01-02.
「ど……どうして……ここに……?」
私が驚く中、柳本氏が不機嫌そうに弘臣さんを睨む。
「誰だ貴様。セクハラだと? 彼女だって私の好意に喜んで――」
「それ以上言わない方が身のためだ。本当に侮辱罪で訴えようか?」
そう言って、弘臣さんはカチャリと眼鏡を中指で押し上げる。
呆然としていた私は、ハッと我に返って慌てて二人の会話に割って入った。
「あ、あの、柳本様! 申し訳ございません。私の兄、弁護士なんです」
「兄? べ、弁護士?」
「ええ、だから小さなことでもすぐに訴えようとするんです。ほんと、困った人。さ、お兄ちゃんこっちへ。……柳本様、少々失礼致します。どうぞごゆっくりお過ごしください」
私は努めて優雅な所作で一礼すると、バーカウンターから出て、弘臣さんを引っ張って店の外まで連れ出した。
「おい、俺はいつから君の兄で弁護士になった」
弘臣さんは眉間に皺を寄せ、見るからに不満そうな顔をしていた。
丸く収めるのに必死だっただけなのに。
私は周囲を見回し、ヒソヒソ声で話し始めた。
「だって、いきなり刑法とか言い出すから! だからちょうどいいと思ったの。それより……もうっ、余計なことしないで!」
「余計なこと?」
「そうよ! 訴えるだなんて、そんなことをしたらホテルにも迷惑がかかるし、お客さんが来なくなったらどうするのよ!」
「どう考えてもセクハラだろう。それなのに君は――」
「放っといて! 仕事なの! こんなことよくあるの! こんなことぐらい上手に……受け流せ……ないと……」
「だったら、なぜ泣くんだ?」
気がつけば、私の目からは悔しさでポロポロと涙が溢れ落ちていた。
「な、何でもない。勝手に出てくるだけ」
「そんなわけがあるか」
「うるさい! 黙ってそういうことにしておくのよ。まったく、空気が読めないんだから!」
「空気に文字なんか書いてないだろう。読めるわけがない」
さも当然とばかりにそう返す弘臣さんの態度が、また私の苛立ちに拍車をかける。
「もうっ……そういうことじゃないわよ!」
「じゃあどういうことだ」
「察しろって言ってるの!」
「そういうのは苦手だ。よって無理だな」
眼鏡の真ん中を中指でカチャリと持ち上げる弘臣さんを見て、私はガクッと項垂れた。
苦手なことすらはっきり言えてしまう、繕おうともしない態度がこの人の特徴。
あぁ何だか面倒くさくなってきたわ。
気がつけば涙が止まっていた。
「あっそ。もういい」
話をうやむやにされた弘臣さんは相変わらず不満そうだけれど、私は見てみぬふりをする。
「ところで、弘臣さんはどうしてここに?」
「近くで学会があってな。君がここで働いていると聞いて寄ってみたんだ」
「ああ……久我さんに聞いたのね」
「俺も久我なんだが」
本当にこの人は面倒くさい。
この、久我弘臣という人。
眼鏡をかけ、ぴっちりと整えた髪型とスーツ姿で、一見やり手の弁護士と言われればそう見えるけれど、実際の職業は医師。
8歳年上で、私が言う『久我さん』の兄に当たる人だ。
その久我さんの店で出会った、弘臣さん。
気づけば弘臣さんとは、かれこれ6年ほどの付き合いになる。
付き合いとは言っても、交際しているわけではない。
お互い都合がつきやすい水曜日の夜に、久我さんの店で会っては一緒に飲む。ただそれだけの関係だ。
ただそれだけ……。
それなのに今夜は、弘臣さんが急に私の勤めるバーにやってきた。
久我さんの店以外で会うのは初めてのことだ。
すると私と弘臣さんの横を、柳本氏がいそいそと通って去ろうとする。
「おい、帰ってしまうがいいのか? あいつを訴えるつもりなら逃がすな」
「だから訴えませんって!」
「そうなのか?」
弘臣さんがさも不思議そうに首を傾げるのを見て、私は呆れつつも、だんだんおかしくて笑えてきてしまった。
本気で訴えることを考えていたらしい。
おかしな人、と思いつつ、真剣に考えてくれることを嬉しく思う自分がいるのも確かだ。
「弘臣さん、せっかく来たんだし、何か飲んでいきますか? お礼にごちそうしますよ」
「礼? 何のだ?」
私としては助けてもらった感覚でいたのに、弘臣さんにはそういう意識はないらしい。
「もう何でもいいです。とにかく一杯ごちそうしますからカウンターへどうぞ」
「では、そうさせてもらおう」
「何をお飲みになりますか?」
カウンター越しにそう聞くと、弘臣さんが目をぱちくりさせた。
「弘臣さん、どうかしましたか?」
「いや……そうか、君が作るのか。いつも源臣が作る酒を、君とただ並んで飲んでいるだけだからな……」
『源臣』とは弘臣さんの弟のこと。世界で活躍するバーテンダー界のトップスターで、私の憧れの人物『久我さん』だ。
「お忘れでした? 私も一応バーテンダーなんですよ」
「それくらい知っている」
馬鹿にするなと文句ありげにツンとした顔をする弘臣さんは、ちょっとかわいらしい。
「それなら、ジンかウォッカベースのすっきりしたカクテルはいかがですか?」
