 本当にわからない。


 俺はこの戦いで、誰も殺したくないと思っている。誰も死なせたくないと思っている。


 しかし、雫に死の危険が迫っていたならどうだろう?


 雫に死の危険を及ぼした人物と、雫自身。天秤にかけるまでもない選択肢を前に、俺はまだ誰も殺さないと言い張れるのだろうか。雫がこの戦いに巻き込まれるようなことがあれば、俺はきっとその相手を――


「盃……本当に、本当にありがとうございます……」 


 ふと、イヴの震える声がした。


「私はただ、自分の気持ちに素直になればよかったのですね」


 憑き物が落ちた、とでも言えばいいのだろうか。目元が晴れた泣き顔のイヴがどこか清々しい表情で俺を見る。


「ああ、そうだな。前に言っただろう? 甘えろって」


「……はい」


 汚れの無い笑みを向けてくるイブを見て思う。


 やっと通じ合えた、と。


 俺たち二人の本当の戦いは、ここから始まるんじゃないかな。これまでは一人と一人で、二人ではなかったのかもしれない。


 これから俺たち二人が共に戦うことができたなら、きっとこの戦争も終わらせられる。そう確信できる。


 俺は心の奥底にある闇から目を背け、静かにイヴを見つめ続けた。


 俺が誰かを殺すかもしれないなんて、そんなことはないだろう。


 そう、きっとない。


 心に蓋をするように、俺はイヴに言葉を掛けた。


「これでこの話は終わりだ。今からご飯作るから待ってろよ」


「……嫌です。私も手伝います」


 まだ涙目ではあるものの、喜色満面でそう言ってくるイヴの姿を見ると、さすがに断ることができない。甘えろと言った体裁もあり、ここは言う通りにさせてやるしかないだろう。


 まあ、これがイヴの甘えなのかどうかはともかく。


「じゃあ、頼む」


「はい」


 席から立ち上がり、こちらへと歩いてくるイブは本当に嬉しそうな顔をしている。さっきまで泣いていたのが嘘のようだ。


「せっかく二人で作るのですから、少し手の込んだものを作ってみませんか?」


 俺の隣に立ったイヴは、笑顔のままでそんなことを提案してきた。


「いや、今日のところはよしておこう。お前、朝食も取ってないんだろう?」


「そこはお構いなく。それとも、何か用事でもあるのですか?」


 食事を終えたら雫に会いに行こうと思っていたのだけれど、今の状態のイヴにそれを言うのは、何だか悪い気がする。休日のお出かけが中止になったのを子どもに言い聞かせるお父さんは、ひょっとするとこんな気持ちなのかもしれない。


 しかし、イヴは一体何をそんなに浮かれたようになっているのだろう?


「ああ。ちょっと行きたいところがあるんだよ」


「……病院、ですか?」


 俺が何を言う前に、行き先を言い当てられてしまった。


 そう言えば、イヴは雫のことを知っているのだろうか?


 しかし、俺は雫のことをイヴに話した覚えはない。少なくとも、この時間座標の俺は。


「雫のことは、未来の俺に聞いたのか?」


「はい……。この時間座標のあなたは、妹さんのことを全く語ろうとはしてくれませんね」


 それはきっと、怖いからだ。


 イヴは二十年後の未来からやって来た。となれば、当然、二十年後の未来に、雫という人間が存在していたかどうかも知っているはずなのだ。


 俺は、真実を知るのが怖い。


 現代の医学では、雫の病を治すことができないということもわかっている。今のままでは、雫は長く生きられないということもわかっている。


 果たして、二十年後の未来は?


 俺は、それをイヴに尋ねることができないでいる。二十年後の未来に、雫が生きてくれていたのかどうか。


 俺は怖くて、訊くことができないでいるのだ。


「真実を知るのが、怖いですか?」


「………………」


「私から何かを言うつもりはありませんし、言えません。私のいた未来は、すでに失われましたから」


「………………」


「ですが、これだけは言えます。あなたはただ、あなたの信じる未来を実現させればいい。確定した未来などないのですから、何も恐れることはないでしょう?」


 イヴは微笑みながら、そっと俺の手を握る。


「戦いを終わらせて、一緒に笑い合える日々を過ごしてくださると、あなたはそう言いましたよね? あなたが描くその日々に、雫さんはいないのですか?」


 重ねられた手から伝わってくるのは、確かな熱。


 俺はこの時、改めてイヴの存在に救われているのだと確信した。


 イヴという存在が俺の隣に居てくれるだけで、安心できてしまう。不安が取り払われてしまう。


 俺の中で、イヴの存在がどんどん大きくなっていくのを感じる。


 イヴが居てくれるのなら、きっと大丈夫。そんな気持ちまでもが湧いてくる。


「……そうだな。未来なんて、どうとでも変えられる。不安なんて何もない」


「そうですよ。さ、ご飯を作りましょう」


「本当にありがとう、イヴ」


 未来を変えたいのなら、まずはその未来を思い描かなければならない。信じてもいない未来が、訪れるはずもないのだ。


 だから、イヴと築こう。俺の思い描く未来を。


「お礼なんて言わないでください。その、私も……」


「ん……?」


「あなたが居てくれることで、救われていますから」


「………………」


 そう言って俺と重ねている手に力を込めてくるイヴを、俺は愛おしいと思わずにはいられなかった。


 胸の奥が熱くなるような、初めての感覚。


「……盃、どうしたのですか? 顔が赤いですよ?」


「な、何でもない。料理ができないから、手を離してくれないかな」


「あ、すみません……」


「………………」


 イヴは咄嗟に手を引っ込めると、その手を胸の前で抱え込む。何となくイヴも赤くなっているような気がするけれど、俺がその理由を知る由もない。


「……冷蔵庫から野菜を取り出してくれるか?」


「……あ、はい」


 どうしてかぎこちないやり取りである。


 しかし、こんなやり取りを繰り返しながら、俺たちはわずか三十分ほどで昼食を完成させた。


 オムライスとサラダという組み合わせは、イヴの希望を尊重した結果である。子供っぽいと思ったのは終始口に出さず、俺は盛り付けを終えた皿を食卓に並べていく。


「盃、こちらは終わりましたよ」


 俺の席とイヴの席、それぞれに全ての皿を配置し終えた頃、イヴも水回りの片づけを終えたらしく、キッチンのテーブルの方へとやって来た。


「こっちも終わった。座ってくれ」


「はい、ただ今」


 お互いに向き合うように座り、合掌する。いただきますと二人同時に言って、二人同時に食事に手をつける。


「……うん、美味しくできてるな」


「そうですね。半熟玉子で正解でした」


 子供っぽいというのはさておき。


 本当に、昨日までの出来事を忘れてしまいそうになるほどゆったりとした時間が流れている。昨晩は五角の全員が集結し、ルー・シュバルツェネガー陣営と秋山獅道、霧島一矢の陣営がはっきりと対立するきっかけが生まれてしまったというのに。


 こうしている今でさえ、各陣営は新たな衝突に備えた動きを始めているかもしれないのだ。


 昨日の今日だからと言って油断はしていられない。俺自身も狙われていることに変わりはないわけで、そう考えると、これから病院に向かうために出歩くのは危険なのではないかと思えてくる。


