六
求めているときには手に入らないもの。そう実感する出来事があった。
あまりにもすることがなかったので、宿題であった『美術館巡り』のレポートを作ることにした。担任だし。遠いけれども、上野森美術館へ足を運んだある日。現代美術の作品展があり、素人の僕でも引きつけられる作品や、僕にも描けるだろうとおもってしまう作品もあった。パンフレットを手に取り、気になった作品のポストカードを購入して家に帰ろうと上野駅に向かう途中。
父さんが、居た。
間違えない。確かに父さんだ。知らない女性と、小さな女の子を連れて。
とても楽しそうに。
「パパ、ミユね、キリンさんみたい。」
女の子が父さんをパパと呼ぶ。ショックと同時に怒りがこみ上げる。高校になった今、大人の事情、というものはどんなものかは解っているつもりだ。
つまり、新しい家庭を持った。
僕は距離を置いて父さん達の後をつける。入場料600円。高いなと思ってはいられない。見知らぬ女性は母さんよりちょっと年上か、同い年くらい。夏休みの動物園に相応しい、どこにでもある家族。ニシキジ、レッサーパンダ、インドライオン、スマトラトラ、ハートマンヤシマウマやアミメキリン。肩車したり、写真を撮ったり、ビデオを撮ったり。小さな麦わら帽子。遠い、昔の記憶がふと蘇る。僕がまだ小学生低学年か幼稚園の頃、動物園に行きたくて父さんに駄々をこねたことがあった。
「休みなんだから、久々に家に帰ってきたんだから、連れて行ってよ。」
でも父さんは何処にも連れて行ってくれなかった。高校になって「久々に家に帰れたんだからゆっくり家で寝かせてくれよ。」という父さんの気持ちはわかる。
すごく、悔しかった。
すごく、悲しかった。
どうして、父さんは僕と動物園に行ってくれないのに、その子とは行くの?
心の中の、子どもの僕が泣く。僕は気がつけば、藤川家の父的役割を担っていた。だからわがままは言わないし、弱音は見せない。
でも、父さんからの愛情をどこかで欲している。絶対に、見せないけど。心には5、6歳の僕が、居る。オヤジと呼べない、僕が居る。
日が沈んできた頃、母親らしき女性と女の子はお土産売り場へと消えていった。父さんは近くのベンチに座った。今しかないとおもい、僕は早足で駆け寄る。目の前で立ち止まる。携帯をいじっていた父さんは見上げて、驚いた顔をした。殴りかかりたい気持ちよりも先に、言葉が出た。
「どうして。」
声が震えていた。涙をこらえる。父さんは暫く黙っていた。携帯をポケットにしまうと、
「すまない。」
一言だけ、言った。そんな言葉は求めていない。
「すまない?ウチはどうするんだよ?母さん、毎日泣いてるんだよ!僕だって第一希望の学校を嫌々転校したんだよ?なのに一言謝れば済むと思っているの?」
「何も言い返せない。謝っても許されないとわかっている。」
父さんはベンチから降り、僕の前に土下座した。
「お願いだ、今の家庭を壊したくない。“やっと手に入れた幸せなんだ”。」
血の気が引く。
「は?どういう事だよ。僕らはどうなってもいいってわけ?」
「金はちゃんと、先週から入れてあるし、今後も入れる。」
「金を払えばいいって問題なの?」
「すまない。」
「僕を、捨てるの?」
「すまない。」
溢れる涙。僕は急いで出口へと走った。
小さな僕が、そして僕が、泣いた。父さんに、捨てられた。家に帰ってこない父さんを軽蔑していた。でも、心の奥底では愛されたいと思っていた。
「いらっしゃいま……おお圭吾!久しぶり。」
気付けば健司の店に来ていた。子犬達、子猫達がたくさんいる店。
「オヤジー、圭吾が来たぁー。」
奥からオヤジと呼ばれた男が出てきた。何度かお会いした、スキンヘッドの男。
「おぉ、圭吾かぁ。」
図太い声、首には金のネックレス。誰がどう見ても組にいそうな男。両手にはチワワ。
「可愛いですね。そのチワワ。」
「そうだろう!この前生まれたばかりなんだ。」
オヤジさんは一匹、僕に手渡した。小さいけど温かいチワワ。オヤジさんは僕の顔をみて、頭に手を乗せる。小指の先がない大きな手。
「よし、肉食いに行くか!」
店の近くにある安楽亭へ入る。柄シャツを着たオヤジさんが入るなり、店員の顔が引きつる。健司とオヤジさん。一緒に歩くとパシリの若造、になった気分だ。
