08-06.
身を縮めて肩を震わせていると、弘臣さんが背中に手を添えてくれてハッと我に返った。
気が付けば、いつの間にか呼吸が浅くなっていた。
「文乃? 無理ならここまでにしろ」
「……ううん、大丈夫」
うまく笑えずにこわばった顔で笑みを向けると、弘臣さんは眉間に皺を寄せて私を見つめる。
「大丈夫ではないな。一旦背筋を伸ばして肩を開け。ゆっくりと深呼吸をしよう」
「はい……」
私の背中と肩に触れながらケアをする弘臣さんと、それに大人しく従う私。
気がつけば皆川さんが目をぱちくりさせて私たちを眺めていた。
「なあ、お前らいつの間にそういう感じになったんだ? さっきから兄ちゃんが堀田のことを名前で呼んでるから気になりはしたんだ。気のせいじゃなさそうだな」
すると弘臣さんの目が不満そうに細められ、皆川さんに向けられた。
「『兄ちゃん』だと? 貴様の兄になった覚えはない」
「えっ、そこ? 面倒くさい人だな。源臣の兄ちゃん、略して兄ちゃんで許してよ」
「バーテンダーの連中というのは、なんでもかんでも源臣基準だな」
「源臣が業界では有名人なんだから仕方がないだろう」
源臣基準――それは、私にも思い当たることで……。
私は弘臣さんの白衣の袖をクイッと引っ張った。
「弘臣さん、ごめんね。私も最初そうだったから……」
私なんて久我さんの身代わりにしたくらいだ。最低中の最低だ。
「弘臣さんは弘臣さんなのに……」
「だ、大丈夫だ。気にするな」
「本当に?」
「ああ。そもそも、君のことなら何でも許――……何でもない」
「えっ?」
ゴホンゴホンと咳払いをする弘臣さんの耳が真っ赤だ。
「す、少し気持ちが落ち着いたみたいで安心した。無理はするなよ」
「あ、うん。ありがとう」
私たちのやり取りにニマニマと頬を緩めた皆川さんは、「よし」と自らを引き締めるような声と共に表情も引き締めた。
「――で、佐々木のことだが……堀田が入る前、当時のシニアが店を辞めて、次のシニア候補が佐々木だったことがわかっている」
皆川さんの言葉に、私は目を見開く。その状況は身に覚えがあった。
「それって……」
「ああ、そうだな。堀田も味わっただろう。次のチーフの座を、突然どこからともなくやってきた俺に掻っ攫われた屈辱」
元チーフの喜多見さんが退職することを聞かされた時、次のチーフは現シニアである私だと思っていた。次のチーフ候補としてスカウトされた経緯もあって、なおさら期待する気持ちが強かった。
悔しかったその時の思いがよみがえる。
私には佐々木さんの気持ちが理解できる……。
「つまり佐々木さんは……自分が当然なると思っていたシニアの座を、私に奪われたということですか?」
「そうなる」
その辛さは、天から地へと突き落とされるような感覚。自己否定で心が真っ暗闇に落ちていく。私自身も味わったことだ。
もちろん皆川さんのことを受け入れられなかったし、憎く思ったりもした。でも――
「私は……皆川さんがチーフになると決まった時、確かに悔しかったです。でも、だからといって皆川さんの邪魔をしようとか何か危害を加えようとかは思いませんでした。皆川さんの方が実力が上なのもわかっていたし、そんなことをすればバーに迷惑がかかります。もちろん、自分の実力不足を嘆きはしましたが……」
「そうだな。そこが堀田と佐々木で違うところだ。恐らく佐々木は、未だに堀田がシニアになったことを納得していない。受け入れられていないんだと思う。もしかしたら、自分の方が実力は上なのにどうしてだ、とでも思っているのかもな」
すると弘臣さんが顎に手を当てる。
「皆川、実際どうなんだ? 文乃と、その佐々木とかいう者、どちらの実力が上なんだ?」
「うーん、そうだな……堀田は、技術はダントツ。それに充分な経歴・カクテルへの確かな知識を有している点が優れている。それに対して佐々木は、社交性・人当たりの良さ・幅広い知識量という点では堀田の上だろう。そういう意味では、それぞれの持ち味が違うからどっちが上とか判断しにくいな……。まぁ、最近は堀田も人当たりの良さが少しずつ磨かれてきたから、堀田の方が少し上に出たかなってところだ」
それを聞いて弘臣さんがククッと笑い出す。
「文乃は人当たりの良さで負けるのか。もう少し磨かねばな」
「……弘臣さんには言われたくないんですけど」
「何を言う。君は接客業だろう。俺は違うのだから一緒にするな」
「それは……そうですけど……」
それでも弘臣さんには言われたくないと思ってしまうのは失礼だろうか……。
「それで皆川、なぜ文乃がシニアになったんだ?」
「恐らく、ホテル側として後々看板にしやすい堀田の経歴を重視したんだろう。まあ、俺でも堀田をシニアに選ぶな」