「盃、何か考え事ですか? 手が止まっていますが」


「ああ、あのさ、イヴ。俺がこれから病院に行くのは危険かな?」


「そのことですか……。絶対安全とは言い切れませんが、そこまで警戒する必要もないかと思います。むしろ、奇襲された場合、屋内の方が危険ですしね」


「そうか。それならこれを食べ終えたら予定通り、病院に行ってくるよ」


「わかりました。私は病院の屋上にでも身を潜めていますから、ゆっくりとお話をしてきてくださいね。何かあればすぐに駆けつけます」


 イヴは気を遣ってそう言ってくれたのだろうけれど、どこか心苦しく感じられる。


「すまないな……。気を遣わせてしまって」


「いいえ、当たり前のことですよ。紹介すると言われても困りますしね」


 逆にこちらに気を遣わせまいとしているようで、イヴは明るい調子で言葉を続けた。


 笑って見せてくれるイヴの顔は本当に純粋そのもので、そのせいか尚更放っておけない。


「……盃? 私は本当に気を遣っているわけではありませんから、そんな顔をしないでください」


「そうは言うけれど、こっちとしては」


「怒りますよ?」


「何でだよ」


 決して怒ることではないだろう。


 まあ、そこまで言うのなら仕方がないか。


「じゃあ、その代わりという訳ではないけれど、何かして欲しいことがあれば言ってくれよ? でないと、何か俺の気が済まない」


「……ふふ。では、何か考えておきますね。少々無理なお願いでも、きちんと聞いてくださいよ?」


 悪戯に笑うイヴ。その声には俺をからかっているような響きが含まれていた。


 しかし、全く悪い気はしない。むしろ嬉しいくらいである。


 俺に対して歪んだ実直さを持っていたイヴが、こうして人間らしい一面を見せてくれているのだから。


 機械のように淡々と振る舞っていた最初の頃を思えば、これはかなりの大きな変化と言えるだろう。物事における変化というものが全て好ましいものだとは思わないけれど、ことイヴに関してのみならば、それは良かったのだと言い切れる。


 その笑顔が本当に可愛らしいものだったのだから、疑う余地も無い。


「お前の言うことなら何だって聞いてやるよ」


 俺は冗談めかして言った。こういう事をはっきりと口にするのはどうにも抵抗があったのだ。


「盃はやっぱり優しいですよね。そういうことを言われると、何だか照れてしまいます」


 イヴは何の気も無しに、軽い調子でそんなことを言う。照れてしまうと言った割には、そのまま満足そうな顔で食事を進めている。


 こっちの気も知らないで、と思ってしまうのは、俺がイヴに完全に参っているからだろうか。


 さっきまでは何も意識することなど無かったのに、今ではイヴの何気ない仕草や一言が、やけに胸をざわつかせる。


「……盃、また手が止まっていますが、一体どうしたのですか?」


「い、いいから早く食べろよ」


 本当に、俺はどうしてしまったのだろう。


 初めての感覚、感情、これらを一体どうすればよいのかわからない。


 俺はその後、イヴとまともに言葉を交わすことなく、食事を取り終えた。


 そして――現在。


 時刻は一三時四〇分を過ぎた頃である。


 昼食の後片付けを済ませて部屋へと戻った俺は、外出のための身支度を進めていた。身支度と言っても、寝間着から外出着に着替えたり、財布を忘れないようにズボンのポケットに捻じ込んだりと、それくらいしかやることはない。


 全ての身支度を整え、俺は窓の外に目を向けた。


 雨は俺が起きた時よりも勢いを増しており、これから外出するのを躊躇わせるほどになっていた。


 空間内には雨音だけが響き渡る。


「……雫と、きちんと話さないとな」


 雨音にかき消されるような声量で、俺は独り言を漏らした。


 まずはこれまでの事を謝ろう。 寂しい想いをさせたことを謝ろう。そしてこれからは、家族としてそばにいさせて欲しいと、そう伝えよう。


 心の中で、何度も何度も、雫への想いを巡らせる。


 緊張しているのか、鼓動が速くなっているのを感じたけれど、不思議と嫌な感覚ではなかった。


 心地良い、高揚感と呼ぶべき感覚。


「盃、支度はできましたか?」


 ノックの音と共に、扉の方からイヴの声がする。


「今行くよ」


 言って扉を開くと、先ほどまでのダークスーツという身なりに加えて、大きな傘を一本、携えて立っているイヴの姿があった。


 なるほど、準備がいいな、と感心してしまう。


「では、行きましょうか」


「ああ。付き合わせてすまないな。よろしく頼む」


「構いませんよ」


 イヴには今度、改めてお礼をしないといけないかな。


 そんなことを思いながら、二人で廊下を並び歩き、玄関へと向かう。そして、靴を履き、玄関扉のドアノブに手を掛けようとしたところで、


「……ん?」


 ポケットの携帯電話が、何やら振動していることに気が付いた。


「忘れ物ですか?」


「いや。メールが届いたみたいだ」


 一体、誰からだろう。俺にメールなんかを送ってくる人間はごく少数で、尚且つ、それも業務連絡のような目的でしかない。


 大学関係の人間か、宝くじの当たり程度の可能性を考慮しても、北条先生くらいしか相手はいない。


 取り出した携帯電話の画面を開き、受信メールを確認する。


「……はあ?」


 差し出し人を見て、思わずそんな声を漏らしてしまった。


「どうしました?」


 眉根を寄せた心配そうな顔のイブが、俺の方を覗き込んでくる。


「……ああ、イヴ、あのな」


 動揺でうまく言葉が続かない。


 これは、忘れていた俺が悪いのだろうか。いや、何が悪いと言うならば、タイミングが悪い。


 まったくの不意打ち。


 予想外。


 だからこんなにも動揺してしまうのだ。


「本当にどうしたのですか? 顔色が悪いですよ?」


「……ああ、ルー・シュバルツェネガーが来てるんだよ。すぐそこまで、な」


「まさか……、奇襲予告ですか?」


 途端に険しくなるイヴの顔を見て、さらに力が抜けてきた。


「いやいや、話したいことがあるらしい。どうやら不流も一緒に来ているみたいだ」


「不流飛鳥も? それは気になりますね……」


 確かに気にはなるけれど、一体どういう流れからあの二人が俺のもとを訪ねてきたのかがわからない。


 しかもというか、ましてやあのルー・シュバルツェネガーだ。話しに来た、と言われるよりは、殺しに来た、と言われる方がまだ頷ける。


「とりあえず外に出よう。あいつら、このマンションの近くの交差点まで来ているらしいから」


 そう言って、俺が傘に手を伸ばそうとすると、


「私が用意した傘があります」


 隣に立っていたイヴが、俺の動きを手で制してきた。


「……え……っと、一本しかないだろう? それを二人で使う気なのか?」


「護衛対象に離れて歩かれると、何かあった時に対応できないのですよ。雨の中、黒服から離れて傘を差している要人を見たことがありますか?」


「………………」


「では、急ぎましょう」


 こうして俺たちは家を後にして、気持ち速足でエレベーターに乗り込んだ。


 エレベーターが一階に着くと、すぐさまエントランスを抜けて外に出た。さすがにこの雨の中では出歩いている人も少なく、マンションの目の前の大通りは、随分と閑散とした雰囲気に包まれていた。


