08-02.
久我さんでもなく、五十嵐君でも皆川さんでもなかったら、「じゃあ、もしかして俺かも」とはならない弘臣さん。心底意外だという顔で私を見ている弘臣さん。
それはまるで「俺は全くそんなつもりはなかった」と態度ではっきりと拒絶されているかのよう。
二度も振られた私の心はぐちゃぐちゃに切り刻まれ、痛みと悲しみに喘いだ嘆きが、涙となって溢れ落ちた。
「どうせ私なんて弘臣さんの眼中にないもん!」
「が、眼中――」
私は枕をもう一つ弘臣さんに全力で投げつける。
何か言ってたけど知らない。どうせショックなことしか言わないのだから、聞きたくない。
ラグジュアリーな部屋のおかげで、幸い枕はまだもう一つある。どうせもう会えなくなるなら、言いたいことを言って投げつけてやる。
私は残り一つもむんずと手で掴んだ。
「私だけがバカみたいに水曜を楽しみにして、バカみたいに6年間ずっとドキドキして……弘臣さんが興味ないことくらいわかってる! でも仕方がないじゃない! それでも……ただずっと弘臣さんだけを好きだったんだから!」
枕に思いの丈を込めて弘臣さんに投げつけると、弘臣さんはそれを片腕で防御。
そしてすぐさまベッドを伝って私との距離を詰めた。
「本当にバカだな」
弘臣さんはそう呟いてすぐ、私の腕をグイッと引く。
前のめりになった私の体を支えてくれたのは、弘臣さんの胸元。
私は弘臣さんにギュッと抱きしめられていた。
「……なっ……やめて! 放してよ!」
「断る」
「断らないでよ! 放して! 同情とか泣いてるからとか、そういうのは――」
「俺は本当にバカだ。人の気持ちは変化するものだと、わかっていたというのにな」
そう言って、弘臣さんはより一層力をこめて私を抱きしめる。まるで逃がさないと言っているかのように。
「どういう……意味?」
「なあ、一つ教えてくれないか? 君は6年前、確かに源臣を好きだったはずだ。俺を……源臣の身代わりにするほどに」
私の肩はビクリと跳ね上がり、体からサッと血の気が引いていく。
「弘臣さん……6年前の夜のこと、覚えてるの?」
「ああ、覚えている」
どうしよう……まさか弘臣さんが覚えているなんて。どうしよう、どうしよう!
あの夜のことを謝りもせず隠し続けていた私に、好きになる資格なんかない。終わった……。
私はグイッと弘臣さんを押しのけて項垂れる。
「あの夜のことは……本当にごめんなさい」
「いや、あれはもうどうでもいい」
予想もしてなかった弘臣さんの反応に、私の口はポカンと開く。
「……は!? よくない! どうでもいいわけがないじゃない!」
「なんだ、俺がいいと言っているのに」
「だって……」
あまりにもあっさりした弘臣さんの反応。
自分が犯したあんなとんでもない過ちを、私には口が裂けてもどうでもいいだなんて片付けられないのに……。
「俺にとっては、過去より今の方が重要だ。そんなことより――」
「そんなことって……」
「君の気持ちは、一体どこで変わったんだ?」
私はまた肩を跳ね上げる。
ああ、本当にどうしよう。これを答えたら、好きになる資格もない上に軽い女だと思われるかもしれない。でももう、弘臣さんに隠すようなことはしたくない。
「……弘臣さんと会ったあの日。正確には、目覚めた朝」
「俺はあの夜、君のために何もできなかったのにか?」
「そんなことない! 弘臣さんには特別な意図はなかったのかもしれないけど……目が覚めた時に弘臣さんがすぐそばにいてくれて、すごくほっとしたの。ずっと包まれていたいくらい居心地がよくて、幸せだなって。だからもうその時には……私は弘臣さんのことを好きになってた」
「そうか……そうだったのか……」
「切り替えが早すぎて自分でも節操がないなって思うけど……ごめんなさい」
「いや、君は節操があるからどうでもいい」
出た、どうでもいい。この人の思考回路は一体どうなっているのだろうか。
すると弘臣さんは、深い溜息をついてフッと笑う。
「俺はずいぶんと遠回りをしたようだ」
「えっ?」
「俺も君と同じなんだ。恐らく始まりは君と同じ6年前のあの時だったのだと思う。気がつけば、バカみたいに水曜を楽しみにしていた。バカみたいに6年間ずっと君を隣から見ていた。源臣を見つめる君を見て……バカみたいに嫉妬していたんだ」
嫉妬? 弘臣さんが?
