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僕と妻を繋ぐ、幸せのラムネ

作者: 神経水弱
掲載日:2026/06/12


「死にたい」


 何度目かわからない『死にたい発言』をしたのは、仕事から帰宅早々、「死にたい」と一言呟き、食卓テーブルに突っ伏したまま、今もその状態で微動だにしない僕の妻、果穂かほだ。

 彼女がこんな状態であるのは別に今日だけじゃない。幾つかの精神疾患を抱える彼女にとってはもはや日課みたいなもので、だから僕もそんな彼女を静観しながら、彼女が帰宅する前から始めていた夕食の支度を淡々とキッチンで進めているわけである。


「生理で余計にメンタルがズタズタで、仕事もぼーっとして身が入らない。私はゴミだね」


 いつも通り、僕が黙って支度を進めていると果穂は『死にたい』に至るまでの経緯を、頼んでもいないのにぽつりぽつりと話し始めた。


「ゴミでもね、頑張ったんだよ。ようくんにはわからないだろうけどね。お腹の中のあちこちをね、無数の針が刺すような痛みに耐えながらでも、私は頑張ったんだよ。でもダメだった。きっと周りからゴミだって思われたよ。不必要な、存在価値も意義もない」


「だから仕事、休めば良かったのに」


「うちの会社はそんなに寛大じゃないもん。それに、他にもあった。ゴミみたいなことが」


「ほう…いかがなことが?」


 そう果穂に尋ねた後、サラダの端にプチトマトを二個ずつ盛り付けながら、キッチンカウンター越しに視界だけを彼女にシフトさせる。今だに上半身を机に伏せたままでいる彼女はそれでも話を続けるので、僕は聞き役、いや、お道化者になることに徹する。


「帰りの電車で、途中の駅で乗ってきたおじいちゃんが目の前でしんどそうに立っていたから席を譲ろうとして立ったの。私だってしんどかったし、優先座席じゃないけど、それでも人に優しくしたんだよ。それなのにチャラ男が割り入ってきてさあ。断りを入れようとしたらガン飛ばされた。私もおじいちゃんもしんどいのにさあ…」


「逆にパンチは飛ばしてやった?」


「飛ばすわけないじゃん」


「知ってる。だって果穂は心優しい女子だからね。おじいちゃんに席を譲るなんて今どき果穂くらいじゃないか?」


「そんなわけないじゃん」


 ようやく果穂は顔を上げ、凍りついた口元を少しだけ上げてみせてくれた。どうやら僕の相槌が彼女のメンタルにおいてプラス的に効用したようで、今日はまだ帰ってきてから彼女が手をつけていないジェイゾフロトやパキシルより効き目があるのでは?なんて思い上がってしまう。そんな風に驕った自分を戒めながら、シーザードレッシングをサラダにうっすらかける。


「陽くんはいいね。知り合った頃から二十四時間年中無休で晴れた心意気だもんね。私たちの、このどんよりして、湿気じみた精神状態とは無縁だもんね」


「二十四時間年中無休ではないけれど、そりゃあ生まれつきのお道化者だからねっ。雨をも晴れにしちまうハレもののお道化者たあ、あっしのことでありやして〜」


「いいね。楽しそうで。私も陽くんみたいになりたい。いや、無理か……無理だからさ、陽くんも一緒に私と堕ちて、最後は手を繋いで一緒に死のう」


「死にたくはないね」


「ごめんね。こんなゴミ妻で」


「ゴミなんかじゃないよ。大丈夫。この後、お話ししながらご飯食べて、お風呂入って、お菓子を食べて、お薬飲んで寝たら、明日こそはまた元気になるよ。それにさ、僕が一緒に病んだら、誰が果穂を元気にするんだよってね。あ、でも果穂が飲んでいるあのラムネみたいなお薬が何かくらいは知っておいた方がいいかもな」


「ラムネって。錠剤じゃん。それに別にいいよ。知らなくて」


「そっ。ならまたの機会だな」


「機会…ねえ。もし私が陽くんに捨てられたら。幸せでい続けられる機会ちゃんすを剥奪させられたらさ」


「ねえ、どうしてだろう。すごく胸が痛いのだが」


「具合悪いの?……ごめんね。私のせいだよね。ごめんね」


「いや比喩だよ!例えばだよ!心に突き刺さったって意味」


「どうして?」


 ふふっと乾いたような笑いを鼻で吹き出す果穂に安心しながら、僕はお道化者の夫として会話にシットコム地味た雰囲気を盛り込んで彼女から笑顔を引き出すように会話を続けるのだ。