「盃、どうぞ」


「………………」


 突然、イヴはその手に持っていた大きな傘を開き、俺を誘導するような仕草で手招きをし始める。


「さあ、中に入ってください」


「………………」


 言わないでいたけれど、やっぱり二人で傘に入るのは恥ずかしい。


 何より、その姿でルー・シュバルツェネガーたちの前に出るのが恥ずかしい。


「盃、何をしているのですか? さあ、早く」


「………………」


 何の他意も感じられないイヴを見ていると、あれこれ意識しまっている自分が一番恥ずかしくなってくる。


 俺は素直に、イヴのかざした傘の中に入ることにした。


「どちらに向かえばよいのですか?」


 淡々と尋ねてくるイヴに、俺の気分も落ち着かされた。


 不流はともかく、ルー・シュバルツェネガーとの接触ということで、イヴは結構気を張っているのかもしれない。


「……ああ、こっちだ」


 俺たちは大通りの先に見える、大きな交差点の方へと向かって足を進めた。


 歩行者とすれ違うことはほとんどなく、水しぶきを上げながら走る車が時折オフィスビルやコンビニの駐車場に入っていく光景からしか、人の動きを感じ取ることはできない。


 空は曇天というよりも、地に迫ってきている灰色の天井と言った方が良いくらいの重圧感で、やはりこんな日に出歩くのはいかがなものかと思わされてしまう。実際、ルー・シュバルツェネガーたちの来訪という珍事もあった訳だし、この急な悪天候が、何かの暗示になっていたということにならないよう、ただただ祈るばかりである。


「どこか落ち着かないように見えますが、何か不安に思うところでもあるのですか?」


 そんな俺の気持ちを察してか、唐突にイブがそんなことを尋ねてきた。


 肩が触れ合うほどの距離で、俺の目をじっと見つめてくる。


 落ち着かないと言えば、今が一番落ち着かない。その宝石のような青い瞳が、まるで呪縛のようにも感じられた。


「……何でもないよ」


 しかし、隣に愛おしいと思える人が居てくれるというこの事実は、俺のいろんな不安を晴らしてくれそうではあった。


 今ならきっと、雫とも向き合える。


 そんな風に、力強い感情が俺を前向きにしてくれていた。


「まあ、何もないのならいいですが、思ったことは言ってくださいよ?」


「大丈夫。不安なものなんて、何一つ無いから」


 きっと大切なものを実感すればするほど、心は満たされていくのだろう。ちょうど、今の俺のように。


 このまま、いつまでもこの感覚に浸っていることができれば、それこそ幸せなのだろうけれど、今はそうもしていられない理由がある。


 俺とイヴの二人は歩を進め、ルー・シュバルツェネガーがメールで指し示してきた交差点の角を曲がった。


 すると、


「Guten Tag. お二人さん」


 真っ赤な傘を差した銀髪が俺たちを出迎えた。


「生憎の雨ね。しかし、二人で同じ傘に入るなんて、随分と仲がいいじゃない」


 ルー・シュバルツェネガーは含みのある声を放ち、半眼でこちらを睨みつけてくる。


「これにはきちんと訳がある。それより、急に尋ねて来て何なんだ」


 傘の話題をこれ以上引っ張りたくない俺は強引に話を進めた。ルー・シュバルツェネガーのにやついた顔も気に障る。


「ふふ……。突然押し掛けてしまってごめんなさいね。でも、特に用事という訳でもありませんの」


 俺の問いに答えたのは、ルー・シュバルツェネガーの背後に控えていた金髪、アリサ・フェアフィールドだった。


 ドレスのような純白のワンピースを身に纏い、手には相反する黒色の傘を握っている。


 直接の自己紹介を受けたわけではないけれど、イヴから知っておくべきキーパーソンとしてプロフィールくらいは把握している。女王蜂という彼女の二つ名さえ知らなければ、お姫様という印象が頭から離れることはなかっただろう。


「用事がないのにわざわざ訪ねてきたのか?」


「お会いするのに、理由が必要かしら?」


 微笑む女王蜂の顔からは、何かを企んでいるような気配がしないでもない。


 俺の考え過ぎだろうか?


「不流飛鳥たちも、特に用事があるというわけではないのですか?」


 女王蜂の隣に並んでいた不流、そして、その護衛である轟凛音に向けて、イヴが質問を投げかける。


「は、はい……。私たちはルーさんに誘われて……」


 昨晩と同様、ショートデニムにパーカー、足元はスニーカーという格好である不流は、雨音に掻き消されてしまいそうな声で言った。


「は、話は変わるんですけど……ど、どうしてお二人は、その、同じ傘に入っているんですか……?」


 最悪だ。ここでこの話題に戻るのか。


 ルー・シュバルツェネガーといい、不流といい、どちらも俺とイヴの関係を勘違いしているのではないだろうか。


 まあ、確かに。


 今の俺はイヴに対して特別な――いや、そうではなく。


「あのな、不流。これは」


 何故か赤面しながら問いかけてきた不流に、俺が言葉を返そうとした時である。


「諦めなさい、不流飛鳥。どう見ても普通の距離感ではないでしょ、こいつら。まあ、惚れ込む前で良かったと、前向きに捉えるべきね」


 意地の悪い笑みを浮かべたルー・シュバルツェネガーが、するりと不要な口を挟んできた。


 まったく、どうして話がややこしくなるような言い方を……。


「ル、ルーさん!? ど、どうしてそういう事を言うんですか!」


 言葉にいち早く反応した不流はさっとルー・シュバルツェネガーの体に跳び着き、お喋りなその口をもの凄い勢いで塞ぎきった。


「んんっ!」


 苦しそうにもがくルー・シュバルツェネガーを見て、口は災いの元、という諺を思い浮かべている俺がいた。


 二人は傘を差しているにも関わらず、暴れているせいでどんどんその身を濡らしていく。何をやっているのやら、と苦笑せざるを得ない光景だ。


「ああ……あの、神楽さん?」


「ん? どうした?」


「い、今のは違いますからね? 私が神楽さんを好きとか、そ、その……」


「わかってるから、そう気にするな」


「……ああ、その返しも違う……」


「え?」


「い、いえ……なんでもありません。あ、浅い傷で済みそうなので、ご、ご心配なく……」


 不流はそう言うと、全身から力が抜けたように急に項垂れてしまった。


 大丈夫か?