「それって……」
「ああ。俺も君と同じ気持ちだ」
信じられない……。
でも、耳を真っ赤にする弘臣さんが、全てを物語っている気がする。
「本当に……?」
「ああ」
「それなら……嬉しい……けど……」
じわりと滲んだ視界には、弱り切った顔をして私を見つめる弘臣さんが映る。
「ずっと源臣の身代わりだなんて思っていて、本当にすまない。君が格好いい女だとわかっていたはずなのに……。決して君のことを『不倫をするような女』だと思っていたわけではないんだ。君のこととなると、俺はずいぶんと判断力が鈍るらしい。君の実態との矛盾に気づけないほどに……。どうか愚かな俺を許してほしい」
「ううん、謝るのは私の方だもの。6年前に私がしたことは事実だから……。あの時は本当にごめんなさい。それと……ありがとう」
「ああ」
すると弘臣さんが私をすっぽりと包み込むように抱きしめてくれる。
「俺を変えたのは君だからな。責任を取れ」
「それはどういう……?」
「俺には恋人だの結婚だの面倒なことに構っている時間も余裕もないはずだった。それを変えたのは君だ」
そうだ、6年前、弘臣さんはそう言っていた。
「恋人は……面倒なんじゃないの?」
「君だけは特別だ。だから黙って俺に――……」
しばらく待っていても、弘臣さんの言葉の続きが聞こえてこない。
そこで弘臣さんの腕に包まれたまま顔を上げると、なぜか照れた顔をしている弘臣さんが見えた。
「えっ!? 何!?」
「いや、自分でもどうしたんだというくらい恥ずかしいことを言いそうになって……やめた」
恥ずかしいことって何を言おうとしたんだろう……。気になる。
「えっ、もしかして、黙って俺に付いてこい! とか?」
「時代が古いな」
「じゃあ、黙って俺に……従え?」
「俺は殿様か」
「違う? じゃあ……黙って俺に、愛され――……」
そう言いかけて私は口を噤む。
危なっ。物凄くこっぱずかしいことを言いそうになった。
そんなわけないなと思いながら弘臣さんを見ると……耳だけでなく顔まで真っ赤だった。
まさか――
「い、今ので正解?」
「……」
これは無言の肯定か。そうだとしたら――
『黙って俺に愛されておけばいい』
そう言いたかったってこと? 考えると私まで顔が熱くなってくる。
「あ、あの、弘臣さん、それはもういいから……ちゃんと言ってもらえませんか?」
「何をだ」
「その……『好き』って……言ってほしい」
すると弘臣さんの眉間の皺がくっきりと深くなる。エア眼鏡を持ち上げてツイッと顔を逸らす弘臣さんは、激しく動揺しているのだろう。
黙り込む弘臣さんに、私はさらに告げる。
「言ってくれないと信じられない」
「……」
「あ、やっぱり冗談だったの?」
「違う! ……わかった」
すると弘臣さんはスーッと息を吸い込んで、私を強く抱きしめる。
「そ、その、……す……す…………きだ」
「『ススキだ』って何ですか?」
「違う! 草の話なんてしていない! 頼む、ダメ出ししないでくれ。思いの外恥ずかしいんだ」
「でも……ちゃんと言ってほしいな」
弘臣さんはハァッと息を吐き出すと、私をギュッと抱きしめる。そしてまもなく、はっきりとした言葉が耳に届いた。
「君のことが好きだ」
頭の芯まで浸透するような声が、心地よく私の脳内を反響する。いつまでもぼんやりと浸っていたいくらい幸せだ。
「これで信じるか?」
「うん、ありがとう」
「言っておくが、別に君に言わされたから言ったわけではないぞ。ちゃんと本心だからな。たぶん君が想像してる以上に……俺は本気だぞ」
痛いほどに抱きしめてくれる弘臣さん。
どうしよう、感情が大混雑してるような感覚だ。
次々聞こえてくる言葉が嬉しすぎて、そして苦しくて泣きたい。
「それで、君は俺の恋人になってくれるのか?」
『恋人』――その言葉にも胸がキュンと苦しくなって、私も弘臣さんに抱きついた。
「はい。私も弘臣さんのことが好きです」
「そうか」
穏やかな笑みを浮かべる弘臣さんを見ていると、心の奥底に仕舞っていた罪悪感が溶かされていくかのよう。
6年前よりもっと、ほっとする温かさ。ずっと包まれていたいくらい居心地がよくて幸せ。
私は弘臣さんの腕の中に包まれながら思う。
気持ちを伝えるのが苦手な弘臣さん。素直じゃない臆病な私。
そんな私たちは、これからも同じように誤解をし合うことがあるのだろう。
でもきっと、こうやって解いていくことができる。
「弘臣さんって、ブラックコーヒーみたいに見えて、案外お砂糖がたっぷり溶けてるんですね」
「何だそれは。嫌か?」
「いいえ。私は甘いコーヒー、大好きですよ」
きっと大丈夫。
大好きな弘臣さんとなら……。