「それ訊く?」


「訊く」


「僕は果穂の足元及ばない」


 少し声量を落として「特に容姿」と付け足す。


「陽くんは作家としてちゃんと結果を出してるじゃん。ファンレターも届くくらいにたくさんの人から必要とされてる」


「僕はそれ以上に果穂を必要としている!」


 ここの強調は重要。


「どうかな。今だけかもよ。そもそも私が陽くんと結婚できたのだって、運を全て使い果たしての結果だもん」


「僕は結婚指輪に貯金を全て使い果たした」


「ほんと、もったいないね。浪費だね。私なんかのために、貯金を全てはたくなんて。愚行だね」


 観客の「あぁぁ」と落胆する声を否定するように僕はゆっくりとかぶりをふり、口元を柔らかく上げる。


「そんなことはない。なんなら足りないくらいだ」


「そうね。私なんか結婚指輪の足元にも及ばないね」


「僕らの結婚指輪に足なんてあったっけ?」


 両腕を広げて首を傾けると、虚ろな瞳のまま果穂は呆れた意味を込めたようなため息をついた。


「はあ…もういい」


 どうやら僕の今のセリフは蛇足だったようだ。


「ごめんよ」


「大丈夫。わかってるから。陽くんは私を元気にしようとしてくれてるんでしょ?でも、ごめんね。やっぱり…あぁ……そもそもさ、私を励まそうとしても疲れるだけだよ。無駄足だよ」


 足とかけたのか。うまいな。と揚げ足を取るのはよして、僕は果穂のありのままを言葉にした。


「僕が言いたいのは、結婚指輪なんかよりも、果穂は比べ物にならないくらい魅力的で美しいってことだよ!だって果穂の艶のあるロングの黒髪も、ぱっと目を引く大きな瞳も、笑うと子どもみたいにやわらかくなる顔も、全部ひっくるめて、僕にはもったいない。僕の貯金がいくらあっても取るに足りない。これこそ、運が良かったんだ」


 容姿は日常のように褒めている、というか褒めてしまわざる得ない。だからそんな日常の謳い文句なんかでは、果穂の表情は変わらない。


「でも本当は、心のどこかでは、めんどくさい女だって思っているでしょ?」


「思ってない」


「嘘よ。ねぇ、どうしてあからさまに嫌いにならないの?めんどくさくならないの?辛くならないの?私を捨てたくならないの?」


「ネガティブ発言のサラダだな。ま、僕が今作ってるのは野菜のサラダだけど」


 そう言って、盛り付けが終わったサラダの容器に僕の素っ頓狂な真顔を添えて披露すると、果穂はようやくふふっと口角を上げて笑ってくれた。そんな彼女の心のガードが緩くなった瞬間を僕は見逃さない。

 ここで思いついたように、いや、わざとだけど、「あっ!」と声を上げて、キッチンにある食器や調味料、お菓子が入った戸棚を開けて緑色のプラスチック製の袋を手に取り、果穂の元へ足早に向かった。


「はい、じゃあ口を開けて」


 果穂は疑うことをせずに素直に口を開ける。僕は袋からラムネを一粒摘んで、彼女の舌の上に乗せる。


「薬じゃないよ。お菓子のラムネだ。たしかこのラムネに含まれるぶどう糖は精神安定、疲労回復にうってつけだとか、ないとか。まあ食事前だから、残りは後で食べなよ」


 ラムネを一粒、かりっかりっと咀嚼する果穂に袋ごとラムネを渡すと、言ったそばからラムネをまた一粒取り出した。

 しかし口には入れず、摘んだラムネを眼前に持ってきて、少し見つめる。


「こんなに小さいのに。私とは違ってちゃんとしてる」


 瞼を半分落として、まるでグラスに注がれたワインでも眺めてる風に放ったその言葉に一瞬どう答えるべきか迷ったが、いい答えが浮かんだ。


「……ライバルがラムネになったか」


「そういう答え求めてない」


「ごめん。でも僕はもちろん果穂の方を尊敬してる」


「ほんと?」


「やっぱりラムネかな」


 あからさまに悪戯な僕の一言に果穂もまたあからさまにむっとしてラムネを睨み、口に放り込んだ。

 かりっかりっと咀嚼音を立てながら、眉を下げ、ため息を吐く。


「……やっぱ今日はだめな日だ」


「大丈夫。あと五時間九分六秒で今日は終わるから」


「ごめん。今はそう言うジョークとか要らない」


 ジョークではないが、テンションの歯車が噛み合ってないのは事実。


「とにかくさ、ラムネ、いいよ。その証として、僕はこのラムネを『幸せのラムネ』と命名するっ」


「そう……でも幸せなんて…私にはやっぱりもったいないね。豚に真珠、いやゴミにラムネか。とにかく、私なんてゴミは、早くこの世からいなくなるべきなんだ……」


果穂はまた机に突っ伏してしまう。これもまあ、予想していた光景だ。いつも通りの…いつも…いつ…い……でいいのか?イイノカ?