「……とりあえず、ルー・シュバルツェネガーの口から手をどけてやれ。そろそろ死ぬぞ?」


「あっ……」


 不流が慌てて身を引くと、


「……うう……馬鹿不流……」


 呼吸を許されたルー・シュバルツェネガーが涙目になりながら呟いた。思わず噴き出してしまいそうな姿であるが、ここはこれ以上の騒ぎを招かぬよう顔を伏せて耐えておいた。


 しかし、下手なのに押しが強い不流と、強気なのに打たれ弱いルーシュバルツェネガーのこの二人、どことなく相性が良いのではないだろうか。


「神楽、笑ったらだめだよ?」


 既に笑いを堪えるのが限界だという顔の轟凛音が、落ち着きを取り戻しつつある俺にそんな言葉を掛けてくる。だが、そんな言葉とは裏腹に、轟凛音の眠たそうな眼は随分と楽しそうな曲線を描いている。


「おい、お前。説得力が無さ過ぎる」


「あははっ! だって、あのルー・シュバルツェネガーのこんな顔が見られるなんて思ってもみなかったんだもの!」


 もはや我慢しようともせずに笑い出す轟凛音。


 冷静沈着という第一印象が、あっという間に崩壊していく。


「ちょっと! それ以上は本当に怒るわよ!?」


「あらあら。もっと恥ずかしい姿を見せるおつもりですの、ルー?」


「アリサまで!?」


「あははっ! 面白いなあ、ルー・シュバルツェネガー」


 何とも和やかな雰囲気ではあるけれど、この面々で笑顔を見せ合う時が来るなんて誰が予想しただろう。


「あの……あなた達は本当に、ここに何をしに来たのですか?」


 半ば呆れ顔のイヴが口を開く。


「用事もなくここまでいらしたのですか?」


「ああ、それね。さっき飛鳥も言ったけど、私たちはルー・シュバルツェネガーに呼ばれてきただけだから。特に用事があるわけじゃあないんだよ」


 用事が無いのならわざわざ呼び出さないで欲しかった。


 轟凛音の言葉にそんなことを思ってしまったわけだけれど、実際、こちらには予定があるのだ。俺としてはすぐにでも病院に向かいたい。


「ああ、でも、ルー・シュバルツェネガーたちは、神楽に訊いておきたい事があるらしいよ? まあ、それも用事というほどでもないみたいだったけど」


 羽織っている赤のライダースジャケットを整えながら、轟凛音がこちらの方へと向き直る。


「訊きたいこと? 何だよ?」


「それは兵器情報のことですわ」


 俺の疑問符にはまたしても女王蜂が反応した。


「昨晩はルーに手ひどくやられていましたが、神楽盃? このままでは、秋山獅道や霧島一矢にも遅れを取ってしまいますわよ?」


 女王蜂の鋭い眼光に、一瞬身が竦む。


「……まあ、確かに俺の能力は、長時間の戦闘には向かない。どちらかと言えば、短期決戦型の能力だろう。でも、それで十分なんだよ。相手を説得するための、ほんの少しの時間稼ぎができればそれでいい」


 殺し合いなんてしないのだから。


 俺は誰も殺さない。これは絶対だ。


「まだそんなこと言ってるの?」


 ルー・シュバルツェネガーが口を開く。


 僅かな、しかし、確かな怒気を込めて。


「あの二人はね、あんたの意見を取り合うつもりなんて微塵もないのよ? そこにあんたがのこのこと出て行ったって、格好の餌食になるだけじゃない。いい? 理想だけでは終わらないのよ、この戦いは」


 確か、秋山獅道にも同じことを言われたな。


 理想だけでは終わらない、と。


 果たして、俺の描く思考は理想論なのだろうか。俺が言っていることは、そんなに難しいことなのだろうか。


 理想とは願っても叶わない、祈っても届かない、行動しても尚遠い、それこそ夢のような絵空事を言うのではないだろうか。


 理想という言葉の果てしなさを思えば思うほど、俺の考えていることは実現可能な事のように思えてくる。


 人は不可能を想像したりはしない。逆説的ではあるけれど、人が思い付く限りのことは、実現可能なのである。


 空を飛ぶという理想も。


 宇宙に行くという理想も。


 今では立派な現実だ。理想なんて、現実の果てにあるものだろう?


「俺は――」


「難しいことではありません」


 俺と同時に口を開いたのは、隣に立つイヴだった。


「そんなに難しいことではありませんよ。信じれば、何事も必ず成し遂げられる。皆が望めば、その結末は描けます」


 イブの言葉に、一同は沈黙する。


 イヴの気迫ある表情に、ここでこれ以上の口論をするのは野暮だと思わされたのではないだろうか。


「……ふん。好きにしなさいよ」


 ルー・シュバルツェネガーは唇を尖らせながら言った。


 納得はしていないが、そうであって欲しいという風には見て取れる。


「でも、それで死なれるのは後味が悪いから、いいことを教えといてあげる。イヴ・キッドマン、護衛であるあんたも知らない、神楽盃の情報よ」


「……盃の? 何なのですか?」


 ルー・シュバルツェネガーの言葉を、イブは食い入るような顔で聞いている。


 俺もその言葉に耳を傾けた。


「私もアリサから聞いたことだから。アリサ……、私に教えてくれたこと、こいつらにも教えてあげてよ」


「ふふ……。ルーがそう言うのなら」


 目を細める女王蜂。


 このお人好し、とでも言いたげなその顔は、ルー・シュバルツェネガーに深い愛情を抱いていることを存分に感じさせるものだった。決して俺やイヴのために口を開くのではないというのがひしひしと伝わってくる。


「いいですか、神楽盃。あなたの兵器情報は、情報化された物質の創造と破壊を基礎理論とした、最も扱いの難しい能力です。それ故に能力使用時の脳への負担も、生半可なものではありません」


 優雅な微笑を崩さぬまま、女王蜂はゆったりとした口調で語る。


「ですが、二十年後の時間座標のあなたは、その負担を意に介することなく、たった一晩で、五角の各戦力を無に帰した……さて、ここで一つ、疑問に思いませんか?」


 この場にいる全員が全員、女王蜂の問題提起に眉根を寄せた。


 しかし、ただ一人。


 轟凛音だけがそっと声を発する。


「……ああ。なるほど」


「気付きましたの? 轟凛音」


「うん。それだけの能力使用をした未来の神楽が、イヴをこの時間座標に転送できているというのが不思議だよね。普通ならまず死んでいるような能力展開をしているわけでしょう?」


「なるほど、確かに……」


 イブはそう呟きながら、眉間の皺をさらに深くさせていく。


 しかし、どうしてイヴがこの問題提起に頭を悩ませているのだろうか。


 イヴは当事者のはずだろう?


