第1話「視察」
「いらっしゃいませ。今日はどちらまで」
それが、この町で最初に聞いた言葉だった。
役場の自動ドアが開いた瞬間、その声は迷いなく境に向かって飛んできた。まるで、ここに来る人間が他にいないとでも言うように。
境唯がこの町に来たのは、その日の昼前のことだった。最寄り駅からはバスで二十分。乗客は境一人だけで、運転手は途中で何度か誰もいない停留所にきちんと停まり、誰も乗らないのを確認してから、また発車させた。車窓から見える景色は、田んぼと、ぽつぽつと建つ家と、ところどころに置かれた古い看板――そのどれもが、これまで取材で訪れた地方の町と大きくは変わらないように見えた。
今回の企画は、境自身が持ち込んだものだった。地方自治体のSNS活用事例を取材する、という当たり障りのない企画書を、いくつかの媒体に同時に送った。締め切りも予算も緩やかな仕事で、フリーランスとして他に抱えている原稿仕事のほうがよほど忙しい。それでも、こうした小さな町の取材には、境なりの好奇心があった。誰も注目していない場所で、何が起きているのかを見るのが、昔から好きだった。
バスの中で、境はスマホを開いて、もう一度町の名前を検索してみた。観光協会のサイトと、いくつかのSNSアカウント、それから町の公式ページが出てくる程度で、特に目立った情報は見当たらなかった。これまで何十もの自治体を取材してきた経験からすると、ごく平均的な、これといった特徴のない自治体に見えた。
バス停から役場までは、徒歩で五分とかからなかった。途中、小さな商店街を通り過ぎ、喫茶店の看板を横目に見ながら、境は手帳に簡単な町の様子をメモした。「人通り少なめ」「商店、半分くらいシャッター」「役場、町の中心らしい」。書きながら、特に何の感慨もなかった。よくある光景だ、と思っただけだった。
役場の建物は、外観だけ見れば、これまで訪れたどの自治体とも似たような佇まいをしていた。
境唯は名刺を出すより先に、軽く頭を下げた。
「すみません、フリーで記事を書いている者です。事前にメールで――」
「ああ、はいはい。お待ちしてました」
受付の女性は、境が言い終わる前にすでに納得していた。名札には「田淵」と書かれている。年齢は四十代後半、もしかしたら五十代に入っているかもしれない。化粧は薄く、話し方には柔らかい方言の名残があった。
「町長、すぐ来ますから。そちらのソファでお待ちくださいね」
言われた通り、境は来客用の古びたソファに腰を下ろした。座面が想像より深く沈んで、少し体勢を直す。バッグからノートとペンを取り出そうとして、ペン先がうまく出てこない。ノック式のはずなのに、何度押しても出てこなかった。
「……今日はそういう日らしい」
小さく呟いて、結局バッグの底から別のペンを引っ張り出す。出発前にきちんと確認したはずなのに、こういう小さな不運に限って、こういう日に起きる。境はこういう細かい不運に、昔から妙によく見舞われる質だった。大事な場面ほど、ペンが出ない、靴紐が切れる、駅で切符をなくす。今に始まったことではないので、もう気にしないようにしている――つもりだった。
役場のロビーは、思っていたより明るかった。地方の役所というと、もっと薄暗くて、もっと事務的な空気を想像していたのだが、壁には町の四季を写した写真が飾られていて、観光協会のパンフレットがラックにきちんと並んでいる。少なくとも、見た目の上では、活気のある町に見えた。
境は取材に入る前、いつもこうして待ち時間に周囲を観察する癖があった。建物の作り、職員の動き、置かれているものの種類――そういう細部から、その場所の本当の雰囲気が見えてくることが多い。今のところ、この役場からは特に何の違和感も感じられなかった。むしろ、よく手入れされた、まじめな自治体という印象だった。
壁の写真の一枚に、夏祭りらしい賑わいの様子が写っているのが目に入った。提灯の明かりと、たくさんの人影。境はそれを見て、いつ頃のものだろうかと一瞬思ったが、特に気にすることもなく視線を外した。
ふと、田淵がこちらを見て、また何か言いたそうな顔をしているのに気づいた。
「あの」
田淵が、カウンターの内側から声をかけてきた。
「前にも……いえ。すみません、人違いでした」
境は顔を上げた。
「前にも、何ですか」
「いえ、本当に。最近、似た雰囲気の方が続いたものですから」
