01-01.
低くて穏やかな弘臣さんの美声に酔いしれた夢のような時間はあっという間に過ぎていき……夜が明ければ目の前に広がるのは殺伐とした世界。
木曜日、私はまた別の日常へと足を踏み入れる。
「堀田さん、女で美人ってだけで得だよな」
バックヤードでの作業中に聞こえてきた、壁の向こう側の声に、私は一つ溜息を零した。
「ねぇ知ってる? またスイートルームのお客さんにご指名受けたらしいよ」
「またかよ。別名『おじさまキラー』」
「個人で夜の営業でもしてるんじゃねぇの?」
「わっ、してそー」
老舗一流ホテル内とは思えないほどに品のない会話を交わし、アハハハハと笑っているスタッフたち。
私は皆の会話が逸れるのをバックヤード内で黙って待つことにした。
「あれ、堀田さん?」
声をかけてきた男性は、後輩スタッフの五十嵐朝陽。
私のすぐ後にこの店に入った2歳下の28歳だ。
「あぁ五十嵐君、おはよう」
「おはようございます。こんなところで何してるんですか?」
「……まぁ、ちょっとね」
「バーカウンター、行かないんですか?」
「行かないんじゃなくて、行けないのよ」
ちょうど壁の向こう側から聞こえてきた会話を耳にした五十嵐君は、察したように眉根を寄せた。
「またですか? まったく、暇な人たちだな。どうせみんな、外からスカウトされていきなり次期チーフっていうのが気に入らないだけですよ。俺なんていつも、堀田さんの『かき混ぜる技術』には惚れ惚れ見入ってるのに。さすがです! 勉強になります!」
「それはどうもありがとう」
「気にしちゃダメですよ。『ひがんでる暇があったら自分の腕を磨け』って言ってやればいいんです」
五十嵐君には以前も噂話をされている場面に共に出くわし、その内容も聞かれている。
「そんなくだらないことは言わないわよ。仕事で示せばいいだけだわ」
「相変わらずクール。かっこいいっすね」
そう言って五十嵐君は、ニシシと少年みたいに笑う。
みんながみんな五十嵐君みたいな人なら、どんなに楽だろう。
何千ものレシピを頭に叩き込んで日夜技術を磨き、コンペで好成績を収めても、一部の人には性別や見た目でしか判断してもらえないのだ。
それからバックヤードに潜むこと約1分。
皆の噂話がやむと、深呼吸をして私はバーカウンターへ向かう。
ゲストの前では、個人的な事情なんて御法度だ。
「さぁ、今日も昨日の自分より上へ」
いつものようにそう呟いて仕事を始めた。
「堀田さん、カウンター6番に柳本社長がお越しです」
男性スタッフの佐々木さんにそう声をかけられて、私はひとつ溜息を零してからゲストの前に向かった。
「柳本様、いらっしゃいませ」
店のイメージを損なわないように細心の注意を払い、私はキリッとした礼で迎える。
柳本氏は40代後半の男性。
二度目に来店した時に私が対応して以来、来る度にほぼ私が接客している。
「おー、堀田さん。今日は個室のバーカウンターを予約しようとしたんだが、取れなくてね、こっちに来たよ」
「左様でしたか。ご不便をおかけして申し訳ございません」
「いや、いい。今日も君のカクテルが飲めるのかな?」
「ええ、私でよろしければお作り致します」
「もちろんだ。『君が』いい」
「ありがとうございます」
少々寒気がするのを隠してニッコリと営業スマイルを向けると、柳本氏はニヤリと笑って私を見つめる。
「えーと……この間のは何だったかな。ほら、辛口の……」
私は瞬時に、二週間前にサーブしたカクテルの記憶を辿る。
「前回お作りしたのは、『ドライ・マティーニ』でございます」
「あー、そうそう、それだ。あれをまた飲みたいな」
「かしこまりました」
私はミキシンググラスを手に取り、氷と水を入れてバースプーンでステア。氷の角を取り、その水を捨てる。
キンと冷えたミキシンググラスにドライ・ジン、そして基本レシピより僅かに少なめのドライ・ベルモットを注いで香りを控えめに。
そこにオレンジ・ビターズを注げば、柳本氏の好みに合わせた絶妙な配合。
雑念を振り払い、私はバースプーンに意識を集中する。
グラスの内側を撫でるように滑らかに、そして手早くステア。氷とグラスの衝突音なんてナンセンス。ただ静寂の中で液体が溶け合っていく。
指先が繊細なとろみを感じ取ったその時が、最高のタイミング。カクテルグラスへと静かに注ぎ入れ、レモンピールの風味を纏わせる。
仕上げにスタッフド・オリーブをグラスに沈めれば、どこまでも透き通るような美しい一杯のできあがり。
輝くような宝石を纏った『カクテルの王様』が、シックなバーカウンターへと降臨した。
「お待たせ致しました。『ドライ・マティーニ』でございます」
「ありがとう」
柳本氏は早速カクテルグラスを手にする。
「あぁ、透明で美しいカクテルだ。……まるで君の肌のようだね」
「ありがとうございます」
私は引きつることのないように表情筋に最大限の注意を払いながら、微笑みを保つ。
技術を注ぎ込んだカクテルを、性的な発言に利用された嫌悪感。
沸々と苛立ちが湧き上がる。
この柳本氏は、まるでアピールするかのようなセクハラ視線・セクハラ発言を、周りにバレないよう死角を突いて繰り返す、困った常連客だ。
今日も嫌な予感しかしない。
「堀田さんは彼氏いるの?」
そんな柳本氏の囁き声に、私は再び表情筋に最大限の注意を払う。
「いいえ、おりません」