「なあ、イヴ。こいつに言われるまで、お前はそのことに何も疑問を抱かなかったのか?」


 俺が尋ねると、


「二十年後のあなたは、多くを話してはくれませんでしたから。五角の戦力を総崩しにしたというのも、全て事後報告でしたし……」


 未来の俺が原因だと判明した。


 どうやら二十年後の俺は、本当にイブを蚊帳の外に置いていたらしい。自分で聞いてやるせなくなってしまう。


「まあ、神楽が護衛を戦わせなかったのは有名だしね。知らない事の方が多いんじゃないのかな?」


「そうですね……」


 轟凛音の言葉に、イヴは顔を曇らせる。


 そんなに落ち込むようなことではないように思うのだけれど、二十年後の俺がした事とは言え、やはり同一人物であるのだから、何とも声を掛けづらい。


「轟凛音の言う通り、イヴ・キッドマンが何も知らないのは無理もないことですの。実際に神楽盃の力と対峙した私たちでないと、この疑問には辿り着けませんわ」


「確かにそうだね。私もあの時は混乱しちゃって、そこまで考える余裕は無かったし」


 轟凛音はそう言って、垂れた目尻を苦笑に変えた。


 この飄々とした轟凛音でさえも、そこまで混乱した出来事だったのかと、まるで他人事のような感想しか出てこない。


「しかし、実際はどういうことなんだ? 二十年後の俺は、五角の全員を相手取った後に、こうしてイヴをこの時間座標に転送しているんだろう?」


「か、神楽さん、能力を使った後は、とても辛そうでしたもんね……」


 昨晩の俺の様子を知っている不流が、心配そうに俺を見る。


 今更そんなに心配しなくてもいいのにと思うけれど、他人の目から見ても、それだけの負荷が掛かっていたということなのだろう。


 話を聞く限りだと、未来の俺は脳が焼き切れていてもおかしくないほどの事をしたらしいし……。


 結論を待っていた俺たちに、女王蜂は言った。


「つまり、神楽盃にはもう一つの能力があったということですわ」


「そんなっ……」


 誰よりも先に、イブが驚嘆の声を漏らす。


「あり得ません! 盃の演算能力は、情報の創造と破壊、それだけでキャパシティを限界まで満たしているはずです!」


「まあ聞きなさいって。簡単な話よ」


 動揺しているイヴに、ルー・シュバルツェネガーが落ち着き払った声を掛ける。


「兵器情報には適正がある。足し算しかできないような小学生に、高等数学を教えても意味が無いのと同じで、それぞれの脳に見合った兵器情報を扱わなければならない。拳銃を展開させるのがやっとの奴に、神楽盃のような能力は使用できないでしょ? この話は、その逆なのよ」


 適正。


 これもイヴから聞いた話しだ。


 個人それぞれの脳に、相応しい情報量の兵器を組み込むのだと。それが兵器情報なのだと。


「しかし、逆ってどういう意味だよ……」


 俺が質問を投げかけると、ルー・シュバルツェネガーは慣れたように教鞭を振るう。


 元々がこういう口調なのかもしれないが。


「そのまんまの意味よ。高等数学ができる人間なら、足し算ができない訳が無い。神楽盃ほどの能力が使用できるのに、拳銃一つ展開できない訳が無い。あんたのもう一つの能力っていうのは、今あんたが使っている能力の下位に存在する、おまけみたいなものなのよ」


 言いたいことのおおよそはわかる。だが、それが全てだと言われると何とも。


「あ、あの……いまいちわからないのですが……」


 不流がおずおずとした様子で尋ねる。自分だけが状況を飲み込めていないのではないかと、不安に思っているような顔だ。


 しかし、それは全員が同じであり、皆、ルー・シュバルツェネガーが言っていることを整理しきれてはいない。


「もう、まだわからないの? いい? 高度な問題を解こうとすれば頭を使うし、その分脳みそも疲れてしまうでしょ? でも、簡単な問題を解くだけなら、片手間程度でできるじゃない。神楽盃のもう一つの能力も、その類だって言いたいの。脳に負担を掛けない程度の能力が発生してる訳よ、あんたには」


「……つまり、俺のもともとの能力が高い分、隠れている他の能力使用に負担を感じていないと、そういうわけか?」


「そういうわけよ。負担が無いからあんたも自覚できてないの」


 なるほど。俺の解釈で間違っていないことはわかった。けれど――


「それってどんな能力なの?」


 口を開こうとしたところで、轟凛音が俺の質問を代弁した。


「それはですね」


 女王蜂が含みのある笑みを浮かべながら発したのは、


「――――――――――――――――――――――――」


 一同がまたもや沈黙を生み出してしまうような一言だった。


 俺自身、そしてイヴでさえも知らなかった能力というものが、あまりに理不尽なものだったことに、誰も言葉を見つけ出せないでいる。


「そんな能力があるなら……神楽がこの戦争に負けるなんてこと、あり得る?」


 数瞬の間を置いて放たれた轟凛音の言葉は、それはもう、至極まっとうなと言えるだっただろう。


 確かにそんな力があるのなら、俺はこの戦争で誰かに敗北を喫することは無い。


「驚いていますわね、イヴ・キッドマン」


「あ、当たり前です……。簡単に信じられることではありません」


「根拠があるわけではありませんけれど、核心を突いた推測ではあるはずです。実際に、私たちの陣営が一番に神楽盃を狙ったのも、この能力が覚醒する前でないと、彼を討ち取ることができないと思ってのことですの」


 女王蜂との問答の末に、黙り込んでしまうイヴ。


「か、覚醒する前っていうのは、どういうことです……?」


「神楽盃の兵器情報が定着していない間は、その能力も発動しないってこと。そう、昨晩まで、とかね。でも今は、兵器情報をインストールしてから結構な時間が経過しているから、神楽盃の兵器情報も安定してきただろうし、そろそろ隠れた能力も覚醒してるんじゃないかと思うのよ」


 不流の問いに、ルー・シュバルツェネガーは舌を噛みそうな早口で答えていく。


 しかし、ルー・シュバルツェネガーたちの言っていることが事実かどうかはともかく、俺たちにとって有益となるような情報を、どうしてこうも簡単に話してくれるのだろうか。


 俺はそれが不思議でならなかった。


「ま、今ここにいる陣営には、そう簡単に死んで欲しくないしね。これくらいの情報提供ならお安い御用よ」


 ルー・シュバルツェネガーは得意顔で胸を張る。


 この言葉、こいつなりに俺たちに心を開いてくれていると、そういう風に受け取ってもいいのだろうか。


 だとしたら、可愛らしい一面もあるものだ。


 ルー・シュバルツェネガー以外の全員も俺と同じようなことを考えているらしく、それぞれから彼女に向けられる視線は、どこか慈愛に満ちたものだった。


「……ん? 何よ。どうしてみんなそんな小動物を見るような目で見てくるのよ? 何? 本当に何? ちょっと気持ち悪いんだけど……」


 ルー・シュバルツェネガーだけがきょろきょろと首を振る。


「その情報の真偽はともかくとして、あなたの御心遣いには感謝します」


「なんだ……可愛いなあ、ルー・シュバルツェネガー」


「す、素直じゃないだけだったんですね」


「ふふ。やはりお人好しですわね、ルーは」


 イヴは微笑みながら。


 轟凛音は目を潤わせながら。


 そして不流はくすくすと。


 皆どこかからかうような声音で言った。女王蜂だけはその様子を満足そうに見つめている。


 突然の訪問で驚きはしたけれど、こうして話が出来たのは良かった。


 そう思えるだけの関係が出来たのだ。


「まあ、お前たちの言ってくれたことは胸に留めておくよ。ありがとう」


「……ふん。さっきも言ったけど、好きにしなさいよね。もう十分話したし、そろそろ行くわ」


 皆から含みのある目を向けられたからなのか、不機嫌そうなルー・シュバルツェネガーはそう言って、くるりと体の向きを変えた。


 煌びやかな銀髪と、身に着けていた紺色のコート、そして赤いチェック柄のスカートが、その動きに続けて揺れる。


 中でも耳元の十字架を模したピアスは、この曇天の中でも一際輝いて見えた。


「では、またお会いできる機会まで」


 お嬢様然とした女王蜂は、歩き出したルー・シュバルツェネガーの後ろに続く。


「じゃあ、私たちも行こうか、飛鳥」


「そ、そうだね。では、また……」


 不流と轟凛音の二人もそう言って目を見合わせる。


「じゃあ、気を付けて帰れよ」


 俺とイヴのは手を振りながら、ルー・シュバルツェネガーたちと同じ方向に去っていく二人を見送り、そしてすぐに、もともとの目的地である方角に体を向けた。


「なんだか、騒がしい一時でしたね」


 息をつくようにイヴが言う。


「そうだな。でも、さっきの話どう思う?」


「もう一つの能力のことですか?」


「ああ。俺自身に実感が無いから、いまいち信じられなくて」


「まあ、本当にそのような能力があったとしても、そこに頼るべきではないでしょうね。盃の場合、それなら無茶もできそうだと言って、とんでもないことをしでかしそうですから」