田淵は片手で頬を触りながら、軽く笑った。それ以上、何かを説明するつもりはないようだった。境も、特に気にする様子もなく、「そうですか」と返して、再びノートに視線を落とす。
このとき境は、まだ何も気づいていない。
ただの聞き間違い、あるいは記憶の混同。役場の受付係が一日に何人もの来訪者を見ていれば、そういうことも起きるだろう。フリーランスとして地方を回っていれば、似たような取材相手、似たような反応に出会うことは珍しくない。境はそう判断し、ノートの最初のページに「役場・第一印象」と書いて、簡単な見取り図を描き始めた。
その見取り図の角は、ペンの先がひっかかって、うまく線にならなかった。
待つこと十分ほどで、奥の通路から足音が近づいてきた。
「お待たせしました」
姿を見せたのは、思っていたより若く見える男だった。四十代前半くらいだろうか。きちんとした紺のスーツに、柔らかい笑みを浮かべている。役場の壁に貼られていた町長の写真よりも、実物のほうがいくらか柔らかい印象だった。
「柊です。今日はわざわざ、ありがとうございます」
「境です。お忙しいところ、すみません」
握手というには軽すぎる、会釈のような仕草を交わして、応接室へ案内される。柊が先に立って歩く後ろ姿を見ながら、境はバッグの中で資料がきちんと並んでいるか、もう一度確かめた。
応接室は、思いのほか普通だった。長机に、来客用のソファ。壁には町の特産品のポスターが貼られている。地方都市にあるような、どこか見覚えのある部屋の作りだった。壁の隅には、町の人口を示す古いグラフが額に入れて飾られていたが、最新の数字を示す部分だけがどこか色褪せていて、いつ更新されたものなのか境にはよく分からなかった。
柊が向かいのソファに腰を下ろすと、すぐに別の職員が茶を運んできた。湯気の立つ湯呑みを二つ、丁寧にテーブルへ置いて、職員は何も言わずに部屋を出ていく。境はその一連の動きが、まるで何度も練習されたかのように滑らかなことに、なんとなく感心した。地方の役場というと、もっとぎこちないものを想像していたのだが、ここでは何もかもが、すでに型になっているようだった。
「今日は、町のSNS発信について伺いたくて」
境が用意していた質問を切り出すと、柊はゆっくりと頷いた。
「ええ、そうですね。最近、少しずつ反応をいただけるようになってきて」
「具体的には、どういった経緯で始められたんですか」
「経緯、というと――」
柊は一度、テーブルの上に置かれた湯呑みに視線を落とした。短い間だった。ほんの一秒か二秒。だが境は、その間に、柊が言葉を選んでいることに気づいた。
「最初は、特に大きな計画があったわけではないんです。職員が個人的に始めたものを、町としても少し後押ししようか、という流れでした」
「職員というのは、具体的には」
「そこは、ちょっとぼんやりしているんですよね、私も」
柊は柔らかく笑った。困っているような、でも困っていないような、判別のつかない表情だった。
「誰かが始めて、誰かが続けて、気がついたら町全体の取り組みみたいになっていた。そういう経緯です」
境はノートに「誰が始めたか不明瞭」と書きながら、軽く笑い返した。
「でも、効果は出てるんですよね。フォロワー数を見ると、かなり伸びてますし」
「ありがたいことに、そうですね」
「町としては、何か特別な戦略があったんですか。バズらせるための」
「戦略、というと少し大袈裟な気もしますが」柊は湯呑みを軽く持ち上げ、そのまま口には運ばず、また置いた。「皆さんが、自然と広げてくださった。それが一番大きいと思います」
「自然と、というのは」
「町の方が、自分の知り合いに教えたり、感想を書いてくれたり。そういう積み重ねです」
境はその答えに、特に違和感を覚えなかった。地方の小さな町が話題になるとき、口コミの力は実際に大きい。柊の説明は、むしろ素直なものに聞こえた。
「ちなみに、今のフォロワー数ってどのくらいなんですか」
「正確な数字は、後で広報の担当からお伝えできると思います。私の感覚だと、半年前の倍以上にはなっているはずです」
「倍以上って、結構大きい伸び方ですよね」
「ええ、ありがたいことに」
「町長としては、今後もこの調子で発信を続けていきたい、というお考えですか」
「そうですね……『今後もこの調子で』というのが、少し難しいところで」
