02-02.
憧れである久我さんは、私にとって遥か遠い世界にいる人だ。
そう思うのに、久我さんと同じ『世界の舞台』で戦いたかった自分。
若いうちは目指す楽しさがあったものの、年齢が上がってくると、自分の考えの矛盾と目指す先の遠さを突きつけられ、そして現実が見える。
今は現在の自分を維持し、僅かでも向上させることで手一杯だ。
後から後から迫り来る若い世代に追い抜かれないように、必死に自分の地位を守ることで精一杯なのだ。
自分はどこまでやれるのだろう。
唐突に襲う不安と闘いながら、日々の仕事に忙殺されていく。
バーカウンターに立つことは、もはやワクワクや楽しいことより、苦しみや失望の方が増えてきた。
私は一体どこへ向かうのだろうか。
「――君は」
ボーッと考え事をする私の耳に、突然弘臣さんの声が聞こえてハッとする。
じっと見つめる弘臣さんは何か言いたげだ。
「何?」
「……君は、変わらず夢を追っているのだな。努力を続けられるということは賞賛に値する」
私はそう言われて、胸が鈍く痛むのを感じる。
「そ、そうよ。私は夢を追い続けるの。いつか叶えてみせるわ」
称賛なんてしないでほしい。
本当は、もうわかっている。
自分にはその実力がないことを。
「私、世界の舞台ってどんなものなんだろうって考えるとワクワクするの」
嘘だ。
世界の舞台なんて、夢のまた夢。遥か遠い世界だ。
昨年、日本国内のバーテンダーコンペに出場した際、死力を尽くして戦った。
これまでの自分で一番の出来栄えと思えるくらいの力を出し尽くした。
それなのに結果は準優勝だった。
「私には……これしかないもの……」
恋も、友情も、趣味も全部二の次にしてバーテンダーの道を突き進んできた。
それなのに、自分に残るのは失望や諦めの気持ちだなんて認めたくなかった。
『努力は必ず報われる』なんて言うけれど、それは元々才能のある人たちの言葉なのだろう。
全てを捨てて死力を尽くしても、ほんの一握りの中に入れず、溢れ落ちる者たちは数多くいる。
私はその溢れ落ちた中の一人にすぎない。
努力が足りないというのなら、これ以上の努力の仕方を教えてほしい。
そうでなければ、もう終わりにしてしまいたくなるから――
「大丈夫か?」
突然、弘臣さんに声をかけられて我に返る。
「……え?」
「顔色が悪い」
そう言って心配そうに見つめる弘臣さんに、一瞬心の緊張が緩む。
その瞬間、私の目からは涙が一粒溢れ落ちた。
焦って顔を背けたものの、弘臣さんに見られたのは確実だ。
「あー……ちょっと待って。今のは違うの。平気だから」
黙ったままの弘臣さんに対して、私は目元を拭うと自分を取り繕うように立て直す。
「本当に平気なの。問題なし。ちょっと目が痛かっただけだし」
私は無理矢理笑って見せた。
「そ、そうか。……目は治ったか?」
「大丈夫。よくあることだから」
「よく目が痛くなるのか? それなら……眼科を受診した方がいい」
「もー、そんな病院行くようなものじゃないから平気よ」
「そうか。無理はするなよ。あまり続くようならすぐに――」
「しつこい。大丈夫だってば」
体の不調に関することだけは、弘臣さんは過保護だ。
そして私の反応はかわいくない。
いろいろなことが思うようにはいかなくて、心にはチクチクと何かが刺さるような感覚がする。
積もり積もったら、私の心は針の筵のようになるのだろうか。
そうなったら、私は一人で立っていられる?
まるですぐ後ろから暗い影が迫ってくるような感覚。
逃げられそうもない不安に、私は密かにぶるりと身震いして身を縮めた。
夜、自宅マンションに帰宅した私は、スマホに母からの留守電が残っていることに気付く。
『文乃、いいかげんにこっちへ帰ってきて結婚なさい。もういい年なんだから、誰ももらってくれなくなるわよ』
私は画面をタップして留守電を消去した。
ハーッと深く息を吐き出すと、床に座り込む。
こうなってみて思う。
いっそのこと、結婚もいいのかもしれない。
夢に破れて何も残らなかった自分の全てを終わりにして、誰かと結婚して普通の主婦として生きる。
人生をリセットするのだ。
案外、やってみれば幸せかもしれない。
母の望むように結婚して子供を作る。
そうすれば、母からももう何も言われることはなく、母も幸せに思うのだろう。
辛いことからも、面倒なことからも、全て逃げ出してリセットしてしまおうか。
何も残らないくらい綺麗さっぱり……。
その時、パッと頭の中に弘臣さんの姿が浮かぶ。
『君は、変わらず夢を追っているのだな。努力を続けられるということは称賛に値する』
私のこんな弱音を聞いたら、弘臣さんはどう思うのだろう。
失望し、残念だと言うのだろうか。
がっかりされるのも、残念がられるのも、同情されるのも、全部全部嫌だ。
6年の間に私は変わってしまった。
『変わらず』夢なんて追ってはいない。
世界の舞台に立つことは既に諦め、今の自分を保つことで精一杯。
弘臣さんが称賛するような私なんて、とっくにいなくなっている。
「……言えない」




