05-03.
弘臣さんのいる重い世界を急に突きつけられたかのよう。
バーでただ話しているだけでは知り得なかった世界。
私が向き合っているのはカクテルとゲスト。
弘臣さんが向き合っているのは人の命と重い責任。
比べものにならないほど向き合っているものの大きさが違う。
闘っている世界のシビアさが全然違う。
「すまない。そんな顔をしないでくれ。自分にできることを自分で仕事として選んだだけのことなんだ」
そう言って、弘臣さんは目の前に運ばれてきたメイン料理の牛ヒレステーキにスッとナイフを通して口に運ぶ。
端から綺麗に食べ進められるのを見ていると、弘臣さんの几帳面さが垣間見える。
弘臣さんは「自分で選んだ」と言ったが、本当に自分の意思で自分の将来を自由に選べたのだろうか。
祖父・父が医師で弘臣さん自身も後継者になることを望まれて――
「さあ、次は君の番だろう? 君の仕事のことを教えてくれ」
「あ……そ、そうね。私の仕事の話ね」
さすがに私にはそこまで突っ込んだ質問はできなかった。今は知らない振りをして自分の話をするだけだ。
「私は、元々別のホテルにいて、今の東都ホテルのバーには去年職場を移したの。バーテンダー歴は7年くらい」
すると弘臣さんがふと問う。
「君も、顔をすぐ覚えるタイプか?」
「顔? あ、うん。私は結構覚えるタイプ。一回見るとだいたい覚えるかな」
「バーテンダーというのは皆そうか? 源臣も恐ろしく人の顔を覚えるのが早い」
「人それぞれよ。覚えるのが苦手な人もいる。久我さんはトップバーテンダーって言われるくらい能力の高い人だから、そういうことには人一倍優れていると思う。弘臣さんは患者さんの顔、覚えないの?」
「俺は顔というより、頭部画像とか切開した形とか縫合の跡とかで、ああ、あの患者だな、というふうに覚えるな」
切開した形に縫合の跡……ちょっと気持ち悪く思えるんだけど。
私は引き攣った笑みを浮かべながら弘臣さんの話を聞く。
「ただ、君のような接客業ではないから、覚えるというよりカルテを見て思い出すというほうが多い」
「あー、なるほど……。バーテンダーの場合は顔も名前もお酒の好みも、とにかく覚えることだらけです。職場を移ってすぐは大変でした」
「そうだろうな。……君は確か、東都ホテルのバーで2番目のポジションにいるんだったよな?」
「そう。『シニアバーテンダー』っていうの。だから今は、更に上の『チーフ』になることを目指していて――」
そこまで話してハッとする。
「あ……違う。私は……世界の舞台を目指していて……」
テーブルの下で、ギュッと手を握りしめて俯く。
嘘だ。本当はもう、世界の舞台なんて目指してはいない。
結果が伴わず、自分の実力を思い知り、諦めてしまっているのだ。
でもそれを弘臣さんに話して、がっかりされるのが怖い。夢を追えなくなってしまった弱い自分を知られるのが怖い。軽蔑されるのが怖い……。
俯いたまま言葉が出なくなってしまった私の耳に、弘臣さんがハーッと息を吐き出す音が聞こえる。
ハッと顔を上げると、弘臣さんが眉間に皺を寄せて頭を抱えていた。
「俺はあの時も間違えたんだ……」
「……え? 間違えたって……何を?」
「君に『努力を続けられるということは称賛に値する』と伝えただろう。まだ続きがあったんだ」
「続き?」
「ああ。『称賛に値するが、時々、疲れないか? そういう気を張ってばかりの自分に』と。そんなことを言えば君に……軽蔑されやしないかと思って言えなかった。軽蔑したか?」
私は混乱する頭の中を少しだけ整理してから、首を何度も横に振る。
すると弘臣さんがホッとしたような表情で微笑んだ。
「そうか。……俺はずっと『一人で全てを完璧にやろう』と思ってやってきた。だが、ただの医師でいるうちはそれで良かったが、父と共に経営に関わると、そうはいかなくなってきた。医師の仕事をしながら事務的な仕事を多くこなすのはどう考えても無理があった。そうして初めて人に助けられてわかったんだ。『ああ、俺は疲れていたのだな』と」
私は察する。その助けてくれた人って――
「それって……葉月さん?」
「ああ、そうだな。彼女は久我家に子孫を残してくれた人でもあるからな。すっかり頭が上がらないんだ」
