10-07.
すると弘臣さんは私の目を覆っていた手を避ける。視界には、弘臣さんのちょっと不満そうな顔が映った。
「『世界の舞台を諦めるな』と、『君の尊敬する源臣』が言っていただろう。つまり君には世界を目指す実力があるということだ。アイツの言葉なら信じられるな?」
その顔は嫉妬? それとも不本意だから? ちょっと棘のある言い方に私はクスッと笑う。
「久我さんの言葉もいいけど、今は弘臣さんの言葉だって信じられるのに」
そう言うと、弘臣さんは照れたように少しだけ表情を緩める。
「そうか。だったら聞け。君は気品があって華やかで知性溢れる素晴らしいバーテンダーだ。贔屓目で見ているわけではなくて……この6年、様々なバーでバーテンダーを観察してきたが、先日、君のバーテンダーとしての姿を見て驚いた。君ほど優れた腕前で所作の美しさが光る者はいなかった」
「えっ……」
「技術も高い、知識も豊富、人を惹き付ける魅力もある。これから君は更に磨きをかけて、誰をも魅了するようなバーテンダーになっていくんだ。だから乗り越えてみせろ。君がもっと大きな舞台に立つ姿を、俺は見てみたい」
そうだ、私は大きな舞台に立ちたい。もう一度世界の舞台を目指すと決めたんだ。
「ねえ弘臣さん……6年前から、あちこちのバーでバーテンダーを観察してたの?」
すると弘臣さんはフイッと顔を逸らして視線を彷徨わせ、小さな咳払いを繰り返す。
「いや……学会や出張の際に……『少し』な。君がいつも楽しそうにバーテンダーやカクテルの話をするから……『少し』興味が湧いただけだ」
私は目をぱちくりさせて問う。
「へーえー、『少し』? 『少し』興味が湧いただけなの?」
「……ああ、そうだ」
恥ずかしそうに弘臣さんは顔を逸らす。
『少し』か……。耳が真っ赤だけど。
さっきは『この6年、様々なバーで』って言っていた。だからたぶん『少し』じゃない。たくさんの場所を訪れた上で言ってくれているのだろう。
そんなにお酒をたくさん飲める人でもないし、忙しい人なのに、様々なバーを訪れて、様々なバーテンダーを観察して、その上で私を認めてくれたということなのだろう。
恋人としての贔屓目ではなく。
そう思うと、私の胸に渦巻く不安や自信のなさがサッと空気に溶けていくかのよう。
私は、この人の信頼に足るバーテンダーになりたい。
「ありがとう。弱気になってごめんね。がっかりした?」
「前にも言っただろう。君も普通の人間なんだなぁと思う、と。それに、隠しているだけで、元より君は弱い質だろう。違うか?」
弘臣さんには敵わない。どんどん私という人間の本質が露わになっていく気がする。
ただ、それを嫌だとは思わない。
「違わない。私、凄く怖がりなの」
「やはりそうか。君の強がる癖を何とかしないとな」
何とかしてくれるの? そうしたら、あなたにグズグズに甘える情けない私になりそうだけど……。
でもこの人は、そんな私をもきっと受け止めてくれるのだろう。
「おーい、そこの二人。俺を扱き使うのはいいが、話が途中だぞ」
そう言って皆川さんが笑う。
「すみません……」
「で、堀田はどうするんだ?」
「皆川さん、私、シニア降ります」
「……結局そうなるのかよ」
「ううん、東都は辞めません。ここで仕事を続ける。シニアにはどちらが相応しいか、改めて皆川さんやみんなに決めてもらいます。……佐々木さん、それでいいですよね?」
佐々木さんを真っ直ぐ見て私がそう問うものの、呆然と私を見つめる佐々木さんからの返事はない。
「それに私……もしそれでシニアになれなくても、皆川さんみたいにいきなりチーフになれるように頑張るから、シニアはどっちでもいいです」
私がキッパリとそう言うと、皆川さんはプッと笑った。
「おい、『どっちでもいい』なんて雑な扱いするなよ」
「雑なわけではないんですけど……すみません」
「大体、シニアは今のメンバーの中で堀田以外に任せることはない。これはホテル側の意向だ」
「そうなんですか?」
「ああ。それにスタッフたちにも話を聞いた。大半のスタッフは堀田を認めていたよ。特にカクテルを作る技術や所作は学びたいとか、外国人への対応は堀田がいないと成り立たないと言っているスタッフが多かった」
「そう……ですか……」
自分の努力が全くみんなに伝わっていなかったわけではなかったのだ。
「それとホテル側から佐々木にメッセージだ。佐々木が次は自分だと思っていたシニアへの昇格の件だが、今の佐々木には今後、そのポジションが回ってくることはない。シニアやチーフを目指すなら、コンペで賞をもぎ取ってこい、だそうだ」
「えっ……コンペの……賞?」
「ああ。バーのブランド価値を高めたいホテル側の新しい方針で、目立った実績のない佐々木をシニアに据えるつもりは元からなかったそうだ。ホテルの意向としては外部から実力者を迎える一択だった。年功序列で昇格もない。今後は実力と実績が重視される。方針転換。それが、堀田がシニアに抜擢された理由だ。わかったか」
「そ、そんな……」
「加えて佐々木がやったことは、店への業務妨害と取れる。従って、話を聞いた上で事実であれば、しかるべき措置を検討するそうだ。……どうせあの兄ちゃん、会話を録音してるだろうから逃げられないぞ、佐々木」
佐々木さんはくずおれるようにその場に座り込み、ガックリと項垂れた。
そこにはもう、尊ぶべきバーテンダーとしての姿も、悪意に満ちた笑みもなかった。