「何だか信用が無いなあ、俺……」


「ふふ。そう言う訳ではありませんよ。ただ少し、心配なだけです」


「ふうん……」


 病院へと向かって歩きながら、俺たちはそんな会話を続けた。


 雨の勢いは一向に収まらない。このままでは警報が発令されるのも時間の問題だろう。


 地面には洪水のような浅い川が出来上がっており、靴は浸水のせいでびしょ濡れである。しかし、足元は酷く濡れているけれど、上半身は全く雨の被害を受けていない。イヴの差してくれている大きな傘が、しっかりと俺たちの体を包み込んでいるのだ。


 俺は隣を歩くイヴの横顔に目を流す。


 整った輪郭線の中に映える白と、透き通った瞳の青が、雨雲に作り出された灰色の世界に見事な色彩を加えている。


 これから雫に会うことを考えると緊張の少しもしてしまうのだけれど、やっぱり――


「どうしました、盃。私の顔なんかをじっと見て」


「いや、雨も悪くないもんだなと思って」


「……はい?」


 あれは一昨日だったか、一人重たい気分で歩いた桜並木までやって来た。


 ここを抜ければ病院はすぐそこ。


 コンクリートに散った桜を眺めながら、俺たち二人は歩を進めていく。


「……さて、ここからは別行動です」


 病院の玄関前に辿り着いたところで、イヴが徐に口を開いた。


「万一の時にはすぐに駆けつけられるようにしておきますから、心おきなく妹さんと話してきてください」


「……何度も言うようだけれど、本当にありがとうな、イヴ」


 イヴが笑顔でそう言ってくれることに、ここは甘えさせてもらおう。今日こそは、雫に俺の想いを伝えると決めたのだから。


 まあ、告白みたいなことを考えてしまっているけれど、実際はそういうわけでもあるまいし、ここまで気負う必要はないのかもしれないが。


「ふふ、だからお礼など要りませんよ。では、また後ほど」


 イヴは素早く傘を畳むと、病院の裏口の方へと向かってすたすたと歩き出してしまう。


 俺はそのダークスーツの後ろ姿が見えなくなったところで玄関をくぐり、見慣れたロビーの中に入った。


 さて、ここからは一人である。


 フロントで顔見しりの看護師さんに挨拶をしたり、面会の手続きをしたりといった事を済ませ、雫の病室へと向かう。


 先に北条先生に挨拶をしに行くべきかとも思ったが、いつもは北条先生の方から俺を見つけて声を掛けてくる。それを考えると今日は忙しいのかもしれないな、と思い、俺はその場で止めかけていた足を再度動かし、エレベーターに乗り込むことにした。


 エレベーターの中は本当に稼働中なのかと疑いたくなるほどに静かだった。

 雫と何から話そうか、とか。


 雫は十年前のことをどれくらい覚えているのだろうか、とか。


 妙な静けさが余計な思考に拍車を掛けてくるのだけれど、俺がそれを整理する間もなく、エレベーターは雫の病室のある階へと到着してしまう。


 エレベーターから足を踏み出すと、真っ白な廊下には俺の足音だけが響き始める。


 同時に、緊張が加速していくのを感じる。


 ここまでくれば、あとは勢いに任せればよいのではないだろうか?


 きっと大丈夫。


 何とかなる。


 半ば開き直りのような心境のまま、俺は足を進めた。


 そのまま誰もいない廊下を歩き、そしていよいよ、雫の病室が目の前にまで迫ってきた時、


「一昨日のこと、まだ後悔しているのかな?」


 雫の病室から、北条の先生の声が聞こえてきた。


「別に。そういうわけじゃないもん」


 もう一つ聞こえてくる声は……雫?


「素直になれない女の子というものはひどく愛くるしいけど、雫ちゃん? 私の前でツンツンデレデレしていても、何ら芽生えるものは無いんだよ?」


 相変わらず訳のわからないことを堂々と言っているのは北条先生でまず間違いない、として。


 相手は本当に雫なのだろうか。


 俺と話している時とは比べ物にならないほど声に覇気がある。


 俺は病室の前にまで歩み寄り、扉に背を預けるようにして立ち止まった。


 そのまま病室に入ってしまえばいいものを、とは思うけれど、しかし、北条先生と雫とが会話をしている場面に遭遇したのは初めてのことだったのだ。


 正直、どうしていいかわからない。


「私はいつだって素直だよ。一昨日のことだって、本当に後悔してないし……」


「そうかなあ? 盃くんが昨日一日来なかっただけで、随分とやつれてしまったように感じるけど?」


 二人の会話は転がり続ける。


 どうも雫は、俺には絶対に見せないような一面で北条先生に接しているらしい。


 このまま二人の会話を聞いていたいという気持ちはあるけれど、しかしそれは、あまりに悪趣味のような気がする。だからと言って今病室に入っていくというのも、何とも間が悪い。


「お兄ちゃんは忙しいの。私に会いに来れなくてもしょうがないことだし、それに……寂しくもない。私がお兄ちゃんに会えなかったくらいでやつれるとか、冗談でも笑えないんだから」


 雫の発した言葉に、俺ははっとする。


 雫のやつ……、俺のことをお兄ちゃんと言ったのか?


「まあ、今日もまだ来ていないし、本当に忙しいのかもしれないね、盃くん。だけど、二日連続で来なかったことは、これまでにあったかな?」


「……なかった、かも」


 雫の落ち込んでいるような声を背に受けながらも、足が木の根のように床に貼り着いて、一歩も動くことができない。


 今すぐ病室の中に入って、会いに来ていることを伝えたいのだけれど、本当にどうしてか、足が全く動いてくれない。


 雫が俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれていることに、動揺してしまったのだろうか。


 いつもは俺のことをばか兄と呼んでいる雫が、お兄ちゃん、と。昔と変わらない呼び名で呼んでくれていることに、動揺してしまっているのだろうか。


 違う。きっと俺は今、嬉しいんだ。


 そして同時に、病室に入ってしまえばまたばか兄と呼ばれてしまうのではないかと、恐怖している。


 いや、俺の顔を見れば、雫はまたばか兄と呼んでくるに違いない。


 なら、それなら……。


 今だけはお前のその懐かしい呼び方に、耳を澄ませていてもいいだろう?


