08-03.
昼時、ベッド上のテーブルに乗った昼食を前に、私は狼狽していた。
「あの、弘臣さん」
「なんだ」
「食べにくいです」
弘臣さんが、私をじーーっと見ているのだ。
「気にするな」
「無理! 何? どうしてそんなに見るの?」
「君を見る権利を得たから」
「……別にこれまでだって、普通に権利くらいあったじゃない」
「いいや。これまでは気味が悪いと思われてはならないからな、一度に見るのは友人として許される範囲内で、5秒以内に留めていた」
この人、私と会っている時にそんなことを考えてたんだ……。
「そ、そう……」
「だが、これからは何秒見ても許されるのだろう?」
それは……友人ではなく恋人になったから、ということなのだろう。
私の顔にじわじわと熱が集まる。
「ゆ、許されるとかそういうことでは……」
「見てはいけないか?」
「いけなくはないけど、食べている間はちょっと……」
「そうか」
諦めて視線を外した弘臣さん。
でも私がおずおずと昼食を口に運ぶ間も、弘臣さんは時折、甘さを含んだ視線で私を見つめる。
バーで会っていた時とは明らかに違う、私を愛おしむような優しい瞳だ。
「このあと、15時までには移動するぞ」
「あ、はい……」
もう少し詳しい検査をするため、病室を弘臣さんの勤める『久我病院 脳・心臓外科センター』へ移すらしい。
すると弘臣さんが「そうだ」と何か思い出した様子。
「選べ。車椅子と俺、どちらにする?」
「何の話!?」
「移動手段だ」
「……車椅子はわかるけど、『俺』って何?」
「俺が運ぶ」
さあ任せろ、と言わんばかりに、弘臣さんは腕を広げる。
ねえもうほんと、何言ってるのこの人。
「あ、歩きます……」
「安定剤を使った影響で、恐らく少しふらつくぞ」
「それなら支えてくだされば充分なのでは?」
「……そ、そうか」
弘臣さんの眉間に少しだけ皺が寄って眉尻が下がる。そして広げていた腕がシュンと下ろされた。
……何それ、かわいい。
「あの、ところで……」
「なんだ。まだ何か不満か?」
「そうではなくて……いいかげんに『君』ではなく、名前で呼んでもらえませんか?」
そう言うと、弘臣さんの眉間の皺が深くなる。
「君が泣くのは嫌だと言っただろう」
「……はい?」
「俺が名前を呼んだら、君は泣いたからな」
弘臣さんが私の名前を呼んでくれたのは、初めて会った6年前。ホテルで、ただ一度だけだ。
「あの時、俺は源臣ではない、と……そう伝える意味で呼んだ。そうしたらずっと強気だった君が突然泣くから、俺が酷く傷つけたのだろうと……。君が泣くと、あの夜を思い出す。だから名前を呼べなくなった」
そうだったんだ……。私の名前を呼んでくれないのではなくて、呼べなかったんだ……。
「あれは……弘臣さんに傷つけられたとか、そういうことじゃないの。『失恋』ってはっきり自覚したら、止まらなくなっちゃっただけ」
「そう……だったのか」
弘臣さんは脱力するように肩の力を抜く。
「ねえ、じゃあ私の名前はもう二度と呼んでくれないの?」
「……」
「あの時、名前を呼んでくれたのがずっと忘れられなくて……それで好きだなーって思うきっかけになったのに」
「……」
「ずっと、もう一度聞きたかった。……嫌?」
弘臣さんからしてみたら、なんて勝手なんだと思うのだろう。
それでも、ずっと『君』のままなんて侘しい。
誰かと同じではなく、私を示す特別な響きで呼んでほしい……。
目に涙が滲むと、ぼやけた視界にオロオロと落ち着かない様子の弘臣さんが映る。
そして弘臣さんは目を逸らすと、ごく小さな声で呟いた。
「……文乃」
聞きたかった響きが、私の頭の中をこだまする。
久しぶりに聞くその響きは、記憶に残る声よりも甘くて優しくて、心を鷲掴みにされるかのよう。
喜びに打ち震えて湧き上がった涙は、次々と頬を伝って流れ落ちた。
「嬉し……ッ……」
「おい、結局泣くんじゃないか。やはり呼ばなければよかった」
「だって……6年ずっと『君』で……やっと呼んでもらえたんだもん」
「君は結構泣き虫だよな。また発作になっては困る。泣き止め」
「じゃあ、ギュッてして?」
「……またそれか」
「嫌なの?」
「違う。俺の理性が試される」
「え?」
「何でもない。ほら、来い」
私がおずおずと抱きつくと、弘臣さんが私を苦しいくらいに強く抱きしめてくれる。
そして何かを堪えるようにじわじわと弘臣さんの腕の力が弛むと、大きな手が私の背中をゆっくりと摩って安心させてくれる。
「早く泣き止め」
「うん」
「息苦しくなってはいないか?」
「うん、平気」
「そうか」
弘臣さんの少し高い体温も、耳に響くちょっと早い心音も、大切なものに触れるように優しく背中を摩ってくれる手も、全部全部嬉しい……。




