――序――
満開に咲き誇った桜の香りが、今日も微かに鼻孔をくすぐる。
目に映るのは桜の桃色と、鮮やかな木漏れ日の黄色。
暖色が溢れる光景に、思わず溜め息が零れる。一人で眺めるにはもったいない光景だが、しかし、昼下がりの桜並木に人の姿はなかった。
まだ三月だというのに、どの木にも春の息吹きが溢れ返っている。この生命力には、本当に感嘆を漏らさざるを得ない。
彩りの中を歩きながら、俺は一際綺麗に咲いている桜に目を向けた。
この光景を、あいつと一緒に見られたなら――と。
込み上げてくる嘆息を堪え、俺は一歩ずつ、病院へと足を進めていく。
自宅から病院までは徒歩で二十分程で、この桜並木を抜ければすぐそこにある。この辺りでは一番大きな病院であり、最先端医療をいち早く導入しているという、全国的にも有名な病院である。
その巨体の一部が見えてから間もなく、俺は広大な敷地内へと入る。
ここでいつも、世界の配色はがらりと一変するのだった。
病院の敷地内には緑を基調にした光景が広がり、まるで都会の喧騒を隔絶しているかのような空間が来訪者を出迎えてくれるのだ。
俺は広い敷地をさらに進み、玄関付近まで歩いたところで、喉を潤すために自動販売機の前で立ち止まった。
別に喉が渇いていなくとも、毎回のようにここで立ち止まる。もはや日課とも呼べる習慣だ。
ポケットからお金を取り出し、自動販売機に小銭を入れ――
「神楽盃くん」
――ようとしたところで、タイミングを見計らったように、背後から声を掛けられた。
「……ああ、北条先生。どうも」
振り向き、声の主に向かって会釈程度の礼をする。
「ふふ。毎度毎度、そう改まるなよ」
そう言って俺に微笑みかけてきたのは北条梓。
妹の担当医である。
白衣の立ち振る舞いがとても絵になっており、かっこいいと形容するべき女性医師だ。長い黒髪を高い位置に結わえており、白衣とポニーテールを揺らしながら歩く様にはいつも惚れ惚れさせられる。
「飲み物を買おうとしていたのかな?」
北条先生はにこやかな笑顔を携え、何やら喜色混じりの声で尋ねてくる。何かあるのかと思い、俺がはい、と答えると、北条先生は白衣のポケットに両手を突っ込み、丁度いい、と言いたげな顔をした。
「コーヒーでよければ、私が用意するよ?」
コーヒーのお誘いか。
しかしなあ……。
「いや、悪いですよ。先生もお忙しいでしょうし」
「ふふ。話し相手になってほしいんだよ。私も丁度休憩でね。それに、前にも言ったが、君と話すのは楽しみの一つでもあるんだ。さあ、ほらっ」
俺が次の句を発する前に、北条先生は俺の手を引いて行こうとする。少々というか、けっこう強引である。
「あ、ああ……。では、お言葉に甘えて」
「ふふ。ではついてきてくれ」
満足そうにしている北条先生は俺の腕から手を離すとくるりと踵を返し、病院の入口へと向かって歩き出す。俺もすぐに後を追い、その横に並んだ。
そこで北条先生は、そう言えば、と話し始める。
「君は何を飲もうとしていたのかな?」
一刻を争う場面が多い職業だからなのか、北条先生は女性にしては歩幅が大きく、歩くペースも速かった。男の俺が速いと感じるほどだ。
「コーヒーですよ? ブラックの」
「おお。本当に?」
前を向いたまま、北条先生は驚いたというような顔をする。
……ん?