「なんだ、それじゃあ寂しいんじゃないか?」
特に寂しくはありません、と全否定するようなことは言えないので、うまく受け流すことにした。
「私は仕事で手一杯ですから」
「またまた、強がり言っちゃって」
強がりではなく、本当に仕事で手一杯なのだけれど。
すると柳本氏は手にしているカクテルグラスのバランスを崩して、中身を盛大に溢す。
「おっと……しまった」
何が「おっと」だ。ただ手首を返して不自然にグラスを傾けただけだ。
輝きを失ってカウンターを這うカクテルの王様を見ていると、悲しみと同時に怒りが込み上げる。
それでも私は努めて憂慮の表情を浮かべながら、柳本氏に労りの声をかけた。
「柳本様、お洋服の汚れはございませんか? 染みにならないように、すぐにクリーニングに――」
その時、柳本氏が露骨に下心を晒すような上目遣いで私を見つめる。
「あぁ、汚れてしまったよ。とりあえず……拭いてもらおうかな?」
「かしこまりました。では失礼致します」
私は笑みを保ったまま、清潔なタオルを数枚用意して柳本氏に差し出す。
「柳本様、こちらをお使いください」
「ああ、ありがとう」
タオルを受け取る際に、柳本氏は私の手ごとしっかり握る。
でもこれは想定内。
握られた手をそっと引き剥がし、私はテーブルを拭き始める。
すると「そうじゃない」と呟いた柳本氏は、身を乗り出して私との距離を詰め、耳元で囁く。
「君には、私の手を拭いてほしい」
パーソナルスペースに入り込まれ、吐息混じりの声で囁かれる気持ち悪さに、背筋にブルッと寒気が走った。
誰かに助けてほしくてチラリと周りを見ても、すぐそばにいたのは、グラス磨きをする新人女子スタッフ。何となく異変を感じ取っているようで顔が引きつっている。
でも新人に助けなんて求められない。
五十嵐君は見当たらず、ほかのスタッフも作業に追われて異変に気づいていない。
今ここに、私の味方はいない……。
その時、私の頭の中に、昨日の弘臣さんの声が響く。
『なるほど、やはり君は聡明だな』
私は深く息を吐き出すと、背筋を伸ばす。
(落ち着け……自分で何とかしなくちゃ)
相手はこれでも大切なゲスト。怒らせてしまっては店の信用にも関わる。
ここは冷静に対処をと、営業スマイルを向ける。
「そういったことが必要でしたら、ホテルに確認の上――」
「今夜……どうだね?」
そう小声で言ってニヤリと笑う柳本氏。
「どう」って何。笑い方が怖い。そしていやらしい。
私は精一杯の営業スマイルを向ける。
「柳本様、そういったことはご遠慮いただきたく――」
「ほら、君は閉店後も付き合ってくれるんだろう?」
私は目をぱちくりさせる。
閉店後。閉店後は、閉店作業をして明日の開店に備えて必要な準備をして帰宅。帰宅後はカクテルの勉強をして、ボディケアをして就寝。以上だ。
「は、はい?」
「とぼけなくていい。生活に苦労している君を、私なら救ってやれるよ。ドンと甘えてくれればいい」
生活に苦労?
落ち着ける暖かい部屋で心置きなく過ごしている現状で、生活に苦労していると言えるのだろうか。
根も葉もないような話が、一体どこから出てきたのだろう。
そんな困惑で目を瞬かせていると、柳本氏の手がそっと私の手に伸びる。
ぞわっと寒気がした。
「君の手は艶めかしいね。ずっと触っていたいくらいだ」
すると柳本氏が私の手を指でスルッと撫で、ねっとりと捏ねるように触る。
「ヒッ……」
き、ききき気持ち悪い! 強烈な寒気がして思わず声を上げる。
それと同時に慌てて手を引き戻すと、柳本氏がニヤリと笑った。
「なんだ、こんなことで感じたのか?」
(信じられない! とんだ勘違い野郎……あ、違う。ゲスト。大切なゲストだ……)
自分に必死に言い聞かせていると、なおも柳本氏の言葉が続く。
「案外、初心でかわいいところもあるんだな。それもまた一興だ。あぁそうだ、今度君に上客を紹介してやろう。……君も、ハイクラスホテルの店の評判を落としたくはないだろう?」
「――ッ……」
「君は美しい見た目どおり、私たちを楽しませてくれればいい」
“美しい見た目どおり” ――その言葉が私の胸にグサリと刺さる。
最早笑顔を浮かべる余裕をなくし、身を震わせながら俯いてバーカウンターの下でギュッと手を握りしめる。
気持ち悪い……。怖い……。なぜこんなことをされ、こんなことを言われなければならないの? 女だから? ちょっと顔がいいから? だったらこんな邪魔なものってない。
女でなければよかったんだ。不細工ならよかったんだ。
どうして私は人からこんなふうにしか見てもらえないのだろう。
どんなに努力しても、どんなに実力をつけても、一人前のバーテンダーとしては見てもらえない。
悔しい……悔しい……悔し――
「随分と虫唾の走るようなセクハラ発言だ。それは彼女への侮辱だろう。刑法231条の侮辱罪で訴えるのが妥当だな」
私はハッと息を呑む。
(今の……声……)
ゆっくりと視線を上げると、カウンターの向こう側にかっちりとスーツを着込んだ男性の姿。
堂々とした立ち姿で眉間に皺を寄せるその声の主・久我弘臣の姿が目に映った。
ご覧いただきありがとうございます。
完結まで書き上がっているものを、推敲しながら投稿してまいります。
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