07-05
(……何……?)
私は目を見開いて固まる。
頭の後ろと首筋を押さえられて、顔を固定されたまま唇を塞ぐように口付けられる。ただ、息苦しくて離してほしくて、弘臣さんの胸をドンドンと叩いた。
すると僅かな時間唇が離される。でもすぐにまた唇を塞がれる。離れたくても、今度は背中を強く抱きしめられて離れることができなかった。
キスと呼ぶには乱暴なその行為は、藻掻く私からどんどん自由を奪う。
口付けられ、僅かな時間離れて、また口付けられる。
どうしてこんな苦しいことをするのか、弘臣さんの気持ちがわからない。
ところが、それを繰り返しているうちに不思議と呼吸が楽になっていき、体の力が抜けていく。
抵抗をやめて身を任せるように弘臣さんに縋り付いていると、覆い被さるように強く重ねられていた唇は、ふわりと柔らかな触れ合いへと変わる。
夢心地の優しいキスに、私はうっとりと身を委ねる。
すると弘臣さんの指が私の首と顎の境目にツーッと触れ、私が小さな声を上げてピクリと肩を揺らした瞬間、唇がパッと離れていった。
「……よし。脈拍と呼吸はだいぶ落ち着いたな。少しは楽になったか?」
私は涙目を擦り、目をぱちくりさせる。
「……へっ……? ま……待って……何……?」
「ん?」
「これって……何?」
「過換気症候群。いわゆる過呼吸の発作だろうな」
それも大事だけど、今聞きたいのはそこじゃない。
「そ、そうじゃなくて……キス」
「違う。呼吸のコントロールをして発作に対処しただけだ。言わば……治療だな」
弘臣さんは静かに、そしてあっさりとそう告げる。
あ、治療か。荒療治ってやつ? なるほど。
……なんて簡単に納得できるわけがない。
しれっと言ってのける弘臣さんにぽかんとした。
「……ほ、ほかに方法はなかったの?」
「悪かったな。君が落ち着けと言っているのに聞かないからだ。手っ取り早くそうした」
そうでしたか、言うことを聞けずすみません。
……なんて謝るわけがない。苦しくて怖くて、言われるまま素直に落ち着くなんて無理だったのに……。
別にキスが初めてというわけではないけれど、弘臣さんとするのは初めてで、好きな人との初めてのキスが、まさか『手っ取り早い治療』だなんて……。
「悲しい……」
「すまなかった。俺が勝手にやったことだ。君は潔白だから安心しろ」
一体何がどう潔白で安心すればいいのかよくわからない。
すると弘臣さんは、眉間にキュッと中指を当てる。眼鏡を押し上げたかったのだろう。でも眼鏡がなくて空振りだ。
「弘臣さん、眼鏡は?」
「ああ……さっき『治療』のために外した」
どうあっても『治療』と言い切るつもりのようだ。何だか泣きたくなってきた。
治療ということは、人工呼吸みたいなものだと思っておけばいいのだろうか。
つまりはほかの人にもこういうことをするということだろうか。
そんなふうに考えたくないことまで頭の中を巡って、ズキズキと胸が痛くなった。
「それで……何があった?」
そう問われると、途端にバーでの出来事が頭の中を駆け巡って怖くなり、再び苦しさが襲う。呼吸がまた速くなり始めた。
「わ、私……っ……」
「しっかり息を吐き出せ」
背中をゆっくりと摩られながら、息を吐き出す。
今度はわかる。苦しくても吸ってはいけないのだ。
弘臣さんがそばにいてくれることが心強くて、落ち着いて考えられる自分がいる。
「ごめ……っ……話すの……怖……い……」
苦しさを逃すように、弘臣さんのジャケットの胸元をギュッと掴んだ。
「いい、今は聞かないから考えるな」
「うん……」
しばらくして呼吸が落ち着くと、私は弘臣さんの胸に体を預けたくなって、甘えるようにそうした。
温かさにホッとして視界が滲んだ。
「来てくれてありがとう」
「ああ」
「どうして電話をくれたの?」
「皆川から連絡があったんだ」
「皆川さんから?」
「ああ。前に会った時、『医者の知り合いなんて貴重』とか何とか言って無理矢理連絡先の交換を要求されたが……まさかこんなふうに役立つとは思わなかったな。アイツらしからぬ焦ったような声で、君の様子をすぐに見に行ってほしいと頼まれたんだ。皆川は君の様子が普通ではないことに気付いてたようだ」
「そっか……誤魔化したつもりだったんだけどな」
「君は顔に出やすいからな」
恥ずかしくて言葉を失くす。
「一人で抱えるな」
「うん……ありがとう」
弘臣さんの優しさがジンと染み入るように心を温めてくれる。
ねえ弘臣さん……本当にさっきのは、最初から最後まで『治療』だった?
