03-03.
すると目の前にいる『久我さん』がのっそりと起き上がって、私を逆に押し倒した。
「悪いが、押し倒されるのは趣味ではない」
その雄々しい行為と眼差しに、私はうっとりと笑みを向ける。
「ええ、お好きに」
もう何でもいいから好きにしてほしい。
私を見てくれる『久我さん』ならそれでいい……。
私は愛おしい『久我さん』を見つめると、手を伸ばして頬に触れる。
「『久我さん』……」
大好きな人の体温を感じ、私は幸せを噛みしめる。
そして射抜くような視線で見つめる『久我さん』は、頬に触れる私の手を取って、指に口付けをした。
ああ、私はなんて幸せなんだろう。
やっと私は満たされる……。
そう思って恍惚とした刹那――
「文乃」
頭の芯まで貫くような鋭い声が耳から飛び込んできて、私の肩がビクッと跳ねる。
聞こえた声に強い違和感を抱いて我に返った。
違う。
久我さんは、こんなふうに私を呼ばない。
いつも冷静な口調で『堀田』と呼ぶ。
店に客として行った時は、深く低い声で『堀田様』と呼ぶ。
「あ……私……何を……」
恐る恐る目の前の人を見つめる。
今、名前を呼んだのは久我さんではない。弘臣さんだ。
そう自分に言い聞かせるうちに、視界がじんわりと滲んだ。
自分の名前を、想い人ではない人に呼ばれて思い知る。
――終わったんだ。
そう思った瞬間、トゲだらけになった私の心がパリンと割れて、全てが粉々に崩れた気がした。
想い人ではない人に身代わりで愛情を求め、叶わない想いを満たそうとした。
実らない、行き場のない気持ちを、想い人ではない人に捧げようとしてしまった。
これでもう、この気持ちの清さは失われてしまった。
報われない苦しさに耐えきれず、自らの心を自ら汚して本当に終わらせてしまったのだ。
もう想いを向ける資格もないほどに……。
(私……何して……)
体がカタカタと震えて止まらない。
それと同時に実感する。
憧れだけではない、初めて自分から好きになった久我さんへの恋は、確かに存在していた。
ずっと偽物みたいな恋ばかりだった私が、初めて本気で恋をしていたのだ。
そして同時に失恋したのだ。
そう自覚した時、心の中で混沌としていた苦しみを洗い流すように、熱い涙が頬を伝った。
叶わなかった恋心をどう消化すべきなのか術がわからなかった私。
こんな道を踏み外すような真似をせず、ただ泣けばよかったことすら私にはわからなかったのだ。
(バカだな、私……)
嗚咽と共に零れる涙は、決壊するように次々と溢れ出し、後悔と罪悪感ばかりが募っていく。
すると――
「眠い。限界だ……」
突然、弘臣さんが私の手を解放して呟いた。
「え?」
弘臣さんはバタリと私の隣に寝転がると、背を向けてそのまま眠ってしまった。
その背中を、私はポカンと見つめる。
「嘘……寝ちゃうの?」
返事はない。
この状況で私は放置? 嘘でしょ?
信じられない気持ちで返事のないその人の背中を眺めていると、だんだんこの光景がおかしく思えてきて、私はプッと笑った。
「何これ。押し倒しておいて寝ちゃうとか、どうなのよ」
笑いと共に、ホッとして涙がポロポロと溢れ出る。
「おかしな人……っ……」
それから私は気が済むまで泣いて、そして泣き疲れた頃に弘臣さんの隣で眠った。




