01-05.
「はーーあーー……」
私は久我さんの店のカウンター席で盛大な溜息をつく。
「珍しい曜日にいらっしゃったと思いましたが……どうなさいました?」
相変わらず深くて低くて落ち着いた美声。癒やされる。
私は久我さんの声がうっとりとするほど大好きだ。
私にとって憧れの最上位にいる久我さん。
世界的に有名なバーテンダーで、そして弘臣さんの弟でもある。
弘臣さんとの買い物から数日、仕事が早上がりだったのを利用して、癒えない心の傷を癒やそうと、この店にやってきた。
「いいえ、何でもありませんよ」
憧れの久我さんに、その兄の愚痴なんて溢したくはない。
それより、久我さんをじっくりと眺めていたい。それだけで癒される。
「いつも通り、『サイドカー』でよろしいですか?」
そう久我さんに問われて、私は緩んだ顔と声で返す。
「はい、お願いします」
「かしこまりました」
久我さんは、ブランデー・ホワイトキュラソー・レモンジュースを手早くシェイカーに量り入れて、鮮やかにシェイクを始める。
「はぁ……癒やし……」
世界一のシェイク技術を持つと言われる久我さん。
無限大を描くかのようにシェイカーを振るその美しい姿に、私はいつも見惚れてしまう。
「お待たせ致しました。『サイドカー』です」
「ありがとうございます」
オレンジの飾り切りの添えられた綺麗な橙色のカクテル。
特に久我さんの作る『サイドカー』が大好きだ。
私は早速カクテルグラスを傾けて口に含む。
「はぁ……最っ高」
「ありがとうございます」
私好みにシェイクの強さを調整してあって、まろやかさと冷え具合のバランスが絶妙。
そして透明感のある見た目。
私には、こんなに洗練されたものは作れない。
世界一とも称される久我さんのシェイク技術により作られるカクテルは、味も見た目も確かに世界一なのだ。
(あぁ……ここ数日の鬱憤が吹き飛ぶほど美味し――)
「あれ? 堀田さん。今日いらしてたんですね」
久我さんの後ろから現れたその人の声に、私の気分は僅かに下降する。
出たな『元カノ』。
目の前に現れた女性は、久我さんの元カノ・澪だ。
元カノ。
我ながら、なんて卑屈で負け犬じみた表現だろう。
だってこの人、元は久我さんの彼女(元カノ)で……
現在は、妻・久我澪なのだ。
でも妻だなんて思いたくないから、私の心の中では元カノだと思っている。
無駄な抵抗だとわかっているけれど、認めたくないのだ。
自分はプライベートはおろか、仕事ですら久我さんの隣にいることが許されなかったのに、この元カノはその両方を手にしてしまった。
おまけにこの人、弘臣さんの秘書でもある。
いつもそばにいられるなんて、なんと羨まし……いやいや、なんて憎いんだ。
「どうも」と私が元カノに挨拶するそばで、久我さんと元カノが目を合わせて微笑み合う。
会話をしなくても通じ合っている様子の二人は、相変わらず仲がよくて結構なことだ。
私はクッと歯を噛み締めて、悔しさを追いやる。
「堀田さん、今日はお義兄さん、お仕事で来られないと思いますよ」
「知ってるわよ……。だから来たんじゃない」
弘臣さんが来るなら来ていない。
心の中でそう呟く。
そしてキョトンと首を傾げている元カノが恨めしい。
「ちょっとあなた、私のことを『顔に出やすいから顔をじっくり見ればいい』とか何とか弘臣さんに言ったらしいじゃない」
元カノはあからさまにギクッとして体をのけ反らせる。
「す、すみません……」
「人を単純バカみたいな言い方しないで」
「そんなつもりは……」
雲行きの怪しさを感じ取ったらしい元カノは、苦笑いをすると、話をすり変えた。
「そういえば堀田さん、さすがですね。お義母さんが二つとも凄く喜んでました」
「……は?」
元カノ、一体何の話をしているんだ。
私は目を点にして話を聞く。
「お義母さんのクラッチバッグ、選んだの堀田さんですよね? 最初お義兄さんに一緒に選んでくれって言われたんですけど、私、センスに自信がなくて……それで堀田さんのほうが適任だと思っておすすめしたんです」
