第2話「にぎやかな朝」
異世界に転生した。
……らしい。
正直なところ、最初の数か月は何が何だかわからなかった。死んだこと自体はわりとすぐ気づいた。問題はその後だ。気づいたら赤ん坊になっていて、言葉も話せず、体も動かせず、ただ天井を見上げているだけの生活が続いた。時間の感覚もおかしかった。明るくなって暗くなってを繰り返しているのはわかるが、一日が前世より長い気がする。暦が違うのかもしれないし、赤ん坊の時間感覚がそういうものなのかもしれない。今もまだよくわからない。
前世の記憶はある。CWOで盾を振り回していた社会人の記憶も、トラックに大盾ポーズで突っ込んだ間抜けな最期も、全部ちゃんと残っている。ただ赤ん坊の体でできることは何もなかったので、しばらくはひたすら寝て、泣いて、飯を食って、また寝るという生活を繰り返した。自我を持った状態で幼児期を過ごすのは初めてのことで——誰だってそうだが——感情の制御が全くできない感覚は、今思い返すと妙に面白い。泣きたくて泣いているわけでもないのに体が勝手に泣く。眠くないのに目が閉じる。腹が減ったわけでもないのに口が動く。完全に体に主導権を握られていた。社会人時代も大概だったが、あれはさらに上をいく理不尽さだった。
ハイハイができるようになってからは、とにかく家の中を歩き回った。
目的は情報収集だ。どこに転生したのか、この家はどういう家なのか、親は何者なのか。赤ん坊の体でできる調査には限界があるが、耳と目は使える。両親が何かを話しているのはわかるが、最初は一言も聞き取れなかった。音の羅列としか認識できない。日本語以外を聞いたことがほぼない元社会人には当然の結果だった。仕方がないので家の造りを観察し、持ち込まれる道具や食材を確認し、表情と状況から文脈を読む作業を続けた。傍から見ればただの好奇心旺盛な赤ん坊だが、内実は情報収集に必死な元社会人だ。大きい方の親は「活発でいい」という顔をしていて、小さい方の親は「目が離せない」という顔をしていた。名前を覚えたのはずっと後の話だ。
言葉が聞き取れるようになってからは、両親の会話と家にあった本からこの世界のことを少しずつ把握していった。剣と魔法が存在する異世界で、冒険者という職業があり、魔物が出る。暦は前世とは違うらしく、一年が五百日ほどある。一日も少し長い気がする。その辺の感覚はまだ完全には掴めていないが、生活するぶんには困らない。
今は十歳だ。
剣と魔法が存在する異世界に転生して、冒険者夫婦の息子として育って、気づいたら十年が経っていた。順応が早いのか遅いのかは今もよくわからない。ただ、親は悪くないし、今のところ不満はない。
五歳の誕生日に「何か欲しいものは?」と聞かれて即答したら、翌日木と皮でできた小さな丸盾が手元に届いた。子供用の簡素なものだ。ガレンは「盾? 剣じゃなくて?」と三回確認してきた。セラは俺の顔をひとめ見て、黙って買いに行った。気持ちを読むのが早い人間だ。帰ってきた時の顔はいつもと変わらなかったが、渡してくれる手が少し丁寧だった気がした。以来、盾は磨ける。
前世の記憶があることは黙っている。子供らしく振る舞っていないと、いらぬ心配をかけそうだからだ。十歳の子供が妙に落ち着いているだけでも十分怪しいのに、前世がどうのと言い出したら目も当てられない。自然にしていると、どう考えても子供とは言えない。
「昨日の依頼な、結局ゴブリンが七十体いたぞ」
ガレンが朝飯を食いながら言った。
父親だ。魔法使いで冒険者で、朝から飯を食いながら昨日の仕事の話をするタイプの人間だ。身長は二メートル近く、黒髪短髪、胸板が厚くて腕が太い。どこからどう見ても近接戦闘向きの体格をしているのに、なぜか職業は魔法使いだ。なんでも若い頃は接近戦もこなしていたらしいが、今はもっぱら後衛で大型の魔法をぶっ放す専門だという。見た目と職業のミスマッチが激しすぎて、初めて会った人間は大抵二度見する。
「七十? 報告書には五十って書いてあったじゃないの」
セラが眉をひそめながら返した。
母親だ。剣士で冒険者で、朝から飯を食いながら依頼のツッコミを入れるタイプの人間だ。黒髪のきれいなボブヘアで、背はガレンの肩にも届かないくらい小さい。並んで座ると夫婦というより、でかい兄と小柄な妹みたいに見える。物腰は柔らかく、人の気持ちを読むのがやたらうまい。性根が優しいのが滲み出ていて、俺が何か言う前に察していることが多い。ただ剣を持つと人が変わる。なんでも若い頃は盗賊団を潰すことを生業にしていたとか。笑顔で「おはよう」と言いながら剣を研いでいる姿は、慣れるまでわりと怖かった。ちなみに胸はでかい。赤ん坊の頃はそういう感覚が一切なかったのに、ここ最近は少しだけ意識してしまっている。我ながら順調にナニが育っているとは思う。
「まあ誤差だろ。全部倒したんだから問題ない」
「誤差じゃないでしょ二十体。報酬の計算狂うんだけど」
「そこは交渉する」
「するのはいいけど今回は私が交渉するからね。あなたがやると毎回おまけで依頼増えて帰ってくるんだから」
俺はパンを千切りながら二人のやり取りを聞いていた。