柊は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「同じことを繰り返していても、いつか飽きられてしまうと思うんです。だから、これからどう変えていくか、というのは、正直まだ私たちも手探りの部分があります」
境はその答えを、誠実な物言いだと受け取った。多くの自治体の担当者は、こういう質問に対して、決まったように「さらなる発信の強化を目指していきたい」というような、無難な言葉を返してくる。柊の答えは、それよりも少し具体的で、少し人間味があった。
「町長は、もともとこういう発信の仕事に関わっていたんですか」
「いえ、私は元々、別の部署にいました。SNSのことは、正直、今でも職員の方が詳しいです」
「では、町長としては、どういう立場で関わっているんですか」
「立場、というと――」
柊はまた、湯呑みに視線を落とした。
「皆さんがやっていることを、見守る立場ですね。私が前に出て何かをするというよりは」
境はノートに「見守る立場」と書きながら、ふと別の角度の質問を思いついた。
「町の人口って、今どのくらいなんですか」
「六千人ほどです。ピークの頃は、その倍くらいいたと聞いていますが」
「倍、というのはいつ頃の話ですか」
「四十年か、五十年か……正直、私もそこまで詳しい数字は持っていないんです」柊は少し困ったように笑った。「町史をきちんと調べれば分かるとは思うんですが、皆が口にする『その頃は』という感覚の方が、案外、実際の数字より頼りにされているところがあって」
「面白い言い方ですね」
「そうですか」
「数字より、皆の感覚の方が信じられている、というのは」
柊はその指摘に、少し意外そうな表情を見せた。
「言われてみれば、そうかもしれません」
その短い沈黙の後、柊はすぐにいつもの柔らかい調子に戻った。
「町長って、そういう言い方しますよね」
「そういう言い方、というのは」
「断定しない感じの」
柊は少し驚いたように、それから愉快そうに目を細めた。
「そう聞こえますか」
「ええ。なんというか、便利な話し方だなと思って」
「便利、ですか」
柊は湯呑みを両手で包むようにして、少し考えるような間を置いた。
「そういう見方も、できるかもしれませんね」
それだけだった。それ以上の説明はなく、柊はすぐに次の話題に移った。境は特に深く考えず、その言葉をそのままノートに書き留めた。便利な相槌だな、と思っただけだった。
「最後に、もう一つだけ。町の今後の展望というか、町長として目指している方向性みたいなものがあれば」
「展望、というのは難しいですね」柊は少し笑った。「ただ、この町が、なくなってしまわないように。それだけは、ずっと考えています」
その一言だけは、それまでの曖昧な答え方と違って、はっきりとした重さを持っていた。境はその落差に、わずかに引っかかりを覚えたが、すぐに「いい言葉だな」という感想に上書きされて、深く考えることはしなかった。
取材は思っていたよりスムーズに進んだ。柊の話は具体的な数字も交えながら、それでいてどこか核心を避けるような、不思議な手触りがあった。境はその違和感を「人当たりの柔らかさ」として処理し、特に深く追及することもなく、予定していた質問を一通り終えた。
「今日はありがとうございました」
応接室を出ると、外はすでに夕方に近い光になっていた。役場のロビーを横切るとき、田淵がまだカウンターにいて、軽く頭を下げてくれた。境も会釈を返す。
役場の前の広場には、誰かが立っていた。境がそこを通り過ぎるとき、その人物――おそらく七十代くらいの男性――は、特に何をするでもなく、ただじっとロビーの方を眺めていた。観光客でもなさそうだし、待ち合わせをしている様子もない。なんとなく、毎日そこに立っているような佇まいだった。
境は気に留めず通り過ぎた。
役場を出て少し歩いたところで、自分のメモを見返す。ペンの調子は相変わらず悪く、何箇所か文字がかすれていた。
「役場・第一印象」「誰が始めたか不明瞭」「そういう見方も、できるかもしれませんね」
書いた内容を読み返して、境は小さく笑った。
「便利な人だな、町長」
それだけの感想だった。何かがおかしい、とは思わなかった。ただ、町長という肩書きの人間にしては、ずいぶん柔らかい話し方をする人だな、というくらいの印象だった。
その日の夜、境は借りた家――町が用意している短期滞在用の貸家――で、取材メモを整理していた。空き家を活用した移住促進策の一環らしく、古い造りながら、水回りだけは新しく直されている。畳の匂いが少し残る部屋に、境は荷物を最低限だけ広げていた。