 大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。ダイジョウブ。ダイ。ダ………


 朦朧とする思考がスノーノイズに変わる。

 その瞬間、無意識に手が予めズボンのポケットに忍ばせておいたラムネを掴む。そして突っ伏した彼女にバレないように五粒ほど口にさっと放り込んだ。

 ラムネは口内から侵入し胃へとたどり着くまでの軌跡の中に甘味を含ませた幸せを分泌させる物質を配置していく。もちろんラムネに即効性がないのは理解しているけど、もうそれは安心という名の暗示みたいなもので、思考は正常になり、お道化者の僕を呼び起こした。


 はあいっ!そうだよ!僕はお道化者なんだ!


 こんな状況でも動じない!そう、こういう時は何も言わずに彼女が口を開くのを待てばいいんだ!


「今は世界一めんどくさい女」


 ほらねっ!話してくれたじゃん!


「嫌われてしかるべき、存在意義も価値も、この袋に入ったどのラムネたちよりも私は劣っている。ラムネ以下の女」


 ラムネにジェラシーを抱くとは。

 それでも大丈夫。僕はお道化者だから、こんな危機的状況でも打開策を打ち出せる。

 僕はさっそくその打開策を実行に移す。果穂が手放したパッケージからラムネを一粒取り出し、机に突っ伏したままの彼女に突き出した。


「どうも、ラムネです」


 声をわざと低くする。

 果穂の瞳は虚なままだが、顔を上げてくれた。

 また奇天烈なことを、私のお道化者の旦那はしでかして、この凄惨たる精神状態から私を救ってくれるのだろうという期待を抱いてくれていたら嬉しい。


「……なにしてるの?」


 少しだけ、いや、見間違いかもしれないが果穂の口元が揺れる。

 お道化者な僕は、その僅かな変化でさえ嬉しくなってしまい、さらに調子に乗った。


「私は今日なにもしてません。あ、いやまあ、強いて言うならね、袋の中で転がっていただけでして。あ、私?ニート。袋の中でニート。通勤、仕事なんてやってられませんねえ」


「……」


「もちろん満員電車にも乗りません。もちろんおじいちゃんに席も譲っていません」


 虚な瞳に少しずつ光が戻ってきた。落ち着きを取り戻してきた果穂の瞳は、僕をいよいよ有頂天にした。彼女にとって幸せのラムネになろうと務める。


「私はね、誰かのためになんてなりやせんのでね。口の中で転がされて、かみ砕かれて、糧にはなりますがね」


「ふふっ……」


 笑った!

 僕はこの笑顔のために生きていると言っても過言ではないかもしれない!

 彼女の笑顔は僕にとって幸せであり、安寧の象徴なのだ!

 

「あなたのほうがずっと頑張ってます。ということで」


 ラムネ役を全う仕切った僕はその役のラムネを一粒、果穂に差し出した。


「今日もいっぱいありがとう賞あげ〜るっ」


 果穂は両手を受け皿にして受け取ってくれた。しかも満面の笑顔で。


「陽くん…ありがと」


「どういたしまして」


「あ゛り゛がとう…」


 おまけに涙まで流してくれた。


「涙はもらいすぎですよ」


「ありがとう……ラムネいいね…」


「幸せのラムネですからね」


 大きくキラキラ輝いた瞳を細めて、果穂は頬に涙を伝わせたまま、一粒を口に含む。かりっかりっと咀嚼音をたてながらラムネを食べると、目尻に涙粒を残しながらこちらへ向いて口を開いた。


「……ねえ」


「うん?」


「愛してる」


「僕もだ。愛しているよ」


 エクスタシーとはこのことを言うのだろうか。僕は顔をくしゃっとさせながら果穂を抱きしめた。

 幸せだ。そしてこの幸せは幸せのラムネのおかげなんだ。

 あぁ。僕の幸せは今日も守られた。


⭐︎⭐︎


「死にたい」


 何度目かわからない『死にたい発言』をしたのは、食器を洗い終え、やることがなくなったのに、キッチンに無意味に立ち尽くしている僕。

 果穂は入浴中で、こうして一つの空間に一人取り残されてしまうと決まって僕の心中には黒いもやもやが生まれる。その黒いもやもやは僕の心を突き破り、身体の隅々までじんわりと確実に侵食していく。そして脳に達して、いよいよ僕の思考回路をショートさせ、スノーノイズを走らせる。使い物にならない思考力。ゴミ。ラムネ以下の存在。お道化者の鏡像にして、実像。