「意外でしたか? 俺がコーヒーって」
「いや、他のものを飲もうとしていたのなら、誘ったのは悪かったかなあと思って」
ああ、なるほど。気を遣ってくれたのか。
「お気遣いなく。コーヒーは一番好きな飲み物ですから」
「ふむ……。しかし、君くらいの年齢の者が、コーヒーを好んで飲むという印象がないな」
「そうですか? 結構飲むものだと思いますよ?」
この春で大学を卒業した俺だけれど、コーヒーはお酒よりも愛飲している。ただ単に、アルコールの類が苦手というのが強い。
「ふふ。しかし、その年であの苦味がわかるとはね。君、なかなか苦労しているんじゃないのかい?」
これは子供扱いされている気がする。
「何ですか、それ。そんなことはないですよ」
「そうかい? まあ、若いうちはミルクコーヒーでもいいと思うけどなあ。砂糖たっぷりの」
「どうしてです?」
「大人になるとね、甘さが口に合わなくなるんだよ。口に残る甘みは――鼻につく」
大人になるとね、って……。やっぱり子供扱いされている。
「コーヒーで人生の縮図を語ろうとしないでくださいよ。俺にはわかりかねます」
いつもいつも、本当に面白いことを言う人だ。けれど、どこか捻くれている。
「ふふ。君にこそ伝えたいことだったのだけれどね」
「………………」
正直、全くわからない。北条先生の言うことは浅いようで深い気もするし、深いようで、ただ底がない――落ちがないような話であるようにも感じられる。
まあ、そこが面白いのだけれど。
押しては引く波のような思考を抱えながらに病院の正面玄関をくぐり抜けると、いかにも、というような病院らしい清潔感と、高級ホテルのような豪奢な雰囲気を併せ持ったロビーに辿り着く。まだ午前中だというのに多くの人でごった返しているその場の光景に、さすがは巨大病院だ、といつも感心させられる。
「ところで、北条先生」
「何だい?」
歩きながら、俺は先ほどまでの話を続けた。
「今の話ですが、それって、もっと甘えろってことですか? 若いうちに人の優しさ――甘みにふれておけ、と」
「ああ、その話か。まあ、そういうことだね。大人になってから優しくされると、みじめになるだけだから」
「………………」
そういうものなのだろうか。
いつからが大人なのかもわからないし、何が優しくされるということなのかもわからない。
ロビーを抜けて、通路脇のエレベーターに乗り込んだ。二十人は入れるであろう大きなエレベーターには、俺と北条先生の二人のみ。北条先生がボタンを押すと、プレス機のような扉が静かに閉じた。
「失礼を承知の上で言いますけど、卑屈になっているだけでは?」
本当に失礼なことを、俺は淡々と言ってみせた。
「……ふふ。君のそういうところ、好きだよ」
「………………」
ふっ、とエレベーターの扉が開く。北条先生が先に通路に出て、俺の前をかつかつと歩き始める。
しかしすぐに、数歩歩いたところで立ち止まる。
「さ、着いたよ。ここが私の個室だ」
病院には何度も足を運んでいるけれど、個室に案内されるのは初めてだった。通路に並んだ無機質な扉の一つを開き、北条先生は俺を中へと招き入れる。
「そこに座っていてくれ」
北条先生はその長い指でソファーを指差して言った後、部屋の奥へと姿を消した。おそらく、ここに来るまでに言っていたように、俺のためにコーヒーを用意してくれるのだろう。
北条先生に言われた通り、俺はソファーに腰を下ろして待つことにした。
しかし、どうにも落ち着かない。
就職活動中に何度も経験した事だが、客室で一人で待たされている間の時間というのはどうしてあんなにも落ち着かないものなのだろうか。
何となくといった気分で辺りに目を遣ると、まず、本棚に詰め込まれている、コンクリートブロックのような厚みの医学書が目に付いた。いたる所に心臓などの模型もあり、いかにも医者の部屋、といった空間である。ただ、見たところ物は多いけれど、随分と整理されている印象を受ける。普段は大雑把で適当な事ばかりを言っている人だけれど、こういうところは案外マメなのかもしれない。
机の上には――
「………………」
ブラジャーか。しかも黒か。
似合うとは思うけれど、俺を招き入れるつもりだったのなら片付けておいて欲しかった。まあ、ここで寝泊まりをすることもあるのだろうし、ここは見てみぬ振りが優しさというものだろうか。
俺は近くにあった北条先生の物らしきワイシャツを投げて、その淫靡なブラジャーを隠して差し上げた。
と、その直後。
コーヒーカップを二つ持った北条先生が、部屋の奥から現れた。