毎朝こんな感じだ。昨日の依頼の話、今日の依頼の話、ギルドの噂話。内容は変わっても会話のテンポは変わらない。にぎやかで、少し騒がしくて、好きな朝だ。前世の朝食は大抵コンビニのサンドイッチを歩き食いするか、そもそも食わないかのどちらかだった。子供の頃にも似たような朝があった。ただ中学に上がる前後で家の空気が変わって、気づいたら一人で食う朝の方が当たり前になっていた。誰かと飯を食いながら話すというのが、こんなにあたりまえにある朝が、少しだけくすぐったい。
「レイはどうするんだ、今日」
ガレンが俺に向けて聞いた。
「盾の手入れ!」
元気に即答した。内心では「またこの流れか」と思っていた。
ガレンが苦笑いした。セラも似たような顔をした。
この反応にも慣れた。俺が「盾」と答えるたびに二人はこういう顔をする。呆れているわけでも怒っているわけでもない。ただ微妙に理解が追いつかない、という顔だ。二人とも武器を持って戦う人間なので、盾だけを愛でている息子の気持ちが根本的にわからないらしい。
「剣の一本くらい持ったらどうだ」とガレンは言う。「動きは悪くないんだから、ちゃんとした武器使えばもっと強くなれるぞ」
これも毎回言われる。
「盾がいい!」
これも毎回こう答える。
「なんで盾なんだ」
「すきだから!」
「とはいえ盾は武器にならんだろ……」
ガレンが言葉に詰まった。否定しようにも好きという理由には踏み込めないらしく、結局武器としての話に逃げる。毎回このパターンだ。好き、という一言の前に大人はわりと無力になる。これはゲームのコミュニティでも学んだことだ。「なんで盾縛りなの?」と聞いてくる奴に「好きだから」と答えると、だいたい会話が終わる。
「まあ、レイが楽しいならいいんじゃない」
セラがフォローした。
「手入れなんて楽しむもんじゃないだろ、これは」
「楽しいんだよ本人は。見てればわかるでしょ」
やっぱりこの人はよく見ている。何も言わずに見抜かれているのは少し居心地が悪いが、否定できないので黙って受け入れている。
俺は黙ってパンを口に入れた。
楽しい、というのはその通りだ。前世でも今世でも、盾を持っている時間が一番好きだ。ゲームの中では盾をいくら集めても手入れはできなかった。素材を消費してステータスを上げるだけで、布で拭くとか金具を締め直すとかそういうことは何もできない。今はそれができる。それだけのことが、思っていたより全然うれしい。説明できないし、説明しようとも思わない。ただ好きなものは好きで、それで十分だ。
「そういえば昨日、南通りのマルクんちの子が祝福来たって」
セラが話題を変えた。
「何の祝福だ」
「火らしいよ。朝ご飯食べながら急にてんしが降ってきたって、奥さんびっくりしてた」
俺は少しだけ耳を傾けた。
祝福——この世界では何かに深く執着する人のもとに天使と呼ばれる存在が降りてきて力が宿るらしい。マルクんちの子は確か火遊びが好きな男の子だ。ならば火の力が宿ったというのも納得できる。執着が力になる世界。ゲームのシステムとしてはわかりやすいが、実際に自分が生きている世界でそれが起きているというのは、改めて考えると奇妙な話だ。
俺が天使を見たのは、まだ一度しかない。それは俺自身に降りてきた。
二歳の頃のことだ。両親が仕事に出て、一人で絵本をめくっていた。この世界の文字を覚えようとしていた——二歳の赤ん坊がやることではないが、それしかやることがなかった。その時、ふっと部屋の空気が変わった気がした。
見上げると、天井のあたりから半透明の何かがゆっくりと降りてきた。
天使とも悪魔とも幽霊とも言いがたい、不思議な形をしたそれが、音もなく近づいてくる。まだ言葉も満足に喋れない体で、俺は完全に固まった。怖いとか怖くないとか、そういう判断が追いつかないまま、それは俺の体に重なった。
温かかった。不思議と嫌な感じはしなかった。
ただ、何が起きたのかはしばらくわからなかった。
両親はその場におらず、その頃はまだ喋ることができなかった。
両親の話を聞く限り、二歳に天使が来るなんてことはありえないらしい。下手に話せば心配をかけるか、変な目で見られるかのどちらかだ。だからそのうち「親がいない時に来た」とさらっと話すつもりでいる。嘘というほどの嘘でもない。
「マルクんとこの子、何歳だっけ」とガレンが言った。
「八つ」
「早いな。レイはまだか?」
ガレンが俺を見た。
「んー、まだ」
俺はパンを噛みながら答えた。内心では「とっくに来てますが」と思っていた。
「レイには祝福が来るかなぁ?」
少し間を置いてから、セラが聞いた。
「さあ」
「さあって。自分でわかんないの?」
「わかんない」
嘘ではない。自分の祝福が具体的に何なのかは、正直まだよくわかっていなかった。盾に関係したものだとは思うが、何ができるのかが見えてこない。まあそのうちわかるだろう。
「盾が好きだから盾の祝福じゃないか?」とガレンが言った。
「そうなんじゃないかな」とセラが言った。
二人が同時に俺を見た。親に揃って見透かされている気がして、少し落ち着かない。
「……かもね!」
俺はそれだけ答えて、残りのパンを口に詰め込んだ。
食卓がまたにぎやかになった。ガレンが今日の依頼の話を始めて、セラがツッコミを入れ始めた。いつもの朝だ。
こういう朝が、俺は好きだ。