 僕はこのことを果穂に隠し続ける。だって彼女は自分がゴミであると嫌悪している。じゃあ本当のゴミである僕はどうなるの?答えは単純明快。捨てられるのだ。ゴミだもの。

 あぁ早くなんとかしないと。捨てられる。あぁ、死にたい。死のうかな……と、刃物で手首を切り刻みたいところだが、僕の身体は自発的に手よりも足を動かし、階段を上がり、二階の自室へと向かわせる。自己防衛というやつだと思う。

 自己防衛により強制的に身体を動かされている間は、思考のないまさしく霊体。力の入らない手で自室の扉をなんとか開けると、消し忘れていた机の上の有機ELの青白い電燈だけが闇夜で暗くなった部屋の中で寂しく明滅していた。だがそんなことは当然ながら今の自分の中ではどうでもよい。

 入口から無気力に、風船のようにゆらゆらと身体を揺らしながら、僕は(すが)るように机へ歩み、引き出しに指をかける。

 引き出しの中には一週間後に出版社に提出する原稿と、いつか来るべき日のために妻に宛てた手紙が。もちろんそれらは今、眼中になく、僕の視線は『大葉おおばメンタルクリニック』とそのクリニックの電話番号や受付時間などが書かれた紙の処方袋一筋だった。

 いや、厳密に言えばその処方袋の中に入った幸せのラムネが今身体が求めているものだ。黒いもやもやを消す解決策。

 袋を逆さまにして、乱暴に上下に振り、机の上に袋の中のものを乱雑に出す。いろんな名前が書かれたPTPシートが机に散らばり、様々な種類の、二十粒ほどのラムネを選んで取っては、シートから机の上に押し出す。それを一気に握り、口の中に放り込んだ。

 摂取してもう十年以上にもなる。処方されて、初めて摂取した時は味はなかったはずなのに、僕はこの味のなかったラムネを今となってはとてもとても甘く感じるのである。このラムネの甘さに気づいたのは果穂と出会ってからだが、僕は最近ようやくこの甘さの正体に気づいたんだ。このラムネの甘さの正体、それは自分が幸せであり続けたいという願いなんだ。その証拠に果穂と一緒になってからは摂取する回数は増え、一度に摂取する量も増えた。それは僕が今、彼女と一緒にいて幸せで幸せで仕方がなくて、この幸せが少しでもも長く続いてほしいと毎日毎時間毎分毎秒、真剣に願っているからなんだ。

 彼女に出会うまでの人生は生き地獄だった。

 だって彼女だけだったんだ。お道化者を演じていたとしても、僕に『愛してる』と言ってくれたのは。幸せを与えてくれたのは。

 この先も果穂以外に僕に『愛してる』と言ってくれる人も、幸せを与えてくれる人もきっといないよ。僕を捨てた親も、色気を振りまいてくる担当編集も、白痴な文章をよこす僕のファンと自称するやつらも、誰も僕を幸せにはできない。それと同じく誰も僕の幸せを奪えない。

 大丈夫だよ。この幸せのラムネさえあれば、明日も明後日も、ラムネが効かなくなるまでは幸せでい続けられるよ。


「お風呂上がったよー!」


 一階から聞こえてきた果穂のさっきまでとは打って変わった弾んだ声は至福のラッパの音のように聞こえた。


「オッケー!先にアイス食べておいてー!」


 僕の声も自然と弾んだ。


 大丈夫。お道化た夫の僕はあとどれくらいかわかないけれど、その瞬間までは幸せでいられるよ。


 僕は顔をくしゃっと綻ばせながら、あと五粒ほどのラムネをPTPシートから押し出し、ズボンのポケットに忍ばせたあと、妻に内緒でその幸せのラムネをそっと机の中にしまった。

まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!

あ、友達のように気軽に教えてくださいね!


もし仮に、上記に当てはまらず、純粋に良かったと思っていただいた場合はお星様★★★★★をお願いします。

めっちゃ喜びます(๑˃̵ᴗ˂̵)


感想はいただけるとよだれを垂らして喜びます!

もちろんいただいた感想は余すことなく読ませていただきます。

ただ返信はできませんのでご了承下さい(>人<;)

一方的に書き込んでいただく感じでよろしくお願いします!


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