「………………」
どうしてだろう。俺は何も悪くないのに、何故か罪悪感にも似た衝動が胸の中を掻きむしる。
「はい。熱いから気をつけなよ?」
優しい言葉と共にコーヒーカップを手渡してくれる北条先生に対して、ついつい、あなたはブラジャーに気をつけてくださいね、なんて事を思ってしまう。
いや、本当に気を付けて欲しい。
「ありがとうございます」
俺は何故か取り繕うような笑顔でそのコーヒーカップを受け取った。当然、こちらの心境など知るはずもない北条先生は、気の抜けきった顔で向かいのソファーに腰掛け、一口、コーヒーを啜る。
「そうだねえ……。ありきたりな話でなんだが、最近はどうだい? 何か面白いことはあったかな?」
当たり障りのない話題。北条先生が話を振ってくる時は、いつもこのような切り出し方だ。
「面白いことはないですね。最近は新生活の準備に追われてばかりですし」
「ふふ。そうか。まあ、面白さというのは自分で見つけるものだからね」
適当に言葉を返してきているようにも見える北條先生。
しかし、自分で見つけるもの、か。確かにそうかもしれない。俺は狭い世界で、何も見ようとしていないだけなのではないだろうか。
「……そうですね。きちんと見つめていないだけかもしれません。本当は満たされているのかも」
「ま、見つめようとも思えない世界だということだな」
そこまでは言っていない。
北条先生は目を閉じて、再びコーヒーを啜る。また随分と澄ました顔をしているけれど、この人はいつも、一体何を考えているのだろう。俺の考えの遥か斜め上を行く発言をするくせに、それは変に的を射ていたりする。
そんなことを思いながら、俺もコーヒーに口をつけた。
……おお。悪い夢でも覚めてしまいそうなほど苦い。
「そう言えば、君は大学に就職をするのだったかな?」
目を閉じたまま、北条先生が尋ねてくる。
「はい。お世話になった教授が、研究を手伝わないかと声をかけてくれまして。いろいろと手続きもしてくれました」
「そうか。君もいよいよ社会人なんだよなあ」
「……そうですね」
もうすぐ新生活が始まる。こうして病院にやって来られる時間も、少なくなるだろう。
「確か、君の専攻は情報科学だったかな?」
目を薄らと開き、小首を傾げる北条先生。
「はい、そうですよ」
――情報科学。簡単に言えば、情報の発生、制御、伝達、処理などに関する原理を研究する学問である。俺が大学で専攻していた、物理学に付随する学問。
「うーん……。君の頭脳なら、教授の上を行けそうな気もするが?」
「何を言っているんですか。北条先生は俺を過大評価してますよ」
「ふふ。そんなことはないと思うよ。前に私が貸した医学書を、わずか一週間で読み切ったこともあっただろう」
「関心のあることは別です」
「雫ちゃんのために、少しでも知識を広げておきたかった?」
「……ま、まあ、そんなところです」
見透かしたようなことを言われた。まあ、図星ではあるけれど。
どうも北条先生と話をしていると、自分がひどく矮小な存在に思えてくることがある。それほどに北条先生の物言いが達観しているのだろうか。
「しかし、君はどうして情報科学を専攻しようと思ったんだい? 医学書をあれほどの早さで読める君には、ぜひとも医学の道に進んで欲しかった」
「いや、何故かと言われれば、まあ、両親が研究していた学問だからとしか言えないですかね」
「ああ、君の御両親は、その分野において多くの功績を残した方たちだったね」
「教授にも言われますけど、確かにそうだったみたいですね。俺たち兄妹を残して死ななければ、自慢の両親でしたよ」
本当に、生きてさえいてくれればよかった。それだけで十分だった。
「そう冷たいことを言うな。死んだ方も残された方も、痛み分けだと思うよ? 私は」
「………………」
痛み分け、か。死んだ人間に、痛みなんてあるのだろうか。それとも、死こそが最大の痛みなのだろうか。
何を理由にしても納得できない。残された人間の感じる痛みが、死に勝らないとは限らない。実際に残された俺と雫は、生きた心地なんてしなかったのだから。
「盃くん。君は生きているんだ。死んだような目をするなよ」
「……俺、そんな顔になっていましたか?」
北条先生は静かに頷く。哀しげな目を、俺に向けながら。
「盃くん。死んだように生きるより、生き生きと生きなさい。生きるというのは、ただ命があるだけなのとは違うんだ」
「……はい」
そうだよな。まだまだだ、俺は。二十二歳にもなって、子供扱いされてしまうわけだ。
