10-03.
弘臣さんの声だ。
「でも……まだ――」
「許可できない」
「……だけ、ど――……っ……」
私のことなのに……。私が解決しなくちゃいけないのに……。息が苦しくて言葉が出ない。
「君はもう少し周りに頼れ。あとは皆川に任せておけばいい」
すると佐々木さんが、さも心配しているような焦った声で問う。
「堀田さん、何かご病気ですか? 急に苦しそうにし始めたので驚きました。大丈夫ですか?」
弘臣さんが黙り込むと、佐々木さんがさらに言葉を続ける。
「いやぁ、でもよかった。堀田さんにはそうやってすぐに寄ってきて助けてくれる素晴らしいお相手が『たくさん』いるんですね。もう辛い仕事なんて辞めて、お体を第一に、『そのうちのどなたかお一人』とご結婚でもなさってゆっくりしたらどうですか? バーのことは気にしなくて大丈夫ですから」
ニッコリと無害そうな笑みを浮かべてそう告げる佐々木さんの言葉に、私は目を見開いた。
何を言ってるの……? 相手がたくさん? そのうちの誰か一人?
私はハッとして弘臣さんに告げる。
「ち、違っ……い、いな……ッ……」
違う。そんな人はいない。
私が好きなのも付き合っているのもただ一人だけ。
弘臣さんだけ。
嫌だ、この人には少しも誤解されたくない。
疑わないで……。
息が苦しくて言葉が上手く出なくても、必死に首を横に振って弘臣さんに伝える。
違う……違う……。
すると弘臣さんの大きな手が、私の頭をガシガシと撫でる。
見上げると、眉間に皺を寄せる弘臣さんの顔。
よく見知ったその顔が、私をほっとさせる。
「落ち着け。わかっている。俺はこんな言葉で揺らいだりしない。大丈夫だからゆっくり呼吸しろ」
胸で滞っていた不安を震えながら吐き出すと、ポロッと涙が溢れてすぐに顔を隠した。
泣いている姿なんて弘臣さん以外に見られたくない。
佐々木さんが見れば、『女の武器を使うのが得意だ』などと言われてしまうのだろう。
私は込み上げてくる涙を、震えるほどに奥歯を強く噛んで堪える。
本当は支えられず一人で立ちたい。
そう思うのに鉛のように体が重く、視界がグラグラ揺れて立っていられない。
思うように行かない歯がゆさが、私の心を蝕んでいく。
「文乃、一旦座ろう」
私は小さく頷くと、弘臣さんに支えられて近くの椅子に座る。
何もできなかった……。
自分の問題なのに……。
「兄ちゃん、堀田は……大丈夫か?」
皆川さんの声には不安と戸惑いが滲む。
「ああ。だがこれ以上は無理だ」
「わかった。――堀田。もう俺も話に入っていいか?」
私にはもう頷くしか選択肢がなかった。
すると皆川さんが私たちの元へ近づく。
「佐々木、なんで部分的にそんなに小さい声でしゃべるんだよ。上に報告しないといけないのに、全然音が拾えなかっただろうが。頼むからややこしいことすんなよな……」
そう言って皆川さんは、録音に使うと告げたスマホを掲げてガックリと項垂れた。
「いやぁ、すみません。ちょっと喉の調子が悪くて。お聞かせするほどの内容でもなかったし、大した話はしてませんからご安心ください」
佐々木さんが皆川さんに穏やかな笑みを向けると、皆川さんは溜息をついて苦笑いした。
「お前は本当に厄介なヤツだな」
「はい?」
「これに録音されている佐々木は『ミスをしたが反省していて、堀田を労る良い同僚』だな」
「……えっ? そんなの当然じゃないですか。同じバーで働く仲間なんですから」
「あぁぁ……俺だけじゃ、ここまでの本性に辿り着かなかったな。兄ちゃんに感謝だ」
佐々木さんが皆川さんの言葉の意味を測りかねて黙っていると、皆川さんが話を続ける。
「佐々木の声が聞こえねーからさ、聞こえるところまで近付こうとしたんだけど、兄ちゃんに腕掴まれて、鬼の形相で睨まれた。怖ぇ……」
すると弘臣さんが呆れ顔で皆川さんに告げる。
「当たり前だろうが。俺たちが近づけばこの男は話すのを止めて、うやむやになって終わりだ」
「そういうことだよな……。兄ちゃんが対策してくれてなかったら危なかったな」
「ふざけるな。なぜ貴様と分け合って使わなければならないんだ。大体、貴様はアホなのか。こんな薄汚いやり方で人を陥れようとする者を相手に、正攻法で対策したところで足りないに決まってるだろう」
「いやあ、だって俺、人情派だし」
「俺が薄情だとでも言いたいのか?」
「違うって。あー、悪い悪い。本当に助かったよ」
そう言って、皆川さんは片耳からワイヤレスイヤホンを外す。
「佐々木が背中を向けてくれたおかげで、堂々とイヤホンを付けられて助かったよ。まあ俺は最初の方だけ聞き逃したが……佐々木、確認したい。お前を含めて、バーのスタッフみんなが堀田のことを邪魔に思っているのか?」
「どうして……ッ……」
佐々木さんは途端に動揺を見せる。
なぜ私にだけ囁いた会話が皆川さんに聞かれているのか、と言いたいのだろう。
そしてこれは私にとっても疑問だった。
「あぁ……この医者の兄ちゃんがな、イヤホンを片方貸してくれたからな」
すると弘臣さんが佐々木さんに告げる。
「ペン型高性能集音マイクを文乃に付けていた。少々衣服に擦れて雑音はあったが、『さっさと辞めろ』だの『夜のお付き合い』だの『あの女性ゲストには感謝』だの……俺には最初から最後まで貴様の薄汚い話が聞こえていたぞ」
そう言われて、私はハッと自分の腰ポケットに目を向ける。
ミーティングルームに入る前、弘臣さんが「お守りだ」と渡してくれたペン。
佐々木さんと話すことを怖がっていた私に、勇気を与えてくれた物だ。
「これってマイクだったの?」
「ああ」
このペンが、小さな声まで逃さず拾ってくれたのだ。
「弘臣さん、ありがとう」
ほっとする私に相反して、佐々木さんは途端に顔つきを変えた。
悪魔のような不気味な笑みを浮かべていたのに、今は血の気が引いて冷や汗を浮かべている。
人間らしさの見える怯えた顔で、小さく震えていた。