「君に任せる」
「かしこまりました」
私はウォッカ、ホワイトキュラソー、ライムジュースをシェイカーへ。
店内の静かな空気を切り裂くように、硬質なシェイクの音が響き渡る。
途切れずに続くその音は、徐々に柔らかなものへと変わっていき、味をもまろやかに変えていく。
仕上がり具合にホッとしたところで、弘臣さんをチラリ。
向かい側から、しかも仕事中の姿を見られる初めての光景に、私の顔は緊張でちょっと引きつる。
「お、お待たせしました。『カミカゼ』です」
「『カミカゼ』? 日本のカクテルか?」
「いいえ、アメリカ発祥ですよ」
「ほお。おおよそアメリカ人が神風特攻隊からイメージしたとかそんな感じだろうな」
「さすがですね」
弘臣さんはフンと鼻を鳴らすと、グラスを手にする。
細長くて綺麗な指がグラスを包むのを、私はじっと見つめる。
そして弘臣さんがグラスを傾けてカクテルを口に含むと、首筋の逞しい筋肉に囲まれた喉仏が、大きくしなやかに上下する。
私はカクテルを飲む時のこの姿を見るのが大好きだ。
セクシーでドキドキする。
「シャープな味だな。すっきりしていて俺好みだ」
「……あ、うん。そう思ってこれにしました。よかった」
弘臣さんは甘いものよりも辛いものを好むため、カクテルはいつも辛口のものを飲む。
私は弘臣さんの好みをすっかり把握していた。
すると弘臣さんがまた私をじっと見つめていることに気づく。
「何ですか?」
「いや……あの男は君の何を見ていたのだろうな」
「柳本様のこと?」
「ああ」
「何って……私がいやらしい女にでも見えていたのでしょうね」
私は自らの発した言葉に傷ついていた。
笑顔を見せつつも、バーカウンターの下でギュッと制服の裾を握りしめる。
「私、見た目でそういう判断をされやすいので仕方がないんです」
無理矢理笑って見せると、弘臣さんが不思議そうに首を傾げる。
「そうか? 君は身持ちが堅いだろう?」
この人にそう思われているなんて嬉しい。
でも――
「そんなふうに言ってくれるのは弘臣さんくらいですよ」
同時に私の心はチクッと痛んだ。
この人との間には、素直に喜べない事情がある。
すると弘臣さんがカクテルグラスを見つめながら私に告げる。
「普段の君は確かに女性らしい服装で女性らしい振る舞いをしているが……今日の君は別人のように見える」
「え?」
「格好いいと思ったんだ。……まあ普段も話せば辛口で男勝りだから、格好いいには変わりないのだが――」
弘臣さんは私を見つめながら小さく笑みを浮かべる。
「――今日の君は、君らしい」
待って。
この人は、そんな美麗な顔で何を言っているんだ。
私はフラリと後ろに一歩よろけると、弘臣さんに告げる。
「わ、私、ちょっと用事があるので……し、失礼します!」
慌ててバックヤードへ向かった。
(あーもう……あの人、素でああいうことを言うから困る……)
バックヤードに入ると、力が抜けてしゃがみ込む。
私は弘臣さんの言葉を再度思い浮かべた。
『格好いいと思ったんだ』
『今日の君は、君らしい』
プライベートでも仕事でも、女性としての美や性的な意味で受け取られることの多い私にとって、弘臣さんの言葉は斬新。
同時に心から嬉しい言葉だった。
ただ、チクリと胸に刺さった言葉もあった。
『君は身持ちが堅いだろう?』
私は溜息を溢す。
弘臣さんは覚えていないのだ。6年前のあの夜のことを。
弘臣さんと初めて会った、あの日の夜のことを……。
一気に頭が冷えた私は、立ち上がって弘臣さんの待つバーカウンターへ戻った。
「すみませんでした」
「いいや、構わない」
理性的で堅物で、弘臣さんは何を考えているのかわかりにくい。
そんな弘臣さんの、ともすれば不機嫌そうにも見える何の愛想もない表情は、妙に本心を暴いてみたい欲求にかられる。
6年前、当初私にとって興味のある人物は『久我さん』の方だった。
そんな久我さんに、弘臣さんは顔も声も、そして名前も似ている。
弘臣さんの顔を見て、声を聞いて、名前を呼んで……それで満たされたような感覚に陥っていた私は――
「どうした? ボーッとして」
「えっ? あ、ううん、何でもない」
すると弘臣さんは私の様子を窺うようにじっと見つめて溜息をついた。
「さっきの客のことなら気にするな。また来た時にセクハラじみたことを言うなら、『お兄ちゃんが交際相手には厳しい』とでも言っておけ」
不満そうな表情でそう言う弘臣さんに、私はクスッと笑った。
「わかりました。ありがとうございます」
そう返しつつも、『あの人は恋人です』と言えればもっと簡単なのにな、と思ってしまう。
決して言えないけれど。
「弘臣さん、もう1杯飲みますか? おごりではありませんけど」
「俺はそんなに図々しくはない」
「わかってますよ」
クスクス笑いながら私は喜々として考える。
今度はどのカクテルにしようか。
この人を喜ばせたい。
心の底からの感情を見てみたい。
「それなら次のカクテルは――」