そう返事をした弘臣さんを見ると、優しく微笑んでいた。
私の胸にツキンと痛みが走る。
こんなにも柔らかな表情で葉月さんのことを語る弘臣さん。
見ているのが苦しかった。
「葉月さんは……凄いですね……」
私はテーブルの下でギュッと手を握りしめる。
夫である久我さんだけではなく、義兄の弘臣さんまで虜にしてしまう葉月さん。
家族として支え、仕事で支え、いつだって私はそんな彼女には敵わないと思ってしまう。
比べることではない。自分は自分でいいのだ。そう思う一方、輝いて見える彼女を羨ましく思う気持ちはいつも心のどこかにあって、自分のうまくいかない仕事やプライベートを悲観的に見てしまう。
次第に心をどす黒く染めるような卑屈な感情が沸々と湧き上がってきて、弘臣さんをまともに見られなくなった。
「俺は……また何か間違えたか?」
弘臣さんの言葉に私はハッとして顔を上げる。
「そういうわけでは……私自身の問題です」
弘臣さんが悪いわけではないのに気遣わせてしまった。
こんなふうに人を妬ましく思っているような自分を、弘臣さんには知られたくない。
本当はこんなにも脆くて弱くて、そして自分に自信がない。
そんな自分が仕事を一人で全て完璧にやろうだなんて無理があって疲れる。
弘臣さんの言うとおりなのだ。
でも――
「職場で私を助けてくれる人なんて……」
孤立する私を助けてくれる人なんて……甘えられる相手なんて……。
「私はあのバーで2番目のポジションですから。部下に甘えるわけにはいかないんです」
自分を強く保つほかない。脆くても弱くても自信がなくても、それを隠して一人で立つしかないのだ。
私が笑顔を向けると、弘臣さんはハァッと深い溜息をつく。
「難しいな。人と深く関わろうとすることは、俺にはゴールの見えない迷路のようだ」
「そんなに……難しいですか?」
「ああ、難解だな」
君を理解できない。
そう言われているようで、息が詰まるような感覚がした。
その苦しさは寂しさでもあり、拗ねたような言葉が口から飛び出す。
「……それなら、最初から迷路に入らなければいいのでは?」
いっそのこと、関わらないでくれたら楽なのに。もっときちんと拒絶されれば諦めもつくかもしれないのに。
するとしばらく沈黙した弘臣さんが口を開いた。
「これまではそうしてきたんだ。だが……君の場合、気がつけば迷路の中に入ってしまっているから困るんだ」
「……え?」
「どうしたら抜け出せるのか皆目見当も付かない。だから今日、君と会って話をしようと思ったんだ。しかし、余計に迷い込んでいる気がするな」
どうしたものか、と首を傾げる弘臣さんに私は呆気にとられる。
無意識に私の内に入ってしまったということだろうか。
そしてこの人は、関わらないようにするわけでも拒絶するわけでもなく、本当に私を知ろうとしてくれているのでは……?
「私、そんなに難しいですか? 結構普通だと思うんだけど」
「難しいな。だがせっかく入り込んだんだ。これを機にゴールを探したいと思うのは自然なことだろう?」
ゴールを探すのはつまり、『理解する』ということだ。
こんな私を弘臣さんは知ろうとしてくれている。
どうして?
嬉しさと恥ずかしさと困惑とが混ざって、口から出るのは本心とはほど遠い言葉だ。
「私を攻略しようだなんて、いい度胸じゃないですか。お手並み拝見です」
我ながらかわいくない返事だと思う。
強がってみせるものの、そんなの嘘だ。
攻略されるというより、既に自ら降参しているようなものだ。攻略してほしいと白旗を振ってゴールへ導きながら待っている。
それどころか、迷路に迷い込んでいるのは私の方だ。
弘臣さんの見えない感情に振り回され、少しだけ見えた感情にも振り回される。ちょっとしたことで一喜一憂する私。
もうこれは紛れもなく『恋』。
この未来のない男相手に、叶わぬ恋心を抱いてしまった自分を憂う。
出口のない迷路の中で、私は一体何をしようとしているのだろうか。
道に迷いながら、少しでも何かを得ようと踠いている?
いつか出口ができあがるのを待っている?
「さぁ、次の質問ですよ。弘臣さんは――」
この人を知りたい。
私のことを知ってほしい。
そして少しでもこちらを向いてほしい。
そう願いを込めて、私は質問を繰り返す。




