08-05.
翌日午前、皆川さんが私の病室にやってきた。
「すっげー特別待遇だな」
室内のソファーに案内すると、開口一番にそう言われた。全くもって自然な反応だと思う。
「ええ。私は普通の部屋でいいって言ったんですけど……」
そばで待機する弘臣さんにチラリと目を向けると、一度首を横に振る。ダメ、らしい。
「ふぅん。……ああそうだ。これ、見舞いな。体調はどうだ? 入院したって聞いて心配してた」
有名洋菓子店の紙袋を受け取りながら私は苦笑いする。
「入院って言うと大袈裟なんですけど……」
すると弘臣さんが眉根を寄せて口を挟んだ。
「何が大袈裟だ。酷い過呼吸発作を起こして、一度は意識消失までしてるんだ。当たり前だろう」
「す、すみません……」
「……まぁ、俺が原因でもあるが」
「それは……たぶん違う。全く関係ないとは言わないけど……根本は違う」
過呼吸発作が起きている根本の原因は、仕事での女性客とのトラブルだ。未だにあの女性客とのことを思い出すと息苦しくなって、考えるのをやめる状態なのだから。
すると皆川さんが驚きと焦りを混ぜたような顔で弘臣さんに問う。
「堀田は、結構深刻な病状なのか?」
「検査結果として目に見える異常はなかった。だが、問題ないとは言い難い」
「そうか……」
「あまり刺激しないでくれ。過呼吸発作は起こりやすい状態だ。負担になるなら途中で止めるぞ」
「ああ、わかった。とりあえず、今から話すことは個人情報を含む内部情報だ。外部への漏洩は避けたい」
「心得ている」
「よろしく頼む」
皆川さんは弘臣さんにそう告げると、私に視線を移す。
「堀田、本当にすまない」
「えっ?」
「俺がもっと早く対処できていれば、今回のことは防げたかもしれない」
「そ、そんな、皆川さんが謝ることでは……」
「いいや、バーで起きたことの全ての責任は俺にある。チーフとして至らなかったことを、心から申し訳なく思う。本当にすまない」
そう言って、皆川さんは頭を下げる。
「皆川さん、やめてください」
「今日は、あの日に起きたことを説明するために来た。体に無理のない程度に話を聞いてほしい」
「……はい、よろしくお願いします」
皆川さんは姿勢を正すと、初めて見る硬い表情で話し始めた。
「堀田。あの時の女性客はな、昨年11月中旬と12月初旬に計2回、水曜に来店している。水曜は堀田が休みの曜日だろう。だから堀田はあの女性客を見たことがなくて当然なんだ」
「そう……ですか……」
つまり新規のゲストではなかったけれど、私にとっては初対面だったということだ。
「その女性客来店時は俺もまだ東都にはいなかったから、俺もあの客のことは知らなかった」
「そうなりますよね……」
「で、問題はほかのスタッフだ。五十嵐は、2回の来店時いずれも資格試験の講習会があったとかで、ちょうど休んでいる。だからあの女性客のことは、五十嵐も知らなかったそうだ。だが、ほかのスタッフは2回の来店時いずれも、もしくはいずれか出勤している。しかも2回目の来店時は、あの女性客がちょっとしたトラブルで声を荒げたらしい。だから佐々木を除くほかのスタッフはみんな、その女性客のことを少なからず覚えていた」
「スタッフ……みんな……?」
「あぁ、そうだ」
ということは、私にあの女性客が新規の客だと伝えた彼も――
「佐々木さんも……覚えていたはずですよね」
佐々木さんは決してゲストの顔を覚えるのが苦手なタイプではない。だからこそ、店で来店客の案内を率先して担当し、スタッフに情報を伝えてくれている。ましてそのようなトラブルがあったならば、佐々木さんほどの人が少しも覚えていないとは考えにくい。
「恐らくそうだろうな。……実は俺がチーフとして勤め始めてから気になっていたことがあるんだ。佐々木が堀田に、わざと面倒な客を押し付けているんじゃないか、ってな」
突然の言葉に、私は体を凍り付かせた。
「えっ……私がシニアだから、ではなくて……?」
皆川さんは硬い表情のまま首を横に振る。
「何度か見かけたんだが、佐々木は自分も手が空いてるのに、わざわざ堀田に来客を知らせに行っている素振りがあってな、おっかしいなーとは思ってたんだ」
「そう……なんですか……?」
「ああ。それで注意して見るようにしていたら、どうもそういう時に限って、堀田は面倒な客に当たっている。まあ、お前自身の問題がゼロとは言わないが……わざとお前が苦手とする素人客を担当させたり、わざと問題ありそうな客をお前に回している」
どうして佐々木さんがそんなことを……。
