30.紫陽花
二月の下旬、わたしの大学受験はあっさりと終わりを迎える。
家でバイトの準備をしていた時だった。
「紅ちゃん、受かってたわよ」
母から電話越しに合格を知った。
二度目の合格ということもあり「そう。良かった」と控えめな返事をすると、
「ねーほんと良かった」
涙ぐんだ母の声にわたしもつられて泣いてしまった。
二度目の学生生活は不思議と順調だった。
十八歳だった頃のわたしが感じたふわふわと地に足のつかないような不安と何かしなくてはいけないという焦燥感が無いからかもしれない。
少なくとも周囲の人間には恵まれた。
彼氏と結婚を前提に同棲して別れた四年遅れの同級生を「お嬢」とみんなは受け入れてくれた。わたしなら引くだろう。
「たまたま決まったあだ名がバイト先と一緒って凄いけど」
授業を選びサークルに入って数ヶ月、次の講義まで空いた時間を潰すため友人と食堂で喋っていた。
奇跡のような確率にわたしは苦笑いを浮かべる。
「どこでバイトしてんの?」
「普通のチェーンの居酒屋」
「居酒屋!? お嬢が? うわっ行きてー」
彼女の溌剌とした声が食堂内に響いた。お酒好きな彼女は適当な理由をつけて飲みたいだけだと思う。
彼女との知り合ったのも飲み会の席だった。
酔いのせいかほとんど包み隠さずこの一年の話をしてしまったわたしに彼女はうわっはははと豪快に笑い「超お嬢様じゃん」と言ってくれた。
その後、外の側溝で盛大に吐いた彼女の背中を摩って介抱し仲良くなった。
「何々」
ゾロゾロと彼女の知り合いが集まってくる。
同じフォト部に所属する服装と美容に気を使う真面目な子たちだ。
「お嬢もいるじゃん」
「いやっお嬢がさーバイト先、居酒屋らしくて」
「「えー!」」
居酒屋バイトをしているだけでそこまで注目されると参ってしまう。
そんなにおかしいだろうか、と首を傾げた。
「逆にわたしって何してそうに見えてるの」
「CAさんとか」
「美術館の受付?」
適当なことを言う面々に口をぽかんと開けて絶句した。
「超清楚系って感じだし」
誰かがちくりと刺すように言う。
違う。わざわざお金を出して下品な格好をしたくないし、なにかを断ずるような強い口調は性格的に好きじゃない。それでも周りは勝手にわたしを評価する。
それは仕方ないことだと思うけど、どんな評価だろうとわたしはみんなで仲良くしていたいと思う。
「あっそういえばさ話変わるんだけど、次のフォトの活動って現地だっけ?」
「そうだっけ?」
話題が移る。友人がどこまで考えているかは知らないが助かったのは事実だ。
「次の週末だから、まっどっかで聞いとけば大丈夫か」
特に気にしていないような呑気な調子で友人は言った。
アラームが鳴る。わたしのスマホだ。
「じゃあ講義行ってくるね」
バッグを手に立ち上がり、みんなに挨拶をしておく。
「あいよー」
ひらひらと手を動かして見送る友人とその日は別れた。
再び彼女と直接顔を合わせることになったのは数日後の話題に出ていたフォト部の活動だった。
「お嬢、こっち行こうよ」
先をいく彼女に連れられ埼玉の公園で紫陽花の写真を撮る。
梅雨の時期、雨雲と雨雲の切れ目を狙って片道二時間の道のりだった。まとわりつく湿気にうんざりしながら歩く。髪も定期的に切ってはいるもののだいぶ伸びて、そのせいで首元が余計に暑い。もう一回ばっさりいこうかと思いつつ、なんとなく髪は伸ばし続けていた。
「いつ見ても羨ましいカメラだねー」
彼女がわたしの父から借りてきたカメラを見ていた。
小学生の頃、わたしに語っていたこのカメラを買った理由を父は忘れていた。わたしは覚えていてカメラを借りたいと申し出た時、父は「いつ買ったかな?」と首を傾げていた。
「はいっちーず」
無茶振りに対して咄嗟に変顔ができる彼女が羨ましい。
わたしは涙が出るくらい笑った。
ファインダーの中で映る白い紫陽花の花弁が日差しに照らされ淡く光る。
ふわりと風が吹いてきて、一面、真っ白な紫陽花で埋め尽くされた坂が波打つ。
坂の下から他の大学の人たちだろうか。若い五、六人のグループがやってきていた。わたしたちは道の端に寄る。
「あーどうもすいません」
先頭の人が頭を下げながら横を通っていく。
真ん中にいた金髪の少年と目が合う。光くんだと一目見て気付いた。一年近くたっているから背は伸びていたし顔つきもさらに大人っぽくなっていたけれど、それでも分かる。
「うわっ……」
強い風が吹いてきた。
あちこちで小さな悲鳴や驚いた声が聞こえる。
髪を抑えながら目を開けると花弁たちが宙へと浮き上がり白く瞬きながら青空の中を舞っていた。
「あのっ」
光くんが顔を上げ真っ直ぐこちらを見ていた。
胸の内側から噴き上がる感情に流されまいと手を強く握りしめる。
「ナンパ……?」
背後から「お嬢、ナンパされてるじゃん」と同じことを思ったらしい友人の茶化す声が聞こえた。