「ご注文が決まりましたらお呼びください。」
アルバイトの女性は、水とお手拭きを置く。慎重に。
「飲みもん何にする。」
「あ、えっと…じゃあコーラで。」
「辞めとけ。」ギロリと睨む。
「骨が溶けるから辞めとけ。」
あ、はいすいませんとこじんまりとして謝る。骨が溶けるとか、健康に気を遣っているとは思わなかったので少し可笑しかった。
「オレンジジュースにしとけ。」
「はい。」
「じゃ、俺も。」
オヤジさんは3本指を立てる。
「オレンジジュース3つで。あと肉食べ放題」
店員はビックリした顔で立ち去った。出されたオレンジジュースを強面のオヤジがストローでチューチュー飲む姿に思わず笑ってしまった。健司も笑う。オヤジさんも笑う。
「元暴力団がオレンジジュース飲んでるなんて笑えるよな。」
健司が腹を抱えて笑う。
「えっやっぱりそっち系の人だったんですか?」
「こっちじゃねぇぞ?」
オヤジさんはオカマの真似をする。怖いけど、とてもユーモアのある人。僕は、先程の出来事を忘れる為にも、いっぱい笑って、いっぱい肉を食べた。健司はオヤジさんを尊敬している。そんな二人を見ているだけで涙がポロポロこぼれてきた。
「食え食え」と泣く僕を二人は温かく見守ってくれた。
落ち着いた頃、僕は今日あったことを話した。デザートのバニラアイスは溶けていた。
「禁煙してるんだが。」
そういってオヤジさんはタバコを一本出した。
「この話をする時はタバコがねぇと上手く話せねえ。」
フーッと煙を吐く。
「知っての通り、俺は男手1人でコイツを育ててる。」
また一吹き。
「嫁はな、コイツがちいせぇ頃に逝っちまったんだ。」
そうなんですか、と相づちをうつ。
「嫁はな、ソープ嬢でな。俺はそこの客だった。綺麗な女でな、俺はバカみたいに毎日通った。そして嫁に結婚を申し出た。嫁は喜んだが、借金があるから結婚出来ねぇって断ったよ。」
タバコの灰を落す。
「俺は嫁の為に働いて、危ない橋を渡ってなんとか嫁の借金を返したんだ。したらコイツが生まれて、そりゃあ毎日が幸せだった。でもな、幸せはそう長くは続かなくてよ、癌で逝っちまった。」
吸いかけのタバコを消す。
「俺はこんな身でよ、頼る親戚の当てもなく、組から抜けてオヤジが残した小さなペットショップのあとを継いだんだ。まともに働いたことねぇし、生き物扱うんでなかなか最初は上手くいかなかった。」
水を一口。
「でもな、コイツには辛い想いをこれ以上させたくねぇって思ってよ。かーちゃんみてーに美味くねぇが毎日弁当つくったし、授業参観にも、運動会にも出た。これしか、俺にはコイツにしてやれねぇから。女じゃねぇから乳もでねぇし。」
今度は健司が口を開く。
「そりゃあ授業参観の時にかーちゃんが来てくれるヤツは、正直羨ましかった。でもさ、一度だって寂しいって思ったことはなかった。学校から帰ってくるとオヤジが『おぅおかえり』って言ってくれるし、一緒にメシも食えたし。」
照れを隠しながら話を続ける。
「片親だって、もう片方から大切にされてるってわかれば、辛くない。圭吾はさ、かーちゃんから愛されてないのか?」
だまって、首を振る。
「毎日、家に帰ると『お帰り』って言ってくれなかったのか?」
「言ってくれた。」
「毎晩、一緒に夕飯食ってくれなかったのか?」
「食べた。」涙がまた、溢れてくる。
「お帰りの一言、夕食を食べる、それだけでも十分、愛情を感じないか?」
「うん。」かすれた声で返事する。
「大丈夫、お前は愛されている。」
オヤジさんの一言で声を出して泣いた。
「たとえオヤジがいなくなったって、お前のかーちゃんが、お前を愛しているから。今度はお前が、かーちゃんを支えてやりな。」
愛されたい。愛されてないのではないか?自分の中での葛藤、不安が、涙と一緒に流れ落ちた。父さんには愛されていない。でも、母さんがいる。そう思えただけでも、気持ちが軽くなった。いつも身近で僕を愛してくれる人が居ることに、気付いた。オヤジさんは僕を家まで送ってくれた。珍しく、母が起きていて、玄関まで出て深々と頭を下げた。僕も下げた。
「じゃ、また二学期な。」
「いつでも遊びに来いよ。」
車の音がどんどん遠のく。横にいる、やせ細った母に、初めて言った。
「今まで、ありがとう。今度は僕が、母さんを支えるから。」