07-01.
水曜日、私はいつも以上にソワソワしながら久我さんの店へ。
3週間ぶりに店に入ると弘臣さんが既にカウンター席にいた。
そしてつい思い浮かべてしまう。
『文乃ちゅん』
ない。あり得ない。そもそも『君』としか呼ばれないのだから。
名前ですら呼んでもらえない分際で、なんてほど遠い妄想だろう。
「こ、こんばんは、弘臣さん」
「ああ。まるで百面相のようだな」
「えっ」
すべて顔に出ていたらしい。
「どうかしたのか?」
「い、いいえ……ちょ、ちょっと、仕事で担当した難易度高めのゲストのことを思い出していただけです」
「難易度高めのゲスト? また面倒な客か? 前もセクハラ男の担当をしていただろう」
「それはまあ……私はシニアなので、仕方がないんですよ」
アハハハ、と苦笑いして誤魔化していると、バーカウンターの向こうにいる久我さんの声が耳に届く。
「いらっしゃいませ。サイドカーでよろしいですか?」
「え!? あ、すみません! お願いします」
「かしこまりました」
しまった、弘臣さんにばかり目が行って、久我さんに挨拶するのもオーダーするのも忘れてしまうなんて……。
恋は盲目とはまさにこれ。
私は緊張を隠して、弘臣さんの隣に座った。
「ひ、久しぶりですね。年末年始は休めましたか?」
「ああ、少しゆっくりした。君は忙しかったのだろう?」
「そうですね、繁忙期だったので。でも毎年のことなので慣れました」
「そうか。……忙しかった割に、少し表情が明るいな」
「ええ、まあ。今、少しだけ仕事のやり方を変えていて、それがいい調子な気がするんです」
「そうか」
皆川さんや久我さんに助言をもらい、弘臣さんに支えてもらったおかげだ。だから――
「あ、そうだ」
私はバッグから、ラッピングされた正方形の包みを二つ、おずおずと取り出す。
「あ、あの……これ……」
「ん? 何だ?」
「ハンカチと、気に入ってくださったチョコです。あの時のお礼にと思って……」
クリスマスは過ぎてしまったし、そもそもクリスマスプレゼントなんて渡せる立場にない。
だから、お礼と称して贈り物をする。今の私が自然にできる精一杯の形だ。
「弘臣さんからお借りしたハンカチは汚してしまったので……あ、でも思い入れのあるものでしたら、しっかりクリーニングしてお返ししますけど」
「いいや、特にない。そうか……わざわざすまない。気遣いに感謝する」
そう言って、弘臣さんは私に笑みを向ける。
無意識に向けているであろうその微笑みは、私の心臓を破壊しそうな攻撃力だ。
久しぶりに会っているだけでもドキドキしているのに、なんて容赦ない笑顔なのだろう。
「い、いいえ。こちらこそありがとうございました」
私は早口にそう言って顔を背ける。顔が熱い。
「……何か怒らせたか?」
「えっ!? 違う!」
と、慌てた結果、恐らく赤くなっているであろう顔を弘臣さんに向けてしまった。
慌てて背けても時既に遅し。弘臣さんは目を丸くしていた。
茹で蛸みたいな顔をして一体どうしたんだ、と変に思われているかもしれない。恋心に気づかれては困る。いやいや、鈍感な弘臣さんのことだ。また熱を測られるだけかも……。
すると弘臣さんの小さな声が耳に届く。
「……ニ……トロ」
(えっ……何て?)
チラリと弘臣さんを見ると、苦しげにジャケットの胸元を鷲掴み。肩を震わせて俯いていた。
「えっ……弘臣さん? 大丈夫?」
「あ……ああ。少し胸痛があっただけだ。問題ない」
弘臣さんは中指で眼鏡を押し上げて背筋を伸ばし、どこか遠くを見つめる。
「本当に大丈夫?」
「ああ。何ともない」
「そ、そう?」
それからの弘臣さんは、私と目も合わせずにカクテルを呷る。
どこか空気がぎこちない。
居たたまれなくなって久我さんを見ると、久我さんはニッコリと美しい笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。兄がとんでもなく阿呆なだけですから」
えっ、と私が返すよりも早く、弘臣さんが声を上げた。
「源臣、阿呆とは何だ。失敬な」
「そんな薬、効くわけがないでしょう。狭心症ではありませんよ」
「……医師ではないお前になぜわかる」
「医師ではなくてもわかる症状だからですよ」
「……」
久我さんを睨む弘臣さん。久我さんは涼しい顔でニッコリ。
何、兄弟喧嘩?