「でも、私が言うのもなんだけどさ……お兄ちゃん、本当によく会いに来てくれるよね」


「ふふ。君は、それが何より嬉しいのだろう?」


「……まあ、うん」


 何かが、目元から頬へと伝っていく。


 俺の視界が、雫で埋もれていく。


「私がどんなに悪態ついても、笑顔で話し掛けてきてくれるんだよ? ほんと馬鹿みたい……」


「そうだね。彼は馬鹿みたいに優しい」


「私が窓の方に顔を逸らしても、お兄ちゃんは私から目を離そうとしないんだよ? ほんとに、本当に……」


「そうだね。本当に本当に、いいお兄ちゃんだね」


 雫は今にも泣き出してしまいそうな声で、北条先生に言葉を重ねる。


 北条先生は木霊のように、ただ淡々と、雫に柔らかな声を返す。


 外では轟音を鳴り響かせるほどの雨が降っているというのに、二人のもの静かなやり取りは、まるで誰もいない森の中でのやり取りのように耳に入ってきてしまう。


「北条先生、いつからかなあ……私がお兄ちゃんと、顔を見て話せなくなったのは……」


「ふふ。君たちは、心では通じ合っていると思うよ?」


「……そうなのかなあ。私がお兄ちゃんを突き離したのは、お兄ちゃんと距離を取りたかったわけじゃないのに……どうしてこうなっちゃったんだろ……わかんないよ……」


 雫のすすり泣く声がした。


 俺の涙も、雨のように勢いを増していく。


 本当にいつからだろう。俺と雫はいつから、互いの目を見ることができなくなってしまったのだろう。


 厚くもない扉一枚を挟んで、俺と雫は今、同時に涙を流しているというのに。どうしてこれまで、同じ思いをぶつけることができなかったのだろう。


 たったの一言が伝えられなくて。


 ほんの少し歩み寄ることができなくて。


 器用に人を傷つける術を持たない俺たちは、不器用に互いを傷つけながら距離を保ってきた。


 今、自然と頭に思い浮かんできたのは、過去の愚かな自分の姿だ。


 どうしようもなく醜悪で、酷く愚かな自分の姿。


 昔の俺は何か嬉しいことがあるとその反面、心に陰りが増していくような、そんな気分になってしまうことがしょっちゅうあった。


 何か楽しいことや良いこと、一まとめに言って、我が身にふりかかる幸福というものに対し、俺は手放しで喜ぶことができなかったのである。


 その気持ちはどこからやってくるのか?


 俺は知っていた。


 はっきりとわかっていた。


 誰にも言いたくない、己の最も醜い部分なのだけれど、包み隠せるようなものでもない。


 心はいつだって正直だ。


 自身の幸福を感じるとき、比例するように俺の精神の中に広がっていくもの――それは、雫に対する罪悪感だった。


 雫が苦しんでいるのに、俺は何を笑っているのだろう。


 雫が一人で過ごしているのに、俺はどうして友人たちといるのだろう。


 雫に会いたいという一心で病室に足を運んでいたはずの俺は、いつしか雫に会いに行かなければならないと、半ば義務的な意識に支配されていった。


 俺一人が幸福になることは許されない、雫の近くにいなくてはならない。


 そんな意識だけが、膨らみ続けていく毎日。


 自身が如何に低俗で最悪な人間かを思い知りながら、俺は幸福だと思える事象に出会う度、そんな罪悪感に押しつぶされそうになっていったのだった。


 本当にばか兄である。馬鹿な兄である。


 頭で考えればわかることなのに。電卓が簡単に答えを導き出すように、結論はいつだって目に見えていた。


 雫が俺の幸福を望んでいるという、絶対の結論。


 雫はいつだって、俺に笑顔でいて欲しいと、そう言ってくれていたのだ。


 しかし、雫のその言葉は、俺の罪悪感を一掃するどころか、濁りのように、俺の心の奥底に沈殿を作り始めた。


 開き直って馬鹿みたいに全てを楽しんでやろうとしたこともある。


 でも、やっぱり駄目だった。


 どんなに楽しいと思う場面でも、雫の寂しそうな顔が、ふと目に浮かんでくるのだ。


 さしずめあの頃の俺は、本当に気がやられていたか、何かに憑かれてしまっていたに違いない。


 だから俺は結局、病室へと走ったんだ。


 毎日、毎日、雫の待つ病室へと。


 けれどそんな奴に、誰が会いに来て欲しいと思うだろうか。


 俺は知らず知らずのうちに、雫のことを、勝手に不幸だと決めつけていた。


 同情とも呼べる愚かな傲慢に支配された俺が、雫に何を与えてやれると言うのだ。


 取り繕うような会話では、退屈すら晴らしてやることはできない。


 そうした日々の中で俺が雫に押しつけてしまっていたのは、俺が抱いていたものと同じ――罪悪感だった。


 雫から言われたことがある。


 お兄ちゃん、無理して私に会いに来なくてもいいんだからね? 自分のための時間まで、私に使っちゃダメだよ?


 この言葉を聞いた日の夜、俺は部屋で一人、血が流れ出るほどに唇を噛みしめながら泣いた。


 泣いたのはあれ以来かな。


 本当に、あの時の俺ときたら反吐が出る。


 情けなかった。


 醜かった。


 愚かだった。 


 あの時ほど、自身の浅はかさを呪ったことはない。


 俺の醜い心から溶け出した罪悪感が、雫にさらなる罪悪感を与えていただなんて、もう本当、どう言葉にすればいいのかもわからない。


 しかし、決して偽善ではなかったのだ。これは誓って言える。


 俺は雫に毎日でも会いに行きたかったし、雫の笑顔が俺の糧だった。


 けれど、そこに生じた己の幸福に対する罪悪感は、いつしか俺だけでなく、雫までをも苦しめる呪縛となっていたのだ。


 まったく、これほどの皮肉なら、もはや笑い話にしてもらった方がましである。


 それに気付いて初めて、俺は自身の幸福と向き合えるようになった。俺はたくさんの幸福に出会いたいと願うようになり、そしてたくさんの幸福を雫と分かち合いたいと思えるようになった。


 実際、それが全てなのではないだろうか。


 現に、雫は俺の幸福を心から喜んでくれた。


 俺が出会った小さな幸せを話してやると、雫は心から笑い、静かに耳を傾けてくれた。


 お兄ちゃんの話を聞いてると、早く退院していろんなことしたいなって思うの。お兄ちゃんの話だけでも面白いんだから、世界はきっと、もっと面白いんだよね?


 幸せそうに微笑み、そう言った雫の顔は今でも忘れられない。


 世界ってすごい。幸せに満ち溢れてるんだね。


 この言葉もだ。


 世間を何も知らない女の子の戯言だと笑えるか?


 笑える奴がいるのなら、俺はそいつに、その時の雫の顔を見せてやりたい。そう言っていた雫は、本当に誰よりも幸せそうだったのだから。


 雫には雫の思う幸せがある。


 俺はそれに気が付いたことで、俺自身の幸せの形も変わってきているのだと、遅ればせながらに感じ始めていた。


 しかし俺は、自身の変化を確かに感じながらも、運命というものに対してだけは、憤りを忘れられないでいたのだ。


 憤りというよりは憎悪に近い。


 どうして全てがうまくいってくれないのだろうかという、己の非力さを棚上げにした、運命に対する憎悪。


 何故両親は死んだ?


 何故雫は病気になった?


 少し前までの俺は、そんなことを悶々と考え続けていた。


 それは表情に出さずとも、自然と伝わってしまうものである。


 思えば、雫は俺によくこんなことを尋ねてきていた。


 何かに怒っているの?


 何か不安なの?


 私といるのがつまらないの?


