エピローグ
雨が降った後のような、やけに蒸し暑い夜だった。
晩飯を待つ間、俺は背を丸めて胡座をかいて扇風機の前に座る。扇風機が首を振って風に揺られた前髪が額に当たりこそばゆい。
「えっ……」
なんとなくスマホの写真アプリを開いた俺はいつの間にか増えていた写真たちに目を疑った。
一番新しい写真を開く。俺とツーショットを撮るように隣り合って笑う知らない女性。
心霊写真の類い。幽霊が写っているのかと思った。
「いや、まさか」
引き攣った笑みを浮かべて一人呟く。
そんなわけない。こんなにも質感を持った幽霊がいるものか。まだ誰かの悪戯や俺がたまたまこの人のことを忘れているだけの方が納得がいく。
「でもなあー」
俺は首を捻って腕を組む。
本当にこの女性のことを俺は知らない。
あまり忘れっぽい方では無いしツーショットを撮る相手となれば、より記憶に残っていそうなものなのに一向にこの女性の名前は出てこない。
目を瞑り記憶を探る。
不思議と思い出そうと深く考えるたびに暖かくて甘い気持ちが湧き上がってくる。
「はい。座ってー。ご飯できたよ」
「うん」
立ち上がり食卓に着く。
体はやけに疲れていて早めに風呂に入りたい気分だった。
「父さんは?」
「村の会合で帰り遅れるみたいよ」
「ああそう」
村の会合という名の酒盛りだ。
ベロベロに酔って帰ってくるだろう。
「部活どうだったの?」
「部活……」
確か俺は昼頃に学校に向かった。
珍しく車を出して服は文化祭のTシャツを着て行った。
美術室の扉を開いたところまでは覚えている。ただ色塗りの作業はどのくらい進めたんだっけ。
「うん。まあ普通」
「普通って何よ。進んだの?」
母は一々、俺の絵画の進行具合を気にしていた。
暇なら部活に行ってちょっとでも塗ってきなさいよ、とよく言われる。
「多分」
煮え切らない返事をする俺に呆れたのか、ため息を吐く。
「今日、商店街行ってたんだよね」
「ふーん、珍しい。なんで?」
問われ、揚げナスを箸で持ち上げていた俺は固まった。
確かに、なんで、だろう。
「絵があまり進まなかったから」
一向に記憶のピースは繋がらない。
だから欠けたパーツを予想しながら埋めていく。
「まあ時に散歩も大事よね。ひらめきが降りてくるかもしれないし。ピコーンって」
「そうだね」
夕食を終え皿の片付けをしていた俺にある一つの仮説が浮かんだ。
この村に古くからある伝説。産土神、タチキリ様の話だ。
「まさか」
背筋がぞくりと冷たくなる。
タチキリ様は人と人との縁を切るといわれる神様だ。悪縁を切ってくれるという神様は古今東西、割といるもので恋愛成就ならぬ失恋成就の神様なんてものまであるらしいが、タチキリ様の伝説もそれに近い。
伝承によるとタチキリ様に切られた人は人々の記憶から消えてしまうらしい。
忘れ去られた時、真の意味で人は死ぬとどこかで聞いたことがある。その考えに基づけばタチキリ様は残酷な神様と言えた。
──俗世とを切ったのです。
ふいに声が聞こえた気がした。誰の声だ。頭を抑えて強く考える。記憶に靄がかかっている。
靄の中から聞こえた声を必死に思い出そうとする。
タチキリ様に切られた人がいる、のか。
「……そんなわけないか」
それこそ幽霊と同じレベルの話だ。
下らない妄想だと鼻で笑ったものの写真に写った女性の存在はずっと俺の頭の片隅に残り続けた。
夏休みが終わる前日に小さな頃から通っている美容室で髪色を黒に戻してもらった。
「すぐ髪色変わってくるから定期的に黒に染めな」
鏡に映る地毛の黒髪とはまた違う墨汁に浸けたような黒一色の髪を摘み持ち上げて観察する。
金髪に変えた理由は些細なことだったけれど受験が終わればまた髪色を変えようと思うくらいには気に入っていた。