「お、お義母さん……の?」
「はい」
ニコニコと笑みを見せる元カノを前に、私は呆然。
まさか――
「えっ、弘臣さんってマザコンなの?」
「違います違います! ちょっと事情があるだけです」
「あ……そう」
だって、つまりは母親のことを『美しく気高い女性』と称したわけでしょう? 疑いたくもなるというものだ。
確かに年上で、弘臣さんや久我さんを見る限り、美しいのかもしれないけれど……。
そもそもはっきりと「母親だ」と言って説明してくれればいいのに。
「弘臣さん、お母さんに贈るなんて言ってなかった。何なのよ、あの人……」
呆れ顔でぼやくと、元カノがクスクス笑う。
「多分、言うのが恥ずかしかったのだと思いますよ。私の時も、最初はごまかしてましたから。突き詰めていくうちにお義母さんへの贈り物だとわかったんです。お義兄さん、お義母さんのお誕生日をすっかり忘れていたらしく、ヘソを曲げたお義母さんが『今度のパーティーに持って行くクラッチバッグを買ってくれないと許さないわ!』って、お義兄さんにとっては無理難題をわざとふっかけたようです」
つまり私は親子げんかに巻き込まれたわけか。
そして最悪な気分であの日を終え……思い出しても腹が立つ。
「ところで、堀田さんはお義兄さんとけんか中? 元気がないですよね。それに何だかお義兄さんも、いつもより眉間の皺が深かったのですが……」
この秘書は眉間の皺の深さで機嫌を判断するのか。
何だその洞察力は……。
「けんかというか……『美しく気高い女性』への贈り物を選ばされた挙げ句、お礼に何か贈ろうとか言ったわりに『高額な物は贈らないぞ』みたいなこと言われて、私って『美しく気高い女性』に比べてぞんざいな扱いねって思うじゃない」
募った苛立ちがエスカレートしていき、最後の方は話しながら拳が震えた。
すると元カノは目をぱちくりさせて固まる。そして数秒後には狼狽え始めた。
「ま、待ってください、堀田さん! 贈り物のお相手はお義母さんでしたし、それに……お礼の話、たぶん誤解なさってます」
「……は?」
「お義兄さん、お礼の件は具体的に何と言ってました?」
私は嫌々ながら思い出していく。
「確か……『勘違いするな。贈るのは、高額な物ではないぞ』と」
それを聞いた途端、元カノはガクッと肩を落とした。
「すみません。お義兄さんが堀田さんへの買い物のお礼はどうするべきか悩んでいたので、『買い物に出かけるなら、その場でお好きなものを選んでいただけばよろしいのでは』と申し上げたのです。その時に『堀田さんが遠慮なさらないように、あまり高額でない物を贈るのがよろしいかと思います』と私が言いました。久我家の方々は少々金銭感覚がズレていらっしゃるようなので、気を遣ったつもりでしたが……余計でしたね」
それはつまり、元カノがそう言って止めなかったら、下手したら高額な宝飾品なんかを贈られていたかもしれないということ?
呆気にとられて目を瞬かせていると、元カノがフッと笑う。
「お義兄さんは伝え方が上手ではないのです」
上手ではない、どころではない。
あの人、なんて誤解を招く言い方をするんだ。
悪気がないのはわかる。
でも悪気がないからと言って、それでいいわけではないのだ。
「はーーあーー……」
私は再び盛大に溜息をつく。
なんだ、完全なる私の一人相撲。
お願いだからあの人、もう少し正確に伝えてほしい。
「……帰るわ」
「あ、堀田さん……」
不安げに見送る元カノに私は告げる。
「また水曜に来るわ。あの面倒な人にも伝えておいて」
すると元カノはホッとしたように微笑んだ。
「はい、お待ちしております」
私は久我さんの店を後にした。
弘臣さんに対する呆れや、考えすぎて疲れた感覚はあるものの、店に来た時よりずいぶん足取りが軽い。
あのわかりにくくて面倒な人は私を蔑ろにしたわけではなかった。
それだけで充分だった。
「はーあ、面倒な人」
私は笑みを零して家路につく。