 俺は首を横に振り続けた。けれど、拭いきれなかった俺の醜い部分は、雫にはっきりと見透かされていたのである。


 だから雫は、俺を突き離した。


 自分といると、俺がいつまでも不幸だから。


 そんなことを、言わせてしまったっけな。


「……雫ちゃん。君は大切な人の幸せを願って、自らその人を突き離したんだね。うんうん。まるで昼ドラだ。私はそういうのが大好きだけど、しかし君にとっては、それは辛く、大変勇気のいる決断だっただろう」


 しばらくの沈黙を守っていた病室から、再び声がする。

北条先生の、諭すような声。


「でもね、その勇気は蛮勇と呼ぶべきものだろうね」


「……ばん……ゆう?」


「そう、蛮勇。知っているかな? 蛮勇という言葉の意味を」


 俺は相変わらず扉に背を着けたまま、聞こえてくる言葉に耳を傾けた。


「蛮勇というのはね、一般的に、向こう見ずな勇気のことを言うんだよ。事の理非や是非を考えずに発揮する勇気。どうだい? あまり褒められたことではないだろう? まあ、このような場面で使う言葉でもないけどね」


「………………」


「君は盃くんの幸せを願って彼を突き離した。けど、それで彼は幸せになったかな?」


「………………」


「言ってごらんよ、君の幸せを。きっとそれが、彼の幸せでもある」


「………………」


 沈黙の中、僅かに空気を吸い込む音がする。


「北条先生……私は……」


 嗚咽を堪えているかのような声で。


 しかし、力強い意志を感じさせる声で、雫は言った。


「私は、お兄ちゃんさえいてくれれば、それで良かった。」


 雫は続ける。


「お父さんとお母さんが死んじゃった後も、お兄ちゃんがいてくれたから、私は生きようと思えた」


 そして、


「先生、私ね……本当はお兄ちゃんが大好きなの……もっと、もっと一緒にいたいよ……」


 そう漏らしたのだ。


「そうだろう。それが君たちの幸せだ」


 もう一度だけ問おう。


 雫を病室から出ることのできない体にした、この運命を憎めるか?


 この世界の不条理を憎むか?


 憎むべきは、これまで大切なものに気付けていなかった、自身の醜い心だろう。


 今、やっと今、俺は気付くことができたのだ。雫の精一杯の声によって。


 この世界には大切なものが溢れている。


 それに気付き、大切な人と分かち合うことが出来れば、それでいいのではないだろうか。そう思うことができるのなら、俺と雫はこれから、本当の意味での幸せを分かち合えるようになるはずだ。


 我ながら自己完結的で勝手な考えだとは思うけれど、なあ雫、負の感情を与え合うことよりも、喜びを分かち合える方が幸せだろう?


 俺だってお前と一緒にいたいよ……。


「雫ちゃんが素直になれたところで、私は仕事に戻るとしようかな」


 北条先生のその一言で、俺はそっと扉から離れた。しかし、隠れる場所がない。


「さあ、涙を拭いて。君の美貌と哀愁を混ぜ合わせると、危険なことになるからね。それはもう、可愛過ぎて反則だ」


「……北条先生が言うと嫌みにしか聞こえない。自分がかなりの美人だからそうやって言えるんだよ」


「いやいや、そんなことはない。私はいつも、君のことを羨ましく思っているよ? そのスレンダーな体とか」


「胸が無いって言いたいんでしょっ!」


「ふふ。さすがは盃くんの妹だ。私に対して容赦がない。じゃあ、また次の検診の時に来るからね」


「……はい」


 そうこうしている間に、北条先生の足音がこちらに迫ってくる。


 きっと今の俺は目も腫れているし、何より二人の会話を盗み聞きしていたことがばれたら――


「悟ったような顔をして、どうしたんだい?」


 扉から出てきた北条先生が、俺にしか聞こえないような小声で尋ねてきた。


「………………」


 やはり最初から盗み聞きなどするべきではなかったな、と思い切り後悔した瞬間である。


 雫に見つかってしまったのではないかと思い、一瞬冷やりともしたけれど、きっと雫のいる場所からでは、北条先生の後ろ姿が壁となり、こちらまで見ることはできないだろう。


 北条先生は後ろ手で扉を閉め、俺の目を見つめる。


「……い、いえ。身に余る幸福を、噛みしめていただけです」


「やれやれ。何を言っているんだ。身に余る幸福なんてない。その身に相応しい幸福しか訪れないものだよ」


 北条先生は俺の言葉に対し、嘆息混じりの声で言う。


「その身に相応しい幸福、ですか?」


「そうだよ。今君の感じている幸福は、君たち兄妹にこそ相応しいものではないのかい? 君たちはその幸福を得るに相応しい生き方をしてきたんだ。そこに謙遜はいらない。その幸福を受け止め、二度と離さぬように生きていけばいいじゃないか」


 北条先生は高貴な笑みを浮かべてそう言うと、静かに俺の横を過ぎ去ろうとする。 


「あの……、北条先生」


 俺はその背中を呼び止めた。


「俺がここにいるの、知っていたんですか?」


「……ふふ。さあね」


 振り向きもせずにそれだけ告げて、北条先生は止めていた足を再度、ゆっくりと動かし始める。


 やっぱりあの人は何枚も上手だ、と思わされた。


 俺は白衣の後ろ姿が小さくなっていくのを見つめながら、今の北条先生の言葉を、頭の中で反芻する。


 その身に相応しい幸福しか訪れない。その幸福を受け止め、二度と離さぬように生きていけばいい。


 まったく、その通りなのかもしれないな。


 まあもちろん、今感じている幸福を手放すつもりなど毛頭ないけれど。


 北条先生はそのまま廊下の奥へと進んでいき、俺の視界から姿を消す。


 俺は改めて病室の扉に目を向けた。


 雫のやつ、どんな顔をするのかな。まさか俺がここにいて、先ほどまでの会話を全て聞いていたとは思いつきもしないだろう。


 いつものように、俺の顔を見たらそっぽを向いてしまうだろうか。


 一体どんな反応が見られるのか、少しだけ楽しみだ。


 そんなことを考えながら。


 胸を高鳴らせながら。


 俺が病室の扉を開こうとした、その時である。


「……ん?」


 北条先生が歩き去った方とは反対側。廊下の奥からこちらへと向かってくる、ある人影が目に入った。


「イヴ?」


 どうしてイヴがここにいるのだろう?


 イヴは俺と雫が会っている間、どこかに身を隠すと言っていたはずなのに。


 幸い、今は俺とイヴの二人以外、この場所には誰もいない。


「どうしたんだ、イヴ。何かあったのか?」


 病室にいる雫に聞こえないように、俺は小さな声で問いかける。


 俺の目の前にまでやって来たイヴの顔は外の雨雲が乗り移ってきたのではないかと思うほど、ひどく沈んだものだった。


「……おい、本当にどうした? 顔色が悪いぞ」


「盃、お二人の時間を邪魔してしまい、申し訳ありません。実は」


 イヴは力無い目で俺を見上げ、ほとんど口を動かすことなく告げる。


「盃の自宅付近で、歪曲空間が展開されました。おそらく、ルー・シュバルツェネガーたちが、何者かの襲撃を受けたのではないかと」


「……え?」


 どうしてだろう。


 雨音が、誰かの叫び声のように聞こえた。

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