「なるほどな。それを佐々木というやつが納得できていないということか」
「年齢も佐々木の方が3つ上だからな。自分より若い堀田に奪われて悔しかったんだろう」
「年齢など、実力に関係ない」
「そうやって納得できないやつが世の中には大勢いるもんなんだよ。兄ちゃんだって、その年で偉いんだろ? 恨んでるやつの一人や二人はいるんじゃないのか?」
すると弘臣さんはフンと鼻で笑った。
「どうでもいいな。俺は自分の実力を上げることと患者を助けることにしか興味がない」
「やっぱ兄弟だな。源臣も似たようなことを言ってた。どっちもポテンシャルが高いんだよ」
皆川さんの言葉に私も同調したい気持ちだ。
久我兄弟はメンタルの強さはもちろんのこと、自分の実力に対する揺るぎない自信も垣間見え、そこへ実際の能力や才能が付いてきている。だから外からの風当たりなんて気にならないのは当然なのかも知れない。
自分に自信のない私にとっては、そういう強さや輝かしい才能が羨ましく感じられる。
「堀田はどうしたい?」
「え?」
「佐々木のことだ。今回の女性客のことに関しては、佐々木にミスなり非なりがあると見て間違いない。まだ佐々木から直接話は聞いていないから俺もわからないことが多い状態なんだけどな」
私は俯いて考え込んだ。
皆川さんの言うとおり、まだわからないことが多い。
女性客にされたことを思い出すと、未だに体が震えるくらい怖い。
私がゲストの顔を覚えられず、ゲストの望むカクテルを出すことができなかったのだと思ったからだ。
私のミスで店の評判に傷を付けてしまったと思った。
ゲストをあんなにも怒らせたのも初めてで、心底怖かった。
バーテンダーをやめろと言われて、やってきたこと全てを否定されたようなショックを受けた。
それがもし佐々木さんによって仕組まれたことなのだとしたら、許し難い。
でも、図らずもポジションを奪ってしまったことで恨まれているとしたら、佐々木さんに同情する気持ちもゼロではない。
「皆川さん……私、佐々木さんと話がしたいです」
震える体を押し込めて、皆川さんにそう返事をすると、皆川さんは顔をしかめた。
「佐々木は頑固なところがあるらしいからな……簡単に非を認めるかわからないぞ。大丈夫か?」
大丈夫かと問われると、怖さが先立つというのが本音だ。
「大丈夫です」
「文乃」
不意に弘臣さんに呼ばれる。
「な、何?」
「大丈夫ではないだろう?」
この人にはすっかり隠せなくなってしまったようだ。
「でも話をしないと前には進めないから……」
そう伝えると弘臣さんは黙ってしまった。
すると皆川さんが少し考え込んでから口を開く。
「よし、じゃあ、ここまで来たら兄ちゃんも同席でいいだろう。ただし、余計な口は出さないこと。堀田の体調管理のため、同席を許可するってことでどうだ?」
「皆川さん、待ってください! 弘臣さんは仕事が忙しいのでこれ以上は……」
「ああ……そうだよな。悪い」
私の仕事のことに、多忙な弘臣さんをこれ以上巻き込むのはどうかと思う。
そう思っているのに――
「予定は空ける。俺には優秀な秘書がいるからな。何とかなるだろう」
そう言って弘臣さんが私に微笑みを向ける。
申し訳なさでいっぱいなのに、どこかほっと胸を撫で下ろす自分がいる。
「ごめんね、弘臣さん……ありがとう」
「いい。気にするな」
その後、弘臣さんは仕事に向かい、皆川さんも帰っていった。
賑やかだった病室が静まり返ると、私は皆川さんの話を思い出す。
佐々木さんがシニア候補だったこと、そしてそのポジションを奪った私を憎んでいるようだということ。
佐々木さんはどんな気持ちで日々の仕事をしていたのだろう。何
も気付かず、シニアとして仕事をしている私をどう見ていたのだろう。
考えると体にゾクッと寒気が走った。
恐らく、佐々木さんは私が辞めることを願っているのだと思う。そして今度こそ佐々木さんがシニアのポジションに就きたいのではないだろうか。
『佐々木さんと話がしたい』――そう言ったのは自分だけれど、迷い、そして恐れている自分に支配されそうだ。
「何を話せばいいんだろう……」
気持ちを静めてほしい。
嫌がらせをやめてほしい。
私を認めてほしい。
どれも私の本心ではあるけれど、言ったところで佐々木さんに響くのだろうか。
「怖い……」
そう思う気持ちを止められない。
息苦しさを感じて、必死に呼吸を整える。
表面を覆う自分の強さは、あくまでも仮面でしかない。
こんなにも脆くて弱い自分が虚しくて、そして悔しい。
でも私には支えてくれる人がいる。
皆川さんが、そして何より弘臣さんがそば支えてくれる。
私は震える手を握りしめて前を向いた。




