07-06.
唇が離れていくと、弘臣さんは私を抱きしめてくれる。頭がぼんやりするほど夢心地だ。
「弘臣さん……明日も朝早くから仕事?」
「いいや。明日は少し遅く出勤する予定だ」
「じゃあ、帰らないで」
「うーん……」
弘臣さんは私を引き剥がすように離して、眉間に皺を寄せて黙ってしまった。
「何か予定があるの?」
「……いいや」
ないのに帰るんだ。そんな、あからさまに嫌そうにしなくてもいいのに。
近づいたと思ったら、すぐに離れていく弘臣さん。この人の壁は分厚いのだ。この6年間、私の示す好意なんて分厚い壁に阻まれてちっとも響かなかった。
ただ、今日はキスを交わし、少しくらいは届いた気がしていたのに、違ったようだ。弘臣さんにとっては本当に『治療』でしかなかったのだろう。
弘臣さんには好意を受け取る気なんてないのだから、私がどう足掻いたって届かないのかもしれない。
「困らせることを言ってすみませんでした。一人で平気です」
「君は――……」
「はい?」
「こういうことに、そんなに慣れているのか?」
「……え? どういう意味ですか?」
「俺は違う。だから止めるこっちの身にもなってくれ、と言いたい」
それは……キスをしてほしいと言ったり、帰らないでと言ったから?
「別に、そんなに慣れているわけでは……。そ、そっちこそ、随分慣れているご様子でしたけど?」
「どういう意味だ?」
「自分はそういう経験が少ないみたいな言い方してますけど、随分キスは慣れていらっしゃるようでしたよ?」
言ってて涙が出そうになる。先ほどしたキスは、手慣れたものだと感じられたからだ。
すると再び弘臣さんは溜息をつく。
「慣れてなどいない」
「嘘」
「本当だ。俺はただ……人体の構造を熟知してるだけだ」
私は思わぬ返答に目をぱちくりさせた。
「は、はい?」
私の戸惑いを余所に、弘臣さんは迷いなく当然のように話を続ける。
「男女共に人体の構造は熟知している。人それぞれ違いはあるものの、ある程度の傾向は掴んでいて、仕事中は触れてはならない場所を的確に避けて人体には触れるようにしている。必要で触れる際には、強弱の程度を絶妙にする。それにより、あらぬ誤解を受けることはない」
この人はつらつらと何を言っているのだろう。大学教授の講義でも受けているかのようだ。
私は言葉を失って弘臣さんを見つめる。
「医師は体の様々なところに触れるからな。こちらにその気が無くても、患者からセクハラだなんて言われたら職を失う。自衛が必要なんだ。……だから……つまりな、別に慣れているわけではなく……君に対しては、逆に的確な場所を攻めただけのことだ」
「的確な……場所?」
「唇の性感帯」
だからこの人は何を言ってるんだ。医者ってそんなものを知り尽くしてるものなの? 何だか頭がクラクラする。
私が困惑していると、弘臣さんはかけてもいない眼鏡の真ん中を押し上げ、ツイーッと目を逸らす。
「君がもっとしろとか言うから悪いんだ」
確かに言ったけど。
これは要するに、根拠があるからそういう場所を攻めただけでキスに慣れてはいないと言いたいのか。
「わ、私だって……別に物凄く慣れているわけではないのに……」
「そうなのか?」
「そうよ。だって私は……もうずっと、一人だけを好きだもの」
強い目で、真っ直ぐ弘臣さんを見る。6年前から、私は弘臣さんしか見ていないのだ。
すると弘臣さんは都合悪そうに目を逸らした。
「知っている」
私は息を呑む。
えっ? 私の気持ちを知っているの? もしかして少しは弘臣さんに届いていたということ? だったら……有耶無耶にせず、きちんと伝えたい。
「あ、あのね、私、ずっと――」
「君が一途なのは清くて美しいことだが……もう諦めて別の道を探す方が賢明だ」
「……え?」
弘臣さんの口から聞こえた言葉に、私は愕然とする。
まるで弘臣さんと私との間に、スッと線を引かれたかのよう。
頭が真っ白になった。
「別の道を……探す?」
「ああ。君を好いてくれる者など、ほかにいくらでもいる。そちらへ向いた方が建設的だろう」
「そ、それは――……」
それは『恋愛に興味のない俺のことは諦めて、ほかの人を探せ』と言われているのだろうか。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てる中、弘臣さんは話を続ける。
「結婚を望めない相手を想っているより、その方が、先が見えてくるかもしれないだろう?」
「結……婚……?」
確かに、結婚を望まない弘臣さんを想っていても、そこへ向かう道は開かれない。でも、私も別に結婚を望んでいるわけではないのだ。
「私は、別に結婚したいわけではないわ」
すると弘臣さんは寂しさを滲ませて微笑む。
「そうか。君はやはり変わらないのだな。困ったものだ」
困る? 私があなたを想うだけで、あなたを困らせるの?
「弘臣さんを……困らせるつもりはないのに……ッ……」
「君がそのつもりでも、俺はもう充分困っている」
「どうして? 私は、想い続けることも許されないの?」
「そういうわけではないが……」
すると弘臣さんはハーッと深く息を吐き出し、いつもより低い声で告げる。
「そうか、残念だ。君が変わらないのならば……悪いがもう俺にできることは何もない。君と会うのもやめる」
できることは何もない? 会うのをやめる?
私の大切な日常が、また一つ壊れていく。
見捨てるような、そして拒絶するような言葉に、既に弱くなっていた私の心が悲鳴を上げた。
息が詰まるような感覚がして気が遠くなり、それと同時に再び呼吸が苦しくなった。
弘臣さんを困らせてしまった。
想い続けることすら迷惑なんだ。
もう会ってももらえないんだ……。
これ以上、私を拒絶した目の前の人に助けを求めることはできない。
甘えられない。
私は一人だ。
「もう……帰っ……て……っ!」
弘臣さんを突き放して距離を取ると、体だけでなく、心も冷えていくかのよう。寒くて体がカタカタと震える。
そして、針の筵となった心に鋭い亀裂が入って、バラバラと崩れ去った。
「おい、落ち着け! ゆっくり呼吸しろ!」
既にボロボロだった心は、簡単に砕け散るほど脆かった。
それを修復する術を、考えることすら億劫だ。
仕事も、恋も、全然うまくいかない。
でももう、全部どうでもいい。
私の本気の恋は、また届かないんだ。
名前すら呼んでくれないこの人を、いつまでも想い続けたところで虚しいだけなのだ。
もう終わりにすればいい。
全部、終わりに――




