好きな言葉「私は私であるかぎりで、簒奪者であり、殺人者である」
私は好きな言葉がある。
それは、哲学者エマニュエル・レヴィナスの「私は私であるかぎりで、簒奪者であり、殺人者である」という言葉だ。
へへへ、カッコいいでしょ?
中二病っぽくて、なんかカッコいいでしょ?
――なーんて話ではなく、これは自分へ「戒め」の言葉だ。
私たちは人と接するとき、相手から発された断片的な情報からイメージを作り出す。断片的な情報とは、見た目や声、歩き方、生活態度、そして、言葉のことだ。それらを拾い集め、頭の中で「あの人はこういう人だ」というイメージを作り出す。
脳が情報を処理する以上、イメージを持つこと自体は仕方がない。けれど、そのイメージを「真実」と思ってはいけない。
「もしかしたら、私の知らない一面があるかもしれない」という余白は、無理矢理にでも残しておかなければならない。
でなければ、あなたが誰かを「〇〇な人間だ」と断定した瞬間、あなたは相手のことを殺している。
あなたは、そんな殺人者になってはいけない。
ナチスによる迫害を受け、人が「人間」ではなく「物」や「文字」として扱われる迫害を経験したレヴィナスは、他者の声に耳を傾け続ける重要性を説いた。
その思想の中心にあるのが、冒頭の「私は私であるかぎりで、簒奪者であり、殺人者である」という言葉だ。
【なぜ「断定」が「殺人」になるのか】
それは、『未知の存在』であったはずの相手を、自分の知りうる知識の範囲で、「〇〇(天才、馬鹿、等)」と解釈し、そのラベルを貼り付けることで、『〇〇という存在』にすり替えてしまうからだ。
あなたが「あの人はこうだから」と決めつけたとき、目の前にいる生身の相手は消え、あなたの頭の中にのみ存在する「都合のいい存在」に置き換わる。
それは、相手がこれから見せるかもしれない変化や、言葉にできない複雑な感情――つまり、相手の「生」そのものを否定する行為に等しい。
自分の理解できる範囲に相手を閉じ込め、相手から「生きている存在」という事実を奪い取ること。
これは、存在の簒奪であり、精神的な殺人だ。
「私は私であるかぎりで、簒奪者であり、殺人者である」
この言葉は、他者を定義し、分かったつもりになってしまう私たちを戒める言葉だ。エマニュエル・レヴィナスがユダヤ人であり、ナチスを経験していることを考えると、この言葉はある種の祈りとも解釈できる。
私はこの言葉が好きだ。
少なくとも、「みんな違って、みんないい」という耳触りの良い言葉を信じるより、よっぽど誠実な言葉だと思うからだ。