古いノートパソコンを開き、今日聞いた内容を簡単に打ち込んでいく。今回の企画は締め切りが緩いぶん、他の仕事と並行して進めるつもりだった。フリーランスになって五年、こういう「とりあえず長く居座れる仕事」が、案外生活の支えになることを境は知っていた。締め切りに追われる原稿の合間に、こうした取材を挟むと、なぜか頭の中が整理される。
部屋の隅にあるテレビをつけてみると、ローカルのニュース番組が流れていた。町の話題は特に出てこなかった。当たり前のことなのだが、なんとなく、もう少し何か映るような気がしていた。
途中、ふと手が止まった。
田淵の「前にも……」という一言が、なぜか頭の中に残っていた。
「人違い、か」
特に深い意味はないはずだった。境はそう結論づけて、パソコンを閉じた。
布団に入ってからも、その一言だけが妙に頭の隅に残った。前にも来たことがあるような感覚は、もちろんなかった。ただ、田淵の表情があまりに自然で、まるで本当に何かを思い出したかのような――そういう種類の自然さだったことが、少しだけ引っかかっていた。
「考えすぎ」
境は自分にそう言い聞かせて、目を閉じた。
翌朝、境は役場の近くの喫茶店で朝食を取ることにした。「桐山」という名前の店で、扉を開けると、コーヒーの匂いと共に、年配の店主らしい男が「いらっしゃい」と短く声をかけてきた。観光客らしい客はおらず、店内には常連らしい老人が一人、窓際の席で新聞を読んでいるだけだった。
境はカウンターの端に座り、モーニングセットを頼んだ。店主は何も聞かずに、すぐにコーヒーを淹れ始める。手慣れた、無駄のない動きだった。
「ここに住んでる方ですか」
店主が、コーヒーを置きながらそう聞いてきた。
「いえ、ちょっと取材で。数日お世話になります」
「ああ、そうですか」
それだけで、店主はあまり関心を示さなかった。観光客でも取材者でも、この店にとっては大した違いではないようだった。境はその淡々とした態度に、なんとなくほっとした。土地によっては、よそ者というだけで妙に話しかけられすぎることもある。この店はそういう質ではなさそうだった。
朝食を終えて店を出ると、外はすでに夏に近い陽射しになっていた。店に向かう途中、役場の前を通りかかると、昨日見かけた老人がまた同じ場所に立っていた。今日も特に何をするわけでもなく、ただそこにいる。
「あの人、いつもいるんですか」
たまたま通りかかった役場職員らしい青年に、何気なく聞いてみた。年齢は二十代前半くらいだろうか。腕に資料を抱えていて、いかにも新人らしい慌てた雰囲気がある。
「久保田さんですか? ええ、たぶん毎日です」
「何をしてる方なんですか」
「さあ……それは、私もよく分からなくて」
青年は少し困ったように笑って、それから慌てて自己紹介を始めた。
「あ、すみません。畑中といいます。今年から役場に入りました」
「境です。フリーでライターをしています」
「ライターさん。あの、SNSの記事の方ですか」
「はい、そうです」
「すごいですよね、あの伸び方」
畑中はそう言いながら、抱えていた資料の角を少し直した。境はその様子を見て、新人らしい緊張がまだ抜けていないのだと思った。
「畑中さんも、SNSの担当なんですか」
「いえ、私は全然別の部署で……でも、職員はみんな見てますよ、あの数字。すごいなあって」
畑中は、何か言いたそうな顔をして、それから少し声を落とした。
「あの、聞いてもいいですか。あの投稿、最初から人気だったんですか?」
「投稿、というのは」
「特産品の。道の駅の。あれ、ある日突然すごく伸びていて……でも、その前の準備とか、私、あまり聞いた記憶がなくて」
境は手帳を取り出した。今、聞いておくべき質問だと思った。
「畑中さんも、気になってるんですね、それ」
「いえ、別に、深い意味はないんですけど」
畑中は急に取り繕うように笑って、それ以上は何も言わなかった。腕の中の資料を抱え直して、「すみません、行かないと」と早足で去っていく。
境はその後ろ姿を見送りながら、手帳に短く書き加えた。
「畑中(新人)/ 投稿の経緯に違和感?」
それから、ペンを一度持ち直して、もう一行足した。
「気にしすぎかな、私」