翌日、一月ぶりに授業を受けるため学校へ登校する。
軽く挨拶を交わしながら教室に入ると前の席の友人が椅子に座ったまま振り向いて、
「光さー夏休みに彼女いた?」
首を傾げておかしなことを聞いてきた。
「いや、突然なんの話だよ」
「いやいや、いた気がしたんだって」
「いない」と言いかけ、写真に写っていた女性の存在をふいに思い出した。
その話を友人にするか考え「いない、いない。全然」と笑って否定するだけにしておいた。根掘り葉掘り聞かれたりすると面倒だったし、何より彼女ではないような気がしていた。
もっと何か違う……。
三年の二学期からは勉強漬けの日々だった。
夏休みの間は全然勉強していなかったのに不思議と二学期に入るとモチベーションは高かった。幸い今日まで積み重ねていた分があったので模試の結果もずっと悪くない。
それでも何かを追いかけるように勉強に打ち込み続けた。
二月の終わり、俺はパソコンに映る受験番号に家で飛び跳ね、気がつけば長かったような高校生活は終わりを迎え、あっという間に桜が咲いていた。
初めて大学生として大学のキャンパス内を歩きながら、これからどんな大学生活を送るのだろう、と俺は浮き足立っていた。周囲の一年生たちも同じようにどこかソワソワとして緊張しているように見た。
「うい、一緒じゃーん」
後ろから背中を叩かれ振り返ると高校の友人がいた。高校生活最後のクラスメイト。一学期の頃、前の席に彼は座っていた。
「久しぶり」
結局、大学に入って新しい友人も少しは出来たものの大体遊ぶのは高校からの知り合いばかりだし、サークルもガクチカのため名前だけ参加している形になった。
人生の夏休み、なんて言われるキャンパスライフは想像と少し違った。
「これで良いのかな」
なんとなく選んだ講義を受けながらノートにペンを走らせる。
手が止まりペンを握る手を見つめる。
──また、会いましょう。
ペンで汚れた小指を見ながら、そんな約束の言葉を思い出した。
六月の下旬、なんとなく参加してみた学外の写真サークルの人たちと紫陽花畑に向かうことになった。比較的ガチ寄りのサークルで写真展などを開いたりするようなメンバーが集っている。そんなサークルの中で俺と何故かやる気を見せた友人だけがお遊びみたいな機材で写真を撮っていた。
一つの紫陽花の株に対して一時間かけて写真を撮影したりする先輩を横目で見つつ「あちー」と何度も服の襟を動かし中の熱気と湿気を外へ叩き出した。ジメジメとしていて熱い。
「もうすぐ夏か」
青空に浮かぶ雲を見上げながら思う。入学してからもう既に二ヶ月を過ごしたという実感は無い。
俺と友人は近くの土産屋に入ってアイスを頼んだ。店内は少し寒いくらいの冷房がかかっている。
受け取ったアイスは舌の上でとろけるような感じではなく、かき氷を押し固めたようなアイスでコーンの匂いが強く香った。
アイスを食べ終えた俺たちはダラダラとお土産コーナーの方も覗いてみることにした。
どこにでもありそうなご当地のキーホルダーや煎餅やクッキーの詰め合わせ。それと四季折々の花を使った推し花の栞などがある。
「なんの花だこれ」
友人は壁にかかった鮮やかな青と紫の花を使ったリースを見上げていた。
俺は「桔梗」と呟く。
「おー、正解」
値札に書かれていた花の名前を見て、友人は特にこれといった感慨もなく言った。
──花言葉は誠実。
物悲しい風鈴の音、ひぐらしの鳴き声。心臓が身じろぐように揺れる。
リースを見つめて、なんで俺は知っていたんだ、と記憶の中の霧に手を伸ばす。
「行こうぜ」
友人に呼ばれ土産屋から出る。サークルのまとめ役をしている人が、
「水辺も近くにあるみたいなので行ってみましょうか」
と手を挙げた。