「やっぱり、北条先生と話すのは楽しいです」
「そうかい? ふふ。私もだよ」
からかうような視線を向けてくる北条先生。
けれど、不思議なことに。
そんな視線を向けられていても、北条先生と話していると気が安らいで、ついつい胸の内を吐露してしまう。
「雫も……雫も、俺との会話を楽しいと思ってくれる時が、来るでしょうか?」
こうしていつもいつも、尽きない不安を吐き出してしまうのだ。本当に、まるで幼いこどものように。
「おいおい、何を言っているんだ。雫ちゃんなら毎回、君と会うのを楽しみにしているじゃないか」
「どこがですか……」
俺は実の妹である雫に、ひどく嫌われている。会う度に嫌な顔をされる。血の繋がった唯一の家族であるというのに。
「君がそんな風に思っているのが辛いね、私は」
「……しかし、雫が俺のことを何と呼ぶか、知っているでしょう? ばか兄ですよ?」
「愛嬌たっぷりじゃないか」
「………………」
駄目だ。この人には伝わらない。
「なんだ。溜息なんかつかないでくれよ」
「溜息なんてついていましたか?」
「ついていたよ。私のことを諦観したような感じのを」
「なるほど。それは無意識でしたね」
「無意識下で私を諦観したのか。なかなかに酷いな、君」
北条先生はくっくと笑いながら言う。
「しかし、君が雫ちゃんの支えになってやらないとね。雫ちゃんの病気は原因不明である上に、幼い頃からの闘病生活で、心は傷だらけだろうさ」
「……ええ。わかっています」
雫が原因不明の病に襲われたのは、俺が中学三年生の時だった。
当時、雫は十一歳。小学五年生になっていたけれど、それから学校には行けなくなってしまった。
どうやら、心臓が悪いらしいのだ。らしい、としか言えない。心臓が悪いというのはわかっているのだけれど、原因不明であるが故に、これと言った施術もできないまま、長い闘病生活を強いられている。
代わってやれるものなら、代わってやりたいと思う。本当に、どうして雫なのだろうとも思う。他の誰かなら良かったというわけではないけれど、だけど……。
毎日、毎日、俺は運命を憎んだ。
両親が事故で他界したのも、雫の病が明らかになって間もなくのことだった。まったく、神に見放されたものとしか思えない。
「盃くん」
北条先生が、囁くように俺の名を呼ぶ。
「……はい?」
「君が雫ちゃんを支えて、私が君を支える。さっき言っただろう? もっと、周囲に甘えてもいいんだよ」
「………………」
甘えてもいい、か。面と向かって言われると、こんなに気恥ずかしくなるものなんだな。
「北条先生には、いつも助けられてばかりですね」
「はて。私は助けているつもりなんて毛頭ないよ。まあ言うなれば、私は寂しがり屋なのでね、君にちょっかいを出して楽しんでいるだけだ」
「両親を事故で失い、さらには財産目当ての親戚に群がられていた俺たちを、あなたは守ってくれた。それも、ただのちょっかいだったなんてことはないでしょう?」
「ふふ、どうかな。可愛い君たち兄妹を、放ってはおけなかったのさ」
嘘が下手だな、この人。まあ、前に本気で嘘をつかれた時は見抜けなかったのだけれど。
「それに、守っただなんて大袈裟だよ」
言って、北条先生はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「君たち兄妹は、自分たちの力だけでここまで来ただろう? 御両親が残してくれた財産だって、君がきちんとやりくりをしていたじゃないか。本当に立派なものだよ。誰にも頼らず、中学三年生からずっと一人で生活をしてきた君を、助けたなんて言える私ではない」
強情だな、この人。本当に、感謝しているというのに。
「ちょっかいの一言で、俺たちの保護者役にまでなりますか?」
「さてね。昔のことは覚えていない。過去の自分なんて、もはや他人と同然だからね。他人のしたことなんてわからないよ」
「あなたは今も昔も変わりませんよ、北条先生」
俺がからかうように笑って見せると、北条先生は気恥ずかしそうに、窓の外へと目を向けた。
「なんだか今は、君との会話が面白くないな」
北条先生は人をからかうのが好きだけれど、自分がからかわれるような立場になると、急にふてくされたような顔をする。こういうところは子供らしいのかもしれない。
そうだな、もう少しからかっておこう。
「それは残念ですね。俺は最高に楽しいのに」
しかし、俺の言葉に、北条先生は意外にも微笑んだ。
「……ふふ。君のそういうところ、好きだよ」
