09-01.
山場へと向かう前に、ちょっとブレイクタイム。
気力を補いましょう♪
理性的な外科医が壊れていく様をご覧ください笑
〈side 弘臣〉
「弘臣さん、明日、お仕事が終わったら何時でもいいので家に来てもらえませんか?」
退院の日、文乃は明るい表情で俺にそう聞いた。
「なぜだ?」
「入院中も、その前からもお世話になったので、お礼をしたくて。家でごはんを食べながら一緒に過ごせたらいいなって思ったんです」
退院後すぐとはいえ、自宅で共に過ごすなら構うまい。それに経過を見られて俺としても都合がいい。そうとなれば、断る理由は微塵もなかった。
「何時でもいいんだな? 必ず行く。遅くなるかもしれないがいいか?」
「はい。やったぁ」
文乃は天使のようにかわいらしい笑顔を浮かべた。
胸の内の苦しみなんて一言も口にせずに。
――翌日夕方、そんな昨日を思い出すと、俺の口からおのずと溜息が零れ出た。
「センター長、どうかなさいましたか?」
葉月が俺の執務机にコーヒーではなくハーブティーを置く。これは「少し休憩しろ」という彼女の無言の命令だ。
「いいや、問題ない」
そう答えても、葉月は俺をじっと見つめる。「何でもなくはないだろう」と言いたいのだろう。
今度は自ら溜息を溢すと、心に渦巻く靄を吐き出すように、口を開いた。
「苦しければ苦しいと言って構わないというのに……強がってみせるのはどうしたものかと思ってな」
そうぼやくと、葉月は数秒何かを考えた様子を見せ、微笑みを向ける。
「そうですね……本当は言葉にすると楽になるのでしょうけれど……それに心が支配されてしまいそうで、怖くて言えない時もあると思いますよ。だから考えないようにしているのかもしれません」
葉月の言葉がグサッと胸に刺さった。文乃もそんな思いを抱えながら笑っていたのだろうか。
「もっとわかってやらなければな」
「そう思えているのならば、きっと大丈夫です」
「そうか。俺は何をしてやればいいと思う?」
もっと文乃を安心させられたらいいのに、そうできない自分が不甲斐なくもどかしい。
「では、まずは今日の執務をいち早く終わらせ――」
「それは無論だ」
「あとは、ただそばにいて差し上げればいいと思いますよ」
「それだけか?」
「はい。それが大事なんです」
「そうか」
ただそばにいる。
俺にできることなんて些細だ。
だからこそ、全力でただそばにいてやりたいと決意する。
仕事が長引いてすっかり夜遅くになってしまったが、文乃は寝ずに待ってくれているらしい。俺は急ぎ文乃の家へ向かった。
インターホンを鳴らして玄関ドアが開くと、パッと顔を綻ばせる文乃が見えた。
「弘臣さん、おかえりなさい。……あ、違った。お疲れ様……」
尻つぼみに声が小さくなる文乃は、照れた顔で俯く。
これは……俺の妻か?
いやいや、まだだ。まだ娶ってはいない。
頭を横に振って雑念を振り払う。
そして水曜に店で会う時とも仕事の時とも違う、温かそうなゆったりとした服を纏う文乃。
なんとかわいらしい天使――いやいや、落ち着け。
俺は再び頭を振る。
今夜はただ文乃のそばにいるために来たんだ。
「お、遅くなってすまない」
「ううん。私、夜型だから平気。あがって」
温かな部屋に入ると、文乃はくるりと俺に向いて、遠慮気味に俺を見つめる。
「どうした?」
「ギュッて、してくれないの?」
しっ、していいのか?
俺は今夜、ただそばにいるために……そばにいる……ために……ッ、そうだ、抱きしめれば、もっとそばにいられる。
よし。
俺は文乃の腕をそっと引いて抱き留める。そして華奢な体を壊してしまわないように、細心の注意を払って腕に僅かに力を込めた。
「今日は変わりなく過ごしたか?」
「うん」
ギュッと抱きつく文乃がかわいい。
文乃の髪からは、ほんのりと花のような甘い香りが漂う。
ああそうか、夜も遅い。風呂に入ったのだろう。
だったら、仕事帰りの俺がこれ以上汚すのもどうかと思う。
腕を緩めて文乃を解放しようとすると、文乃が俺のジャケットを掴んで留める。
「キスは……してくれないの?」
照れて目の泳ぐ文乃がかわい――いや、待て。
しっ、していいのか?
俺は今夜、ただそばにいるために……そうだ、キスをすれば、さらに近くにいられる……か?
文乃の怒濤のかわいらしさに、少々処理能力が追いつかなくなってきた。
だが、文乃の望みならば叶えよう。
手のひらで頬を包み、艶めく唇に指でそっと触れると、その柔らかな感触にゴクリと唾を飲み込む。
そしてそっと触れるように唇を重ねると、文乃はムッと口を尖らせた。
「ちゃんと……して」
「ちゃんとって何だよ」
この会話はつい先日もした気がする。文乃も同じことを思ったのか、クスッと笑う。
「治療じゃなくて」
「わかってる」
「今度はちゃんと――」
わかってる、と返す代わりに、文乃の唇を甘噛みする。
「こうでいいか?」
自分でねだったくせに顔を真っ赤にする文乃は、手練れなのか初心なのかよくわからない。
「あなたには、もう少し間くらいのキスはないんですか?」
「何だそれは」
「……何でもありません」
間、とは、『そっと』と『情欲的に』の間、ということか。
「わかった。研究しておこう」
「研究……」
クスクス笑う文乃に導かれ、ジャケットを脱いでソファーに身を沈めた。