「そして今回の女性客だ。最初の来店時に、アレキサンダーのことをやんわりと指摘されて、担当したスタッフが作り直している。2回目の来店時に気付けばよかったんだが、どうやら1回目の来店時に担当したスタッフが、顔は覚えていたがオーダーは覚えていなくて、もう1回ミスったらしくてな。それで女性が声を荒げて怒ったらしい。そんなトラブルがあったことを、休み明けの堀田に伝えるはずだったのが、自ら手を挙げた佐々木だ。だが堀田には一切伝えられてなかったんだよな?」
そんなトラブルがあったなんていう話は一切聞いていない。私は黙ってただ小さく頷いた。
「――で、ダメ押しの3回目で、何も知らない堀田が担当したわけだ」
それは……腹を立てられても仕方がない部分もある。
あるのだが――
「だ、だからといって、あんなに怒るのは……」
「そうだな。カクテルをかけるのはさすがにやりすぎだ」
すると――
「おい皆川、ちょっと待て」
眉間に深い皺を寄せた弘臣さんが口を挟んだ。
私に向ける穏やかなものとは違う、鋭い目が皆川さんに向けられる。
「何?」
「客とのトラブルとは、文乃がカクテルをかけられたことだったのか?」
「ああ、そうだ」
「そんなの立派な暴行行為じゃないか。しかもアルコールが目に入れば角膜に傷がつくこともあるんだ。どう考えてもやり過ぎだろう」
弘臣さんの硬く握られた拳が小さく震えていた。
それは少なからず私にも影響し、事の重大さを感じ始めていた。
「その通り。いくら何でもあれは危険な行為。堀田、目には異常はないんだな?」
「は、はい……カクテルがかかったのは、目より下でしたから……」
そうは言いつつ、あの冷たい感覚を思い出すとすぐに体が震え始める。
寒くて、怖くて、息の詰まる感覚……。
「それは本当に幸いだった。だが、幸いだったというだけだ。目に入ってなかろうが何だろうが、暴行には変わりない。ホテル側としては事を荒立てたくない気持ちはあるものの、従業員を守る義務もある。仮に今回のことで堀田が被害届を出すなり、あの女性客を訴えるなりするとしても、ホテル側としては絶対に堀田をこの件で辞めさせるようなことはなく、全面的にサポートし、共に解決するという言質を取ってきた。ましてや、こんな入院する事態になっているんだからな。だからそうしたいというのなら俺に言ってくれ。絶対に一人では闘わせない。俺が堀田と一緒にホテル側と話をする」
被害届? 訴える? そんなにも大事になっているとは思ってもみなかった。
「そ、そんなこと……。私は皆川さんにもホテルにも、迷惑がかかるようなことはしたくありません。それに皆川さん、言ったじゃないですか。『どんな客でも尊敬の気持ちを常に持て』って」
「確かに言ったが、それは客がきちんと客であった場合だ。横暴な客にまでそうする必要は無い。俺たちにだって限度というものがある」
そう言われて私は震える手を隠して目に力を込める。
「訴えたりしません。私は……あのゲストを満足させられなかったのが悔しい」
そんな私の言葉に、弘臣さんは眉根を寄せて頭を抱えた。
「君はどこまで仕事人間でお人好しなんだ。シニアだから仕方がないと言って面倒な客を引き受けて……そうだ、前に来ていた柳本とかいう客のことも訴えずに済ませただろう」
すると皆川さんが訝しげに弘臣さんに目を向ける。
「何だそれ?」
「セクハラだ。わざとカクテルを溢して、片付ける文乃の手を握っていた。おまけにホテルの評判を盾に取って、美しい見た目どおり楽しませてくれればいいだの何だのと、聞くに堪えない暴言を連ねていたんだ」
「そうか……。その客も、もしかしたら佐々木が仕向けたのかもしれないな。アイツ……とんだ猫かぶり
じゃないか」
「あー、くそっ……」と皆川さんは悔しげに項垂れる。
そういえば、柳本様を一度目に接客したのは佐々木さんだった。
二度目の来店時、『僕は別の接客中なので、堀田さんお願いできますか?』と言われたことを思い出す。それから柳本様の担当は私になったのだ。
「皆川さん……私、佐々木さんに何か……恨まれているのでしょうか?」
「ああ、恐らくな」
「どうして……?」
私は震える自らの体を腕で抱え込む。少しでも恐怖心を逃がしたくて堪らない。
佐々木さんは穏やかな人柄で、皆にも慕われ、仕事もよくできる優れたバーテンダーだ。
仕事上でのトラブルも特になく、私が佐々木さんに直接何かを言った覚えもない。
……何も思い当たる節がない。
それが余計に怖さを増した。