手帳を閉じてバッグに戻そうとしたとき、ファスナーが妙な角度で引っかかり、なかなか閉まらなかった。何度か引き直して、ようやく閉じたときには、すでに数分が経っていた。境は小さく息をついて、苦笑した。こういう細かい不運は、結局、今日も健在らしかった。
その日の取材は順調だった。道の駅に向かうと、駐車場には予想していたより多くの車が停まっていて、店の中も賑わっていた。レジの近くでは、特産品の野菜を箱買いしていく客の姿もあった。
「これ、最近すごく人気なんですよ」
声をかけてきたのは、道の駅のスタッフらしい若い女性だった。胸の名札には「古賀」と書かれている。
「SNSで見て来られた方、多いんですか」
「そうですね、最近は本当に。私たちも驚くくらいで」
古賀は嬉しそうに笑って、野菜の並んだ棚を手で示した。
「いつ頃から、こんなに伸びたんですか」
「いつ頃から、というと――」古賀は少し考えるように視線を上にやった。「気づいたら、という感じでしたね。最初から狙ってこうなったわけじゃないと思います」
境はその答えを手帳に書きながら、特に疑問を持たなかった。誰もが好意的で、町の取り組みを誇らしげに語った。
レジの近くで野菜を選んでいた年配の女性が、境たちの会話を耳にして、横から口を挟んできた。
「いいことよねえ、こうして人が来てくれるの。前は閉まっちゃうんじゃないかって、みんな心配してたから」
「そうなんですか」
「ええ。十年くらい前なんて、お客さん全然来なくてねえ。今はもう、土日は車が並ぶくらいで」
女性はそう言って、嬉しそうに野菜の入った袋を持ち上げた。境はその素朴な喜びに、何の作為も感じなかった。本当に、ただ良い変化が起きている町なのだろう、と思った。
道の駅を出る頃には、すでに日が傾き始めていた。境は商店街を通って役場の方へ戻りながら、今日一日のメモを読み返した。柊の話、田淵の言い間違い、畑中の小さな違和感、古賀の「気づいたら」という言葉。どれも単独で見れば、特に問題のない、ありふれた地方の町の光景だった。
夕方、もう一度役場の前を通りかかったとき、境は田淵と目が合った。田淵は軽く手を上げて、それからまた何か言おうとして、結局「お疲れさまです」とだけ言った。
「今日もありがとうございました」
境はそう返して、町を歩き始めた。
役場前の広場では、久保田が今日も同じ場所に立っていた。夕方の光の中で、その姿は昨日よりも少し長く影を引いていた。何をしているのか、何を見ているのか、境には分からなかった。誰かを待っているようにも、ただそこに立つことそのものが目的のようにも見えた。
境はもう一度だけ振り返って、その背中を見た。何かが気になったわけではない。ただ、なんとなく、目に入ったというだけだった。
それから、何も考えずに歩き出した。
この町に来るのは、これが初めてのはずだった。
その夜、貸家に戻った境は、二日分の取材メモをまとめてパソコンに打ち込んだ。柊のインタビュー、田淵の言い間違い、畑中の小さな疑問、古賀の「気づいたら」という言葉、レジ近くの女性の素朴な喜び。打ち込みながら読み返してみると、どれもがバラバラの断片のようで、特に一つの結論に繋がるようには見えなかった。
「明日は神社の方も見ておこう」
境はそう独り言を言って、明日の予定を簡単にメモした。祭りの話を聞くなら、宮司にも話を聞いておいた方がいいかもしれない、と思った。今のところ、この取材は順調に進んでいる。記事の構成も、すでに頭の中でおおよそ組み立てられていた。「町ぐるみで自然に広がったSNS発信の成功例」――そういう、よくある、しかし悪くない形の記事になるはずだった。読者にとっても、地方の小さな町が知恵を絞って盛り上がっていく話は、悪い印象を持たれることはないだろう。境はそう見積もっていた。
パソコンを閉じる前に、もう一度、最初のページに戻ってメモを読み返す。
「田淵さん『前にも……』」
その一行だけが、なぜか他の文字よりも、少しだけ濃く見えた気がした。
気のせいだろう、と境は思った。
電気を消して、布団に入る。窓の外では、町特有の静かな夜が広がっていた。虫の声と、遠くで車が一台、ゆっくりと走り去る音だけが聞こえた。
境はその音を聞きながら、いつの間にか眠りに落ちていた。今日と同じような一日が、明日もまた続くだろう。境はそんな、ごくありふれた予感を抱いたまま、深い眠りに沈んでいった。
この町に来るのは、これが初めてのはずだった。少なくとも、境はそう思っていた。