先を行く先輩たちの後を追ってゾロゾロと歩きながら白い紫陽花が一面に咲き誇った坂を見上げた。
後でここの写真を撮ろう、と考え道の傍に立っていた人とすれ違う。
どこかの大学生だろうか。軽く会釈して目が合う。
ふいに俺たちに横薙ぎの強烈な風が吹いてきた。
「あのっ」
なぜか俺は声をかけていた。
背後から「えっ!?」と慌てた友人の声がする。
その女性は薄く笑い、
「……ナンパ?」
と首を傾けた。肩に届くくらいの髪が重力に従い柔らかく揺れる。
揶揄うような口調に俺は胸の下あたりから火がついたように熱くなって、
「いやっ、ナンパとかじゃなく」
と首を横に振って早口で答えた。女性は満足そうに口元を綻ばせ「じゃあ、なに?」と聞く。
なぜ俺は話しかけたのか自分でも分からない。この女性のことを俺は何も知らないはずだ。いや、何か知っているのか。目を瞑り記憶の霧を探る。手応えは相変わらず無い。
ふと霧のそばに置かれた一つの箱を見つけた。隠されるようにあったその箱を拾い上げると霧が月明かりに照らされた水面に変わっていた。川のせせらぎを聞きながら実家の辺りにある川だと景色からすぐにわかった。ただその時の記憶が俺にはない。
まぶたを上げて顔を上げ彼女の目を真っ直ぐ見つめる。
俺は封をされたままだった箱を開いていく。中から言葉が自然と飛び出した。
「……ずっと一緒にいたいって思いました」
振られるなら、それで良い。多分何かの気のせいだと思う。それこそよく先輩たちが騒いでいるような好きタイプというものに偶然合致しただけかもしれない。
彼女は二重まぶたを僅かに上げて目を丸くする。
「ええええ! おまっ、そんなキャラだっけ!?」
後ろで友人の騒ぐ声がする。
サークルの人たちが動かなくなった俺たちを見つめている。
周囲の人たちの視線も集っていた。
「うわっはははは! 突然すぎ!!」
彼女の隣に立っていた人が快晴の空みたいに豪快に笑った。
頬を小さく上げ目を細めて彼女は笑う。俺も彼女につられ笑った。
笑い声が引いていくと穏やかに流れる風だけが残った。
紫陽花の葉が擦れる音、地面の湿った匂いが立ち上る。さっきまで胸の奥で暴れていた熱が嘘みたいに静まり返っていた。
「ありがと」
声色が優しく凛と響く。
名前も、どこの誰かも知らない彼女から視線が外れない。それがどこか懐かしく同時に初めてのことのようにも思う。
「……じゃあ、行こ」
彼女は隣にいた女性と共に坂の上へと歩き出す。
「良いのかよ」
友人の声がして肩を叩かれた。
呼び止める言葉が俺の中で見つからない。彼女の背中が先を行っていた先輩たちに紛れていくのを俺は見送る。胸の奥から水面に石を投げたみたいな波紋が広がっていく。
誰の声だったのか、いつの記憶だったか、ゆっくりと記憶は濁り混ざり薄れていく。
やがてそれも消えていくのだろうと思う。
横を見ると白い紫陽花が坂一面に咲いている。
その白さがやけに眩しくて俺は少し目を細めた。
「これでいい」
背後から「お嬢!?」と誰かを呼ぶ声がした。
「光くん!」
頭上から黄色の目を光らせ手を広げて降ってきた。
咄嗟に何故か反応できた俺は手を広げて彼女を受け止める。
「わたしは覚えてる」
彼女は真っ直ぐ目を見て言い切る。
俺は笑いながら「なんの話ですか」と聞く。なんで俺の名前を知っているのか、突然なんでこんな行動をとったのか、俺にはわからない。
それでも今から人生の夏休みは始まった気がした。
9月中旬から書き始めて、一ヶ月投稿しなかったり、タイトルが二転三転したりと色々ありましたが、ここまで書き続けられたのも読者の皆様の反応あってのことで執筆を続ける上で大変励みとなりました。
六ヶ月間、長らくお付き合いいただきありがとうございました!
『夏草枯々』




