08-04.
入院2日目の朝、白衣姿の弘臣さんが病室を訪れた。
「文乃、おはよう。体調はどうだ?」
「うん、平気」
病院を移っても相変わらずだだっ広い個室に入ることになった私は、診察をしてくれる医師の姿の弘臣さんを惚けたように見つめる。
昨日は私服姿だったのに、今日は白衣姿。それだけで私の心はちょっと躍ったのに、『文乃』と名前を呼ばれた。しかも髪はピシッと整っているのに眼鏡をかけていなくて、美しいご尊顔にベールがかかっていない無防備さ。
心躍るどころか息苦しいほどだ。
「なんだ、どうかしたか?」
「えっ!? えっと……弘臣さん、今日は眼鏡をかけていないな、って思って」
「ああそれは……眼鏡があると不便だと思ったんだ」
不便って何が? と問う間もなく弘臣さんの顔が近づいて、そっと唇が重なる。
そしてゆっくりと離れていった弘臣さんは――
「ああ、やはり邪魔にならないな」
そう言って満足そうな笑みを浮かべる。
唐突なキスに、私の顔面は突沸するように熱が集まった。
「さて、君の今日の予定だが――」
「ちょっ……待って!」
「ん?」
「なっ、何……今の」
「……嫌だったか?」
「い、嫌じゃない……けど……」
「ん?」
「弘臣さんが急にそんなことをするから……し、心臓が……壊れそうなくらいおかしい」
すると弘臣さんは顎に手を当てて考え込む。
「これはたぶん、聴診器を当てたら君が怒る類の話だよな?」
「当たり前でしょ! ……っていうか久我先生、眼鏡をかけない理由が不純すぎではありませんか?」
「急に『先生』なんて呼ぶな。患者に不埒なことをしている気分になる」
「私も一応患者ですけど」
「そうだが……君は別だ。そもそも不純で結構。元より純粋というつもりは毛頭ない」
弘臣さんの不遜な態度に辟易しつつも、それなら、と思いつく。
「せっかくだから――」
私は弘臣さんのきっちりと整った前髪をクシャクシャッと崩して下ろす。
「おい、何をする」
恥ずかしそうに前髪を戻そうとする弘臣さん。
「えー、このほうがいいのに」
「あのな……あまり若く見られるのも困るんだ」
「それでいつも、ぴっちり眼鏡なの?」
「ぴっちり眼鏡……」
「こっちのほうが、私は……好き」
私がそう言って再び前髪を下ろすと、弘臣さんの眉間にキュッと皺が寄る。
「そ、そうか……」
口元を手で覆って顔を背ける弘臣さん。今度は前髪を戻そうとしなくてそのままだ。耳が赤い。かわいい。
そしてこれは弘臣さんの鉄壁が崩れた証拠。よしチャンス。
「あのね弘臣さん、私、もう帰りたいな。退院してもいい?」
とちょっと甘えた声で言ってみる。
すると弘臣さんの眉間に深い皺が刻まれ、ギュッと抱きしめられた。
「どうした? 何か不都合なことがあったか? 改善に努める」
「そ、そうじゃなくて……さっき廊下を少し歩いたんだけど、居心地が悪くて……」
「すまない。具体的にどの場所の居心地が悪かった? それともスタッフの態度が悪かったか? そんなヤツを雇った覚えはないが、どのスタッフか言ってみろ。徹底的に指導を――」
「違うの! そうじゃなくて……スタッフさんたちがみんな……妙に温かい目で私を見ている気がするの」
「温かいならいいんじゃないか?」
「良くない! だって――」
すれ違う病院スタッフたちが、口元を緩めて会釈をして通り過ぎていく。そして「仲良しでいいわね」「坊ちゃんをよろしく」なんて声をかけられる。「坊ちゃん」とは弘臣さんのことだろう。
「そ、そうか……『坊ちゃん』は改めさせる」
「そういうことじゃなくて! あーもう、恥ずかしい……」
とにかく居たたまれないのだ。
「プライベートに口を挟むなと伝えておく。そして君の退院はまだ許可できない。君は過換気症候群を発症した後に発熱し、さらには意識消失したんだ。大人しく検査を受けろ」
ダメか……。
すると弘臣さんが私を見つめる。整った顔で綺麗だなぁ……なんてポーッと見入っていると、弘臣さんの顔が近づいて、また私の唇にキスをする。
「さあ、少し話したいことがあるんだ」
「ちょっ……ちょっと待って!」
「何だ。どうかしたか?」
「さっきから、場面転換みたいにキスするのはやめてよ!」
「場面転換……」
私からしたら唐突すぎてタイミングが計れないから心臓に悪い。
「先ほど君は嫌ではないと言っていたからな。いつしてもいいと思ったんだ。……それに、もう何度もしただろう」
何度も? それってもしかして『治療』のこと?