顔が一瞬で熱くなる。美人がそういうこと言うもんじゃないだろうと言ってやりたいが、その無邪気な笑顔に何も言えなくなってしまう。
やっぱり、この人の方が一枚上手か。
「さ、雫ちゃんも待ちわびている頃だろう。そろそろ顔を見せに行ってあげなよ」
「ああ……。待ってくれていればいいんですけどね」
俺はそう言って、苦みの強いコーヒーを飲み干した。
「コーヒー御馳走様でした。では雫のところに行ってきますね」
「ああ。ゆっくり話しておいで」
北条先生は柔和な笑みを浮かべて、俺を見送ろうと立ち上がる。
そうだ。こういう時に仕掛ければいいのかな。
「北条先生」
言って、俺も立ち上がる。
「ん? 何だい、盃くん」
「せめて、下着は片付けておいた方がいいですよ?」
「なっ……!」
「それでは、失礼します」
わずかに赤面した北条先生を残して、俺は雫の待つ病室へと向かった。あんな北条先生を見たのは初めてだったなあ、とか。そんなことを考えながら、廊下、階段、と進んでいく。
そして、北条先生の個室を出てから数分後――
俺は雫の病室の前に立っていた。
今日も、嫌な顔をされるだろうか。
そう考えると、病室の扉を開くのが憚られてしまう。でも、少しでも一緒にいたい。雫と会えるのは、もうこの場所だけになってしまったのだから。
手足が震えている気がする。毎回こうだ。でも、それでも俺はこの病室を訪れる。
そして、真っ白な扉を二回叩き、乾いた音を響かせるのだった。
「……はい」
扉の向こうから、澄んだ声が返ってくる。
聞き慣れた雫の声。
俺はゆっくりと扉を開き、雫に軽い調子で呼びかける。
「よう、雫」
「……ばか兄。また来たの」
その平坦な声に、いつも肩が落ちそうになる。
しかし気を取り直して、わざと弾んだ声を返す。
「何回でも来るよ。来るなって行っても無駄だからな」
俺が言うと雫は不機嫌そうに口を瞑り、窓の外へと顔を向ける。整った顔立ちをしているせいか、こういった素っ気ない仕草が酷く冷たく見えてしまう。
肩までの長さの栗色の髪と、綺麗な琥珀色の瞳。魅惑色を放つその瞳は、整った凛々しい顔つきの中でも一段と存在感を出していた。
――雫は現在、十八歳。
贔屓目を抜きにしても、本当に美人になったと思う。けれど成長するにつれ、表情はどんどん単調なものになっている気がする。昔は感情豊かで、何を考えているかは顔を見ればわかった。
まるで別人になってしまった雫の姿が、どうしようもなく切ない。
「体調はどうだ?」
雫のベッドの横にある椅子に腰掛け、俺は口癖になりつつある問いを投げ掛けた。
「別に」
条件反射のような、色味のない返事。
「そっか……。飯は食えてるのか?」
「まあね」
いつからだろう。こんな風にしか会話ができなくなったのは。
「ああ、さっき北条先生と話してきたよ。やっぱり面白いな、あの人。俺がちょっとからかうとすぐに拗ねちゃって……」
「………………」
雫は何も言わない。何も答えてくれない。
昔はどんな風に話していたのか、それすらもう思い出せない。時間の流れが俺たちを変えてしまったのか。それとも、変わってしまったのは俺の方だけなのだろうか。
今日は話ができる雰囲気じゃあないか。
「雫、悪い。来たばっかりだけど、今日はもう帰るよ。邪魔したな」
背に重りを乗せているかのようにゆっくりと立ち上がり、雫に背を向けて歩き出した――その時。
「……あ」
ふと、背後から消え入るような声がした。
「ん? 雫?」
振り返り、雫の顔を見つめる。
今、雫が何かを言い掛けたような気がしたけれど、雫から俺に何かを話しかけてくるようなことがあっただろうか。
どうしてか雫は、恨めしそうな目で俺を睨んでいる。
「……何でもない。さっさと帰れ」
「あ、ああ。またな」
何だろう。何か言いたそうな風にも見えたけれど、きっと尋ねたところで、何も答えてはくれないのだろう。
俺はそのまま、病室の外へと歩き出た。後ろ手に扉を閉め、そっと溜息を吐く。
まったく、今日何度目の溜息だ。
溜息をついている場合ではないのに。下を向いている場合ではないのに。空元気でも何でもいいから、雫を笑わせるくらいのことをしてやりたい。
それなのに、どうしてそれがしてやれないのだろう。
扉に背をつけたまま、膝から崩れ落ちそうになる。
俺と話してくれなくてもいい。せめてあの病気だけでも治って、もう一度笑ってくれさえすればいい。
「………………」
今日は帰ってゆっくりしよう。
俺は誰もいない廊下を歩き、病室の前から立ち去った。