弘臣さんの温かさが、私の心を揺り動かす。
勘違いじゃないって思いたくなる。
「ねえ、弘臣さんは……仕事を辞めたいと思ったことはある?」
「そうだな。あるような、ないような」
「どっち?」
「俺にとって、医師以外の選択肢はなかったからな。小さい頃から医師になることを目指していて、何の疑問も持たなかった。苦しくて辛いこともあったが……天職だと思っているからな」
「天職……か」
私にとってのバーテンダーは天職と言えるのだろうか。
憧れだけで始めたこの仕事は、私に本当に向いているものなのだろうか。
わからなくなって不安が募ると、また息苦しさが襲ってきた。
怖い。今は考えたくない……。
今はただ弘臣さんに甘えたい気持ちだけで心を満たす。
「弘臣さん、少しだけお酒の匂いがする」
「悪いな。この近くで大学の時の恩師や同期と会っていたんだ」
ああ、だからすぐに来てくれたんだ。
「じゃあ、酔ってる?」
「少しな」
「それなら、酔ってるせいってことにできますね」
「何をだ?」
「キス」
「だから治療をしただけだと言っているだろう」
頑なな弘臣さんの態度がちょっと気に入らない。
「ふぅん。治療ってことは、ほかの患者さんにもこういうことするんだ」
「そ……ッ……」
私を引き剥がして、言いかけた言葉を飲み込むようにして俯く弘臣さん。
「何よ」
「……ほ、ほかの患者の診察をする時は、今のように酔っていない。だからしない」
妙に苦しい言い訳っぽく聞こえるのは気のせいだろうか。
弘臣さんが目を背けて眉間に皺を寄せているのを、私はじっと見つめる。
「へー。じゃあ、さっきの『治療』は酔ってるせいってことね?」
「おい、君は俺をどこに追い込むつもりだ」
頭を抱える弘臣さんの言葉を無視するように、私は続ける。
「じゃあ、酔ってる弘臣さん。まだ苦しい。だから……」
「だから、何だ?」
「もう少し『治療』してください」
「あのな……君は何を――」
「してください」
視界が涙で滲む。
今は難しいことを考えたくない。私の勘違いでもいいから、ただ幸せな時間に身を委ねたい。
すると弘臣さんは溜息をつく。
「やめてくれないか。君のそういう顔は苦手なんだ」
「……見苦しい顔を見せて悪かったわね」
「違う。また間違えたか」
何を間違えたの? よくわからないし考えたくない。ただ甘えたい……。
「弘臣さん、苦しい」
「本当に苦しいのか?」
「うん」
「息をしっかり吐き出せと言っただろう」
「できない」
即答する私を見て、弘臣さんは迷いながらも私の唇に優しく口付ける。
ほんのちょっと触れるように何度か口付けて、すぐに離れて顔を背ける弘臣さん。
私は不満を前面に押し出した。
「ちゃんと……して……」
「ちゃんとって何だよ」
「だって、まだ苦しいから……」
「本当か? 呼吸はそう苦しくなさそうだが?」
「呼吸じゃなくて……別のところが苦しい」
「ほぉ、今度はどこが苦しいんだ?」
「心が苦しい。だからもっと『治療』して?」
「それなら心療内科――」
「バカ!」
不貞腐れる私を見て、弘臣さんはフッと笑う。
「バカとは何だよ」
「だって……してくれないから……」
もう治療でも何でもいい。してくれれば、何かが変わるかもしれないから……。
「なあ……君の言う『ちゃんと』すれば、苦しさが良くなるものなのか?」
「……たぶん」
「たぶん、なんだな。確実性のない治療はしない」
「ううん、絶対!」
私の焦って付け足したのがバレバレな答えを聞いて、弘臣さんは困ったような顔で溜息をついた。
「どうしてそんなに君は必死なのだろうな。曲解してしまいたくなる」
「え?」
「後悔したって知らないぞ」
「後悔なんてしない」
「そうか」
間近で見つめ合うと、また少しだけ唇を合わせて弘臣さんは離れる。
「ねえ、もっと……して?」
そう言って私は弘臣さんの首に腕を回した。
「君は、俺をどうしたいんだよ」
弘臣さんは苦しげに眉根を寄せると、私の腰をグッと近づける。そして私の頭の後ろを押さえて、噛みつくような『治療』をした。
重なる唇の感触が、私の心臓を切なく揺らす。
――どうしたい? 私が願うのは今は一つだけ。
弘臣さん、私のことを好きになって。