「えっ、だってあれは、弘臣さんが『治療』って言い張ったじゃない」
すると弘臣さんはクスッと笑う。
「そんなわけはないだろう。……まあ、最初は確かに治療だった。でも君が俺を焚き付けたせいで変わってしまったんじゃないか」
からかうように笑うこの人は、慣れてるんだか慣れてないんだかよくわからない。
「今のだって……ずいぶんナチュラルにキスをするんですね」
「したいと思ったからしただけだ。嫌なら避けろ」
「嫌なわけないじゃない。避けません」
はっきりそう答えると、弘臣さんはフッと笑う。
「そうか」
突然のキスも、そういう嬉しそうな顔も心臓に悪い。
「文乃?」
そうやって名前を呼ばれるのもドキッとする。
こんなにドキドキばかりしていて、私は果たしてこの先身が持つのだろうか。
「は、はい」
「君の仕事のことだ。少し話していいか?」
仕事――その言葉で、浮かれていた心が一気に沈み込む。私のミスでゲストを怒らせた、あの日のことだろう。
「は、はい……」
身を縮めて肩を震わせていると、弘臣さんが背中を摩ってくれる。その手は大きくて温かで優しい。
「そんな顔をするな。君に不利益な話ではない。だからどうか落ち着いて聞いてほしい」
「えっ……」
困惑しながらも弘臣さんに頷きを返すと、弘臣さんが硬い表情で話し始めた。
「皆川から、君と客との間にトラブルがあったということを聞いた。それについて、すぐに皆川が調べたらしい。その結果、君には大きな落ち度はないという結論に至ったそうだ」
落ち度がない? ゲストを怒らせたのに?
「えっ……どうして?」
「君とトラブルがあったという客は、過去に二度、水曜に店を訪れていたそうだ」
水曜――つまり私が休みの曜日だ。
「だから君は面識がなくて当然だそうだ」
そう聞くと、ほっとして涙が込み上げる。
私がゲストの顔を覚え損なったわけではなかったんだ……。
「そ……そっか……よかっ……ほんとに、よかった……ッ……」
「そうだな」
「うん……」
弘臣さんは私の頭を労るように撫で、包んで守るように抱きしめてくれる。
「これ以上のことは俺には話せないと皆川に言われた。検査結果に異常がなければ、明日午前、皆川がここに来る。その時に君が詳しく聞け」
「は……はい……」
詳しく聞く。あの時のことを……。
思い出すと、恐怖が甦って手足がカタカタ震え始める。
すると弘臣さんが私を抱きしめたまま頭をくしゃくしゃっと撫でてくれた。
「大丈夫だ。皆川が来る時は、俺も同席する」
弘臣さんが? でもきっと弘臣さんは忙しい。私の仕事のことなんだから「一人で平気」って言わなくちゃいけない。それなのに一人で立ち向かえない私は、なんて情けないのだろう。
「弘臣さん……ごめんなさい……本当に……ッ、ごめんね」
「何を謝ることがある」
「だって……甘えてばっかりで……」
すると弘臣さんの繊細な指が私の涙を拭う。
「君に甘えてもらえるのは、俺だけの特権だと思っている。違うのか?」
この人はどこまで私に甘いのだろう。弘臣さんの優しさが胸に染みて、キュッと苦しい。
「……違……わない」
「そうだろう? だったら俺からその特権を奪うな」
「……ありがとう。よろしくお願いします」
「ああ」
私もいつか同じように、私だけの特権で弘臣さんに甘えてもらいたい。いつか、必ず。
涙が落ち着くと、弘臣さんが腕の力を緩めて私を視界に入れる。
私を瞳に映して見つめるその表情は、キリッと引き締まっていた。
「今度は君の体調についてだ。最低1週間程度仕事を休むこと。これは担当医である俺からの指示だ。皆川にもそう伝えてある。繁忙期の疲れもあるだろうし、大事を取れ」
「……はい」
「それともう一つ。少なくとも数日は入院して様子見だ」
「え? でも、私そんな重病なわけでもないし、家で――」
「ふざけるな。あんな意識消失するようなのを見せられて、家に一人でなんて放っておけるか」
「……忙しいのにごめんなさい」
心配をかけていることに申し訳なさでいっぱいになっていると、弘臣さんが私の頭をガシガシと撫でた。
「いい。俺が気が気ではないんだ」
今し方のキリッとした顔は少しだけ崩れ、憂いが滲む。
さっきまでは『久我先生』で、今は『弘臣さん』なのだろう。
「ありがとう、弘臣さん」
「ああ。大人しく俺の目の届くところにいろ。いいな?」
この人は無意識なのだろうけれど……あーもう、本当に私の心臓は持つのだろうか。
弘臣さんの何気ない甘い言葉にドキドキして堪らない